野村 監督 名言。 ボヤくだけじゃない!かなり深い野村監督(野村克也)の名言32選

野村克也監督の名言・格言全集!苦労人の努力やリーダー論など人生哲学に迫る

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野村克也の生涯 1935年6月29日、現在の京都府京丹後市に生まれる。 家は貧しく、貧乏な生活から脱却するために将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、俳優を目指して映画館通いなどをしていたが、中学2年生のときに野球部に入部して注目されるようになる。 中学卒業後は母から働くように言われるが、兄が大学受験を断念することで高校に進学。 高校野球部は大変弱く、野村克也も無名選手だった。 しかし野球部顧問がプロ球団の監督に推薦状を送り、1954年、南海にテスト生として入団。 一年目は9試合に出場し、11打数無安打。 戦力外通告を受けるが正捕手らの事故等により捕手不足となり残留。 3年目の1956年、一軍に抜擢され正捕手に定着。 打撃不振に陥った際、『バッティングの科学』という本の「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」という言葉に出会う。 その後、投手のクセを研究し、打撃力が格段に向上。 攻略できなかった稲尾和久投手には、16ミリカメラでフォームを撮影し研究。 ID野球の基礎となる。 1957年に本塁打王のタイトルを獲得。 以降、毎年のようにタイトルを獲得し、1965年には戦後初の三冠王に輝く。 しかし同時期にセ・リーグで活躍していた巨人のやに比べて世間からの注目は少なく、後に「花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」とコメントし、「月見草」が野村の代名詞となった。 1968年からコーチ兼任となる。 1970年には監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして4番打者、捕手、監督の三つの重責をひとりで担うことになる。 監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打、通算2000本安打を達成。 1972年には打点王を獲得。 監督としても1973年にリーグ優勝を果たす。 1978年にロッテへ選手として移籍。 1979年から西武へ。 1980年、前人未到の3,000試合出場を達成。 同年45歳にて引退する。 2020年2月11日、野村克也は虚血性心不全により死去、84年の生涯を閉じた。

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野村 克也・名言・一言・格言集

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現役時代、僕がバッターボックスへ入った時に、相手チームのベテランキャッチャーが話しかけてくるわけです。 「おまえ、構え(打撃フォーム)変えたのか」と、何も変えてなかったのに指摘されてえらく気になって「そうですか」なんて答えている間に三振を取られたことがありました。 バッティングの基本は集中力と積極性ですが、話しかけられて集中力が乱されました。 逆にこれは使えると思って「ささやき戦術」を始めたのです。 これは名言・格言ではないのですが、野村克也さんがぼやきを始めたきっかけのエピーソードです。 実は、これと同じことを野村克也さん自身も長嶋茂雄さんに仕掛けたことがあります。 しかし、素振りを数回したのちに、ホームランを打たれ、ホームインした際には「教えてくれてありがとう」と返されました。 【部下が失敗したとき、顔つきを見ることだ。 「恥ずかしがっているか」「笑ってごまかそうとしているか」で伸びしろがわかる。 笑ってごまかし始めたら、終わりだ。 】 【長所は意識しなくていいが、短所は意識しなくては修復できない。 そして短所を補うことができれば長所も伸びる。 個人もチームづくりも同じです。 】 【なんといっても己を知ること。 いまの自分には何が足りないのか、どこが弱いのか。 こうしたことを正しく認識することが極めて重要です。 それには、自分の課題について感じたり、考えたりする癖をつけて、感知するセンスを日々磨くしかありません。 そうして自分の課題がわかったら、次にそれを補い、克服するための方法論を必死に考えるのです。 】 心が変われば 人生は変わるで.

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「努力に即効性はなし。でも裏切らない」大人の心を打つ野村克也の名言3選|OCEANS オーシャンズウェブ

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日本プロ野球の歴史をつくった名選手であり、名将であった野村克也氏が、亡くなられました。 享年84歳。 野村氏は、選手としては戦後初の三冠王に輝いたほか、9度の本塁打王を獲得。 生涯本塁打数657本は王貞治氏に継ぐ歴代2位という輝かしい記録を残しています。 何より野球が最大のエンターテイメントだった時代に育った私には、大変なヒーローでした。 また、現役引退後は監督として9度のリーグ優勝と3度の日本一に導き、指導者としても超一流であり、氏の「ID野球」と言われるデータ重視の采配や選手指導方針および名言の数々には、企業経営にも応用可能なものが多いと常々感心させられてもいました。 今回は追悼の意を込めて、野村監督の監督時代の名言からいくつかを取り上げて、企業マネジメントのヒントを探ってみたいと思います。 「ボヤキ」と「愚痴」の違い? まずは、試合終了後インタビューの名物もなった監督時代の「ボヤキ」から。 ボヤキというと選手に対する不平不満を口にしているように思われがちですが、ボヤキと愚痴の違いが、そこには明確にあるのだと語っています。 「不満を表現するのは愚痴。 チームを強くするための理想を掲げ、それが頓挫した時に口をついて出るのがボヤキ。 つまり、理想と現実の差を認識し、それを表現するのがボヤキなんだな。 愚痴とは断じて違うものだよ」 ここで言う「理想」とは、中期的な「めざす姿」であり、これはマネジメント上絶対に必要なものであります。 そして、「理想=めざす姿」と「現実」のギャップをしっかりと認識することは、正しい「戦略」を立てる上で必要不可欠なことでもあるのです。 なぜならば、「戦略」とは「理想=めざす姿」と「現実」のギャップを埋めるための方策であると定義されるわけですから。 まずは「理想=めざす姿」を描くこと。 そして「現実」を正しく認識してそのギャップを把握すること。 それが、有効な戦略を立てるための必須条件なのです。 野村監督のボヤキは次なる正しい戦略を立てるための、「理想」と「現実」のギャップを口にしていたのだとは改めて驚かされます。 ボヤくことによって何を解決すればいいのかが明確化され、次なる正しい「戦略」が立てられる。 その繰り返しが、監督として弱小チームをも強くしてきた実績につながったのだと言えそうです。 「野村再生工場」はダイバーシティを先取りしていた 次なる監督の名言は、「野村再生工場」の異名をとった成績下降線選手の復活や、騒がれて入団しながらなかなか芽の出ない選手を開花させた、指導手腕に関するものです。 「再生とは何よりじっくり観察して、選手のいい点やここを直せば伸びるという点を見つけて指導してあげることだね」 この発想は、今でこそよく言われるようになったダイバーシティの考え方そのものです。 ダイバーシティをベースにした部下育成を、四半世紀も前に既に監督は心がけていたとは、じつに驚きです。 個々人の特性や強みを見つけてあげること、活躍の芽である得意分野の能力や過去の経験を活かしてやろうという考え方は、指導の目的を決して決められた画一的でステレオタイプな人材を作り出すこととせず、個々の能力や特性に着目しているわけです。 1990年代に、それまで万年Bクラスだったヤクルト球団を日本一に導いた野村野球では、基本は若手を型にはめることなくそれぞれの個性を伸ばしたことがチーム力の向上につながったのだと思います。 ダイバーシティ的チームづくりの原点がそこにはあったと言えるでしょう。 野村監督は、続けてこんなことも言っています。 「選手の伸ばすべき強みや改善すべき欠点を見つけたら、それを1から10まで教えてやるのではなく、自分で気づきを与えるようにしむけてやることが大切だよ」 これは、まさしくコーチング手法です。 その一方で、コーチング手法によって自分で気づいたことは、より身につきやすいと言われています。 以前、野村監督が選手に「もっと頭を使えよ」と言っていたのを、よくテレビで目にしましたが、あれこそ「ヒントは与えたぞ。 あとはどうしたらいいかよく考えて気づけ」というメッセージであったと、理解できるところです。 「勝ちに不思議勝ちあり。 負けに不思議負けなし」 最後に、上に立つものの心構えについて、さらに二つの名言を。 「リーダーは好かれなくとも、信頼されればよい。 嫌われることを恐れる者にリーダーは務まらない」 これは最近の経営者、管理者に特に心して欲しい、ひと言です。 嫌われることを異常に恐れて、言いたいことも言えない。 さらにひどい場合、大切なことを自分で言わずに人に言わせるなどというリーダーも間々います。 言いたいことをしっかり言い、部下の考えをしっかり聞くことで信頼関係は生まれるのだと、監督は言いたかったのでしょう。 「勝ちに不思議勝ちあり。 負けに不思議負けなし」 「不思議勝ち」とは、ビジネスではなぜかわからないけど、うまくいくことは希にあるということ。 逆に不思議な負けは存在しないとは、失敗した時には必ず理由があるから、原因を突き詰めて同じ轍を踏まないことが重要である、と教えてくれていると思います。 野村克也監督のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。 (大関暁夫).

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