どうして 心 ごと 奪 われ て も まだ。 蜻蛉日記『鷹を放つ』現代語訳

歌詞「長唄「藤娘」(いたこ出島、藤音頭を含む)」

どうして 心 ごと 奪 われ て も まだ

西行と吉野山 そして 町 まち の 中 なか に、はいろうとした 時 とき 、サムエルは 高 たか き 所 ところ に 上 のぼ るため 彼 かれ らのほうに 向 む かって 出 で てきた。 12 みなさんは、流れ星を見たことがありますか? 咸少佐はただちに、信頼できる部下一七名を選んで諜報隊を組織し、仁川の南西二〇キロの霊与島にもぐりこんだ。 だが、あまりにも使い込まれてきたせいか、三角木馬の稜線は直線になっておらず、中央がへこむように微妙な弧を描いていた。 2 病気の治療中(ちりょうちゅう)の魔法使いの家で留守番(るすばん)をすることになった、本好きの女の子チャーメイン。 前に引いた「歌物語」の前に、同じ母から産まれた、たった一人の姉大伯皇女の歌が並べられている。 伊勢物語絵巻六九段(狩の使) そんなある日。 過去・現在・未来という現象時間においては、'今'というものは一瞬後には既に過去になってしまっているのであります。 嗚呼 あゝ 、ブリンヂイシイの港を 出 い でゝより、早や 二十日 はつか あまりを経ぬ。 ただ、恋の勝者が自害した大津と読めるようになっていることに注意しておきたい。 人をおとしめないこと、人をさげすまないこと。 あかいクレヨンが、はたらきすぎているから休ませてほしいと言っているかと思えば、きいろのクレヨンとだいだいいろのクレヨンは、じぶんこそがおひさまのいろだと言いはって、けんかをしています。 急坂や崖の途中の洞穴には火焔放射器を使って、内側にひそむ北朝鮮兵を焼き殺した。 口語訳聖書 現在 げんざい の今 いま 食事 しょくじ をするといっても、無限 むげん 分 ぶん の1秒 びょう 後 ご にはその時間 じかん は既 すで に過去 かこ となってしまっているから、その短 みじか い時間 じかん の間 かん に食事 しょくじ をすることはこれまた不可能 ふかのう と言 い わなければならない。 この神社から先を、奥千本という。 朝には狩に送り出してやり、夕方に帰って来ると、自分のところに来させた。 久しぶりに取り出したら、力が抜けて、いい感じに。 「…カール!カールっ!!」 その犬は、公女がまだ幼い頃から大公家に飼われ、クラリス以外の人間には決してなつくことの無かった忠犬だった。 大津皇子「悲劇の皇子」伝説の解剖 何か非常に傲慢なものを感じ、また責める(攻撃・裁き)ばかりで「赦し」もなければ「和解」もない(祈りのない社会活動は、悪魔的に 陥 おちい る )。 哀れなクラリス姫は何一つ身にまとうことも許されないまま、今は両腕を荒縄で束ねられ、天井の頑丈な滑車を通じて吊されていた。 おちこんでしまったバンバンでしたが、ある紳士(しんし)からフラメンコ教室にさそわれて...。 これに欺かれた官吏や舎人は止むを得なかった。 10 遠州(えんしゅう)にある古物商(こぶつしょう)のひとり息子である惣(そう)一郎(いちろう)は、取引先(とりひきさき)へ大切な茶碗(ちゃわん)を取りに行くよう父から頼(たの)まれます。 「舞姫」豊太郎の「恨み」と「憎しみ」に迫る1 豊太郎はなぜ日記を書くのか? 教科書定番教材シリーズ そこで某月某日、 ゾロゾロ会という極めてプライベートな会 別にヘンな会じゃないよ が 忘年会の余興として、「われらも<みだれ髪>に挑戦して見ようではないか」ということで出来たのが、 ゾロゾロ語訳「みだれ髪」です。 そして、二三日過ぎてからよ。 西行は何度も吉野に通ったというが、花の吉野は実はそれほど魅力的な場所だったのではないか。 しかも、石室を形作る各石は、家型石棺の蓋の未完成品を転用した寄せ集めという異様なものである。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。 4エルカナは、 犠牲 ぎせい をささげる 日 ひ 、 妻 つま ペニンナとそのむすこ 娘 むすめ にはみな、その 分 わ け 前 まえ を 与 あた えた。

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どうして 心 ごと 奪 われ て 歌

どうして 心 ごと 奪 われ て も まだ

教科書定番教材シリーズは、森鴎外『舞姫』に突入したいと思います。 漱石の「こころ」と同時に鴎外の「舞姫」をすすめて、ふたつの違いから近代という時代を考えましょう。 この教科書定番教材シリーズですが、意外とアクセスを集めております。 (といっても、このアクセスの少ないブログの中の話ですが)きっと、生徒達が予習をするために、あるいは先生から出された宿題を何とかするために、あるいは、定期試験前に、なんとかしようとするために、意外とニーズがあるようです。 個人的には、こうした教科書教材を読んできた大人のみなさんに、「もう一度読んでみようかな」と思ってもらうための意味合いもあるのですが、まあ、それは私の思いとして、いまだ生き残っている生徒にとってははた迷惑な「舞姫」です。 なにしろ擬古文ですからね。 でもね、現代語訳を求めて、このサイトに来た人たちがいるなら、いつか暇になったときに、直訳風舞姫を書いてあげてもよいけど(すぐはやりませんよ)、あなたが大学入試考えているなら、このぐらい読まないとだめだよ。 センターの古文は長いし、こういうのは現代文で出す大学があるんだからね。 まあ、大学受験も考えてませんて言われちゃうと、じゃあしょうがないか…なんて気にもなるけど…。 ちなみに教科書定番教材シリーズは、 と進めてまいりました。 そして、現在、夏目漱石「こころ」と森鴎外「舞姫」を同時に進めようと考えております。 まずは本文をこちらからどうぞ。 手記としての物語 漱石の「こころ」とやってみるとなかなかおもしろいんですが、こちらも、「手記」、そして一人称で語られるわけですね。 物語の冒頭、名前さえ語られず、まずは現在の状況が語られていく。 「五年前 いつとせまへ の事なりしが、 平生 ひごろ の望足りて、洋行の官命を 蒙 かうむ り、このセイゴンの港まで 来 こ し頃」と彼は書きます。 そして、「 げに 東 ひんがし に 還 かへ る今の我は、西に航せし昔の我ならず」と書き綴ります。 どうも、彼は、5年間、国のお仕事で海外=ドイツにいたらしい。 そして、今、日本に帰ろうとしているらしい。 その船上、セイゴンの港に今、彼はいる。 そして、なぜか、筆を執っている。 石炭をば 早 は や積み果てつ。 中等室の 卓 つくゑ のほとりはいと静にて、 熾熱燈 しねつとう の光の晴れがましきも 徒 いたづら なり。 今宵は夜毎にこゝに集ひ来る 骨牌 カルタ 仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余 一人 ひとり のみなれば。 と「舞姫」は始まっているわけですね。 「こころ 」もそうですが、登場人物が自己分析をしていく、というこのスタイル自体が、近代という時代における人のありようを考えるというテーマと、もう関連しているような気がします。 舞姫の自筆原稿。 もちろん、複写です。 きっちりしてますよね。 どうして日記を今、書くのか? 冒頭、彼が向き合うのは、「 こたびは途に上りしとき、 日記 にき ものせむとて買ひし 冊子 さつし もまだ白紙のまゝなる」ということの理由です。 もちろん、これは、「日記」を書かなければいけない理由です。 そうです。 書こうとしても書けない理由。 わざわざ、船室に残って、今、日記を書けない理由が語られるわけです。 「あらず、これには別に故あり。 」という形で、ドイツにいたときにあったであろう、さまざまなことが想起されながら、そのことが語られていきます。 1 ニル・アドミラリィの気象 五年前 いつとせまへ の事なりしが、 平生 ひごろ の望足りて、洋行の官命を 蒙 かうむ り、このセイゴンの港まで 来 こ し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして 新 あらた ならぬはなく、筆に任せて書き 記 しる しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、 今日 けふ になりておもへば、 穉 をさな き思想、身の 程 ほど 知らぬ放言、さらぬも 尋常 よのつね の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。 こたびは途に上りしとき、 日記 にき ものせむとて買ひし 冊子 さつし もまだ白紙のまゝなるは、 独逸 ドイツ にて物学びせし 間 ま に、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。 ドイツに行くときには、すべてが目新しいものばかり…。 それは何から何まで文章にした。 当時は、みんなからもてはやされたけれど、今から考えると、幼稚な考え、身の程知らずな発言、そこら中にあるような動物、植物、宝石、石ころ、普通のことを珍しいことのように書いていた。 物のわかる人はそんな自分をどう見ていたのか。 いつの間にか、自分は、そんなことを書いても仕方がないと思うようになった。 と、こんな感じですかね。 「こころ」の私ではありませんが、やっぱり、「変わった」んですね。 何かによって、「私」は、いちいち目にするものを書くことがよくないことだと思った。 そして、自分の心が動かなくなっていることを感じているわけです。 そんなことが書かれていますが、日記を書けない理由ではない、と。 それはもちろん、日記を書く理由でもない。 これが理由なら、「書きたい」と思わなくなったわけですから、そもそも日記なんて買ってこなければよいわけですね。 2 変わりやすい自分の心 さらに、豊太郎は書き進めます。 げに 東 ひんがし に 還 かへ る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ 猶 なほ 心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。 きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して 誰 たれ にか見せむ。 これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。 今の自分は昔の自分ではない。 勉学については、不満なところもあるとはいえ、さまざまなことを学んだ。 人の心が信頼できないことも、自分の心さえ信頼できないことも、学んだ。 昨日と今日で180度変わってしまう心など、書き記したところで、何か意味があるだろうか。 こんなところでしょうか。 これも、何かがあったことを暗示していますよね。 きっと、人に裏切られたんでしょうか、自分も裏切ったんでしょうか。 でも、それさえも日記が書けない理由ではないわけですね。 3 人知らぬ恨み そして、出て来るのが「人知らぬ恨み」です。 嗚呼 あゝ 、ブリンヂイシイの港を 出 い でゝより、早や 二十日 はつか あまりを経ぬ。 世の常ならば 生面 せいめん の客にさへ 交 まじはり を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の 習 ならひ なるに、 微恙 びやう にことよせて 房 へや の 裡 うち にのみ 籠 こも りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨に 頭 かしら のみ悩ましたればなり。 此 この 恨は初め一抹の雲の如く 我 わが 心を 掠 かす めて、 瑞西 スヰス の山色をも見せず、 伊太利 イタリア の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を 厭 いと ひ、身をはかなみて、 腸 はらわた 日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の 翳 かげ とのみなりたれど、 文 ふみ 読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、 幾度 いくたび となく我心を苦む。 嗚呼、いかにしてか此恨を 銷 せう せむ。 若 も し 外 ほか の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は 心地 こゝち すが/\しくもなりなむ。 これのみは余りに深く我心に 彫 ゑ りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、 房奴 ばうど の来て電気線の鍵を 捩 ひね るには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。 他人が知らない、人知れぬ恨み…。 これが日記の書けない理由です。 「恨み」という言葉は、他者や出来事を「恨む」ということ。 この「恨み」ゆえに、心が沈んだ状態でいるわけです。 この恨みのおかげで、部屋にこもり、同行の友人ともしゃべらず、ましてや初対面の旅行客ともしゃべらず、途中途中で観光をしても、心は晴れず… そして彼は書きます。 「 嗚呼、いかにしてか此恨を 銷 せう せむ。 若 も し 外 ほか の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は 心地 こゝち すが/\しくもなりなむ。 これのみは余りに深く我心に 彫 ゑ りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、 房奴 ばうど の来て電気線の鍵を 捩 ひね るには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む」 恨みは消せない。 きっとどうすることもできない。 でも、それでも日記に書かなければいけない、と。 日本に戻る物語 こうして、この物語は、日本へ戻る、という前提で始まります。 日記をなぜ書くのか? もうひとつの物理的な理由を考えておきましょう。 「石炭をば早積み果てつ。 」 つまり、出航の準備は整ったということ。 場所はセイゴン。 おそらく、もう日本に到着をします。 寄港したからこそ、みんなは町へ繰り出していった。 ボーイがやってきて、電気自体を止めてしまうにはまだしばらくの時間がある…。 そう、一人になってじっくりと書くための時間はここしかないのです。 明日になれば、また、旅行客がトランプに興じる。 だから、今、ということでしょう。 もちろん、最初もこういう時間はあったかもしれない。 でも、彼の言葉を借りれば、最初はそれほどのことだとは思わなかった。 でも、それがだんだんと彼の心に重くのしかかってきた、ということ。 此 この 恨は初め一抹の雲の如く 我 わが 心を 掠 かす めて、 瑞西 スヰス の山色をも見せず、 伊太利 イタリア の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を 厭 いと ひ、身をはかなみて、 腸 はらわた 日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の 翳 かげ とのみなりたれど、 文 ふみ 読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、 幾度 いくたび となく我心を苦む。 「懐旧の情」を呼び起こし、自分の心を苦しめる。 このままではいけない。 この「恨み」に向き合わなければ。 消せないかもしれないこの「恨み」をなんとかしたい。 日本に着くまでに、彼は何と向き合い、どんな決着をのぞんでいるのでしょうか。 舞姫がこの『恨み』からはじまっていることは、授業をする際にもっともっと意識されなければいけないことなんですね。 というわけで、次回に続きます。 manebi.

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どうして 心 ごと 奪 われ て も まだ

一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対批判 幾度となく問います。 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標 や場を超えている。 ゆえに 想定していざるを得ない。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規 定することはできる。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定 も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。 これ は・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出 かけるなら意味を成さない。 意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念 としてのみ扱った場合に限る。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。 成すかどうかが どこまで行っても 人間には決め られないのである。 主観の外に出 かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。 つまり 神なる概念の弄びになら ざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。 主観のおままごとは せいぜい一個 人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。 《非経験の 場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。 経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する) 可知(認識しうるものごと) 既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする) 未知(いづれ既知になるであろうと推察されている) 不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。 生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 類型として《梵我一如》とよぶとよ い。 または 《霊霊一如》である。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。 神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。 イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍 神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。 (神は人 知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰す なわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに 説明する視点である。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自 由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならな いはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。 つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とう とばれるのだ。 ここから あらゆる自己表現の自由が出 る。 このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのお の主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その 信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》というこ とになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否 定も肯定も出来ない。 ・・・〔ダ・カーポ〕。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての 神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した 《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。 信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間 が人間の言語を用いて引いた補助線である。 どこまでも 指の先に指し示され た正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないと かという表現で捉えてしまって 平然としている。 これは 哲学から見れば 無意味である。 世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさま る。 飽くまで 《考える》ものである。 《信じる》とは げんみつに言って何 の関係もない。 18. 重ねて言おう。 神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つ まり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその 倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させ たものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの 関係に移して 寝かすことである。 18-2. シュウキョウは 寝技である。 これは 神論(一般および個別絶 対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたは ただの商売である。 わたしの考えでは 哲学は 信仰とは何か? 宗教とは何か? といったそもそも論(起源の問題)をしっかりとやります。 (したがって 宗教学カテに投稿するつもりは もうとうありません)。 神は 人知を超えており超経験なものです。 エビデンスがあるなら 神をあつかうことはあり得ないわけですから。 (あるいは 想像裡のものでしょう)。 《生命》というのは 神にかかわるかとも見ます。 ただし 生命体は 経験事 物なはずです。 期待しています。 宗教は 百害あって一利なしだと見ます。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。 つまり 神なる概念の弄びになら ざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。 主観のおままごとは せいぜい一個 人の内面にとどめなさい。 ++++ 質問者さんご自身も、主観のおままごとを発信しているようですが。 そして、助けられたのなら、困っている人がいたら、手を差し伸べる、それだけです。 それが、信仰です。 ) そういう瞬間が人生になかったのなら、質問者さんはお幸せでしょうし、日本に住む99%の方は、文化やインフラに守られてのほほんと生きておられます。 ですから、神を論ずるときに、全員上から目線です。 生命の危険なんて、他人事なので、感度が非常に低いです。 そこにある、目に見えないものを感じ取れる力が限りなくゼロに近い。 例えば、アルケーさんは、キリスト批判を堂々と展開されておられますが、もし、最後の審判が本当に起こったとしたら、ご自分の魂がどういう事態に陥るか、想像されてみたことがあるのか、と、ひたすら危惧します。 これは、余計なお世話ですので、今までは、黙ってきました。 質問者さんも同じです。 そういう恐れを抱かないのは、多分、ご自分への信頼が絶対的だからでしょうが、人間には、思わぬところで足を救われる状況が、まま、あるものです。 聖書の文言を切り貼りして、曲解し、ご自分の考えを補強するようなやり方は、一言で言えば、姑息じゃないですか。 宗教の外見を比べて、甲乙をつけるのも、同じです。 統計を取って、信仰を語ることは、絵に描いた餅。 そんな風に、思ったことを、今日は、思い切って書いてみました。 やめておこうと思いましたが、気が変わりました。 そうであるかも分かりません。 もしそうであるとしたら 「そのぶんとしては《理解できている》ことに なりますね?」 「そのぶんとしては《理解できている》ことになりますね?」これは、言い掛かり、屁理屈です。 人間に可能であったことは もとから可 能であったのだと考えられるのではないですか? 「言うとすれば 神業 《に近い》というところでしょう。 」 「人間に可能であったことは もとから可能であったのだと考えられるのではないですか?」そう思い、人は、想像・妄想を、不可能を可能に出来た経験と結び付け、神の御業と文献に残す。 と書きました。 訂正すれば、「不可能だと思い込んでいた事を可能に出来たです。 」 いちいち説明や、文章足らず・表現下手を指摘されたら、面倒です。 確かに政治問題ですが、政治では解決不可能なので、という意味です。 全知全能の神なら可能で、人間が一番信じ、解釈するための方法として、最良だと思うからそ書きました。 全知全能なら可能なはず。 また、絶対的信者なら、神の御業を行使できるはずだが、出来ない、行ってない。 行っても、あなたのように「その人の運命・信仰してない・神に嫌われた存在」とかの屁理屈を言う。 また、難病・障害等も、医学ですが、今の医学では、根治出来ないので、神の御業で、偽りなく、解決(奇跡)を見れば、僕もだし、万民も神のみを信じ、多宗教が不要となり、争いも減る。 という意味です。 オシヘに関しても、人の残した非知。 哲学も同じ。 人が理解出来ない「何か」の力や、存在は、言葉に出来ないし、証明出来ないが、何となく感じる。 それが、神なのか、仏なのか、魂なのかは解らないし説明表現できない。 だから、確認証明出来ないもの(教えとか・神存在)を、人に押し付けたりするものじゃない。 と思います。 論じたいなら、大学で、資料作成して、存分にしてください。 こんなところではなく・・・。 ご回答をありがとうございます。 と書きました。 哲学からのお願いです。 ダメだというのでな くても 現実にそうかどうかは 人間に分かりません。 分かるか分からないか が分かりません。 また、絶対的信者なら、神の御業を行使できる はずだが、出来ない、行ってない。 誰もおこなってはいません。 ご回答をありがとうございます。 そうであるかも分かりません。 人間に可能であったことは もとから可 能であったのだと考えられるのではないですか? 言うとすれば 神業 《に近い》というところでしょう。 難病は 医学です。 直接に一義的に 神の問題であるのではないでしょう。 神秘の部分があるとしても それを経験合理性で理解できるように表わ さないのは そのオシヘを表現した者の責任です。 神秘の部分は 分からんわい! と言ってやらねばなりません。 オシヘは 《非知》なるナゾを指し示すための補助線です。 ご回答をありがとうございます。 ここでは 情報交換のために質問形式で問い求めています。 そして 哲学としてです。 そしてこれは きよらかなおそれです。 とくに畏れですね。 あるいは 甘えでしょうか。 聖なる甘えと呼んでいますが これだと脳の 中をすっかり洗ってしまうかも知れません。 赤子が母親に寄り添うような 状態にたとえられますから。

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