白洲次郎 家系図。 白洲家(東宝東和社長・白洲春正・白洲次郎の家系図・子孫)

白洲次郎

白洲次郎 家系図

経歴 [ ]• (明治43年)1月7日 - (現:)に父と母・常子の次女として生まれる。 祖父は(、)、母方の祖父に(海軍大将、伯爵)。 (3年) - を習い始める。 (大正13年) - 女性として初めての舞台へあがる。 女子部初等科修了。 渡米しに入学。 (3年) - ハートリッジ・スクール卒業。 聖心語学校(現・)中退。 (昭和4年) - と結婚。 (昭和17年) - 東京府能ヶ谷(現・東京都)の古を購入。 この頃からに古美術の手ほどきを受ける。 (昭和18年) - 鶴川村へ転居。 (昭和22年) - 廃止。 (昭和39年) - 随筆『能面』で第15回受賞。 (昭和47年) - 随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞受賞。 (平成9年) - 名誉市民。 (平成10年) - 肺炎のため、の日比谷病院で死去、88歳没。 墓所は夫次郎と共にの心月院。 両人に戒名は無く、梵字が墓石に刻まれているだけである。 人物 [ ]• 志士で樺山家に生まれた自らの性質や、その出自を生涯を通じ強く意識(その事で夫次郎と口論となりをしたこともあった)した。 幼少期よりのの舞台にあがり、能に造詣が深く、やの薫陶を受けを愛し、日本の美についての随筆を多く著す。 や、晩年は護立の孫で元首相の、や等との交友もあった。 また名人といわれた能楽師・の仕舞の会を自宅で開き、演芸研究者も参加していた。 骨董収集家としても著名。 収蔵品はのほか数々の名品揃いである(愛蔵版「私の百人一首」に所収)。 姉に、夫は。 長男は 生まれ 、次男は 生まれ 、長女は 生まれ。 は孫で、兼正との娘明子の子である。 白洲はとをライフワークとして多くの作品を著した。 また、日本古典の再読、再評価によって後の研究者に影響を与えている。 白洲の作風は用語の定義など微妙な問題は曖昧にぼかす、論理的な根拠は示さずに直感で自己流の解釈を示す、厳密な解釈は避け結論は出さずに有耶無耶に終わるなど、あくまでの作風でありの筆法とは異なる。 これは白洲の作風の欠点でもあり、美点でもある。 著作 [ ] 単著 [ ]• 『お能』昭和刊行会 1943/角川新書 1963/駸々堂出版(改訂版) 1974、新版1990• 『たしなみについて』雄鶏社新書 1948/ 2013(改訂新書判)、河出文庫 2017• 『聞書』能樂書林 1951• 『私の藝術家訪問記』緑地社 1955• 『お能の見かた』〈創元選書〉 1957• 『韋駄天夫人』 1957/ 2007• 『きもの美 選ぶ眼・着る心』徳間書店 1962/知恵の森文庫 2008• 『心に残る人々』講談社 1963/講談社文芸文庫 1996• 『能面』求龍堂 1963• 『世阿弥-花と幽玄の世界』宝文館出版 1964/ 1996• 『巡礼の旅 』淡交新社 1965• 『西国巡礼』駸々堂出版 1974/旺文社文庫 1985/風媒社 1997/講談社文芸文庫 1999• 『栂尾 上人』 1967• 『明恵上人』新潮選書 1974/講談社文芸文庫 1992、ワイド版2017/新潮社 1999• 『古典の細道』 1970、改版1997/講談社文芸文庫 1994/新潮社 2008• 『かくれ里』新潮社 1971、新版2010/講談社文芸文庫 1991• 『謡曲・紀行 歴史と文学の旅13・14』平凡社 1973• 『旅宿の花 謡曲平家物語』平凡社 1982/講談社文芸文庫 1998• 『ものを創る』 1973/新潮文庫 2013• 『山河抄』駸々堂出版 1974、新版1983/講談社文芸文庫 1994• 『巡礼』新潮社 1975、新版2002、愛蔵版2010/講談社文芸文庫 1992• 『私の百人一首』新潮選書 1976/新潮文庫 2005/新潮社 2005• 『白洲正子が語る 能の物語 かたりべ草子6』平凡社 1984• 『能の物語』講談社文芸文庫 1995• 『道』新潮社 1979、新版2007/新潮文庫 2011-歴史紀行• 『鶴川日記』文化出版局 1979/PHP研究所 2010、PHP文芸文庫 2012• 『日本のたくみ』新潮社 1981、新潮文庫 1985、改版1997• 『私の古寺巡礼』法蔵館〈法蔵選書〉 1982、新版1997/講談社文芸文庫 2000• 『縁あって』青土社 1982、新版1999/PHP研究所 2010、PHP文芸文庫 2012• 『花にもの思う春 白洲正子の』 1985、平凡社ライブラリー 1997• 『木-なまえ・かたち・たくみ』住まいの図書館出版局 1987/平凡社ライブラリー 2000• 『』新潮社 1988、新潮文庫 1996、改版2014• 『遊鬼 わが師わが友』新潮社 1989、 1998• 『いまなぜ青山二郎なのか』新潮社 1991、新潮文庫 1999• 『お能・老木の花』講談社文芸文庫 1993-再編本(能楽)• 『随筆集 夕顔』新潮社 1993、新潮文庫 1997• 『白洲正子自伝』新潮社 1994、新潮文庫 1999• 『風姿抄』世界文化社 1994 新版2009• 『日月抄』世界文化社 1995 新版2009• 『名人は危うきに遊ぶ』新潮社 1995、新潮文庫 1999• 『雨滴抄』世界文化社 1996 新版2009• 『風花抄』世界文化社 1996 新版2010• 『夢幻抄』 1997 新版2010• 『両性具有の美』新潮社 1997、新潮文庫 2003• 『美しくなるにつれて若くなる』角川春樹事務所「ランティエ叢書」 1998-再編本(文庫判)• 『独楽抄』世界文化社 1998• 『行雲抄』世界文化社 1999• 『対座』世界文化社 2000-随筆・インタビュー・対話集25篇(図版多数)• 『舞終えて』ワイアンドエフ 2000• 『ほとけさま』ワイアンドエフ 2000• 『ひたごころ』ワイアンドエフ 2000• 『美は匠にあり』 2004-• 『余韻を聞く』世界文化社 2006-手紙+随想(図版多数)• 『金平糖の味』新潮文庫 2010、再編本• 『美の遍歴』平凡社ライブラリー 2010-初期エッセイ集• 『 精選女性随筆集7 白洲正子』文藝春秋 2012、選• 『ほんもの 白洲次郎のことなど』新潮社 2014、新潮文庫 2016、再編本• 『なんでもないもの 白洲正子エッセイ集〈骨董〉』角川ソフィア文庫、2015、青柳恵介編• 『美しいもの 白洲正子エッセイ集〈美術〉』角川ソフィア文庫、2015、同上• 『かそけきもの 白洲正子エッセイ集〈祈り〉』角川ソフィア文庫 2015、同上 作品集 [ ]• 『白洲正子著作集』 (全7巻) 1984-85• 『白洲正子全集』 (全14巻別巻1) 新潮社 2001-02 別巻は対話集 対談・共著 [ ]• 『古都残影』駸々堂出版 1970、写真・• 『』平凡社 1975、新版1991。 『古典夜話~けり子とかも子の対談集』 との対談、平凡社 1975、新潮文庫 2013• 『やきもの談義』 と対談、駸々堂出版 1976、風媒社 1997• 『回峰行』駸々堂出版 1976、写真・後藤親郎• 『瀧』駸々堂出版 1977、写真・永瀬嘉平• 『を歩く』共著、駸々堂出版 1978、写真・土村清治• 『魂の呼び声-能物語 名作文庫9』平凡社 1978、画・松野秀世• 『雪月花』神無書房 1991、写真・、• 『老木の花 友枝喜久夫の能』求龍堂 1989、写真・吉越立雄、大倉舜二• 『姿 ・』共著、求龍堂 1993• 『対話 「日本の文化」について』神無書房 1993• 『おとこ友達との会話』新潮社 1997、新潮文庫 2005、対談集• 『花日記』藤森武写真、世界文化社 1998• 『器つれづれ』藤森武写真、世界文化社 1999• 『衣匠美』藤森武写真、世界文化社 2000• 『白洲正子への手紙 二人が遺した文筺から』 田島隆夫(織師)との書簡、文化出版局 2000• 『日本の伝統美を訪ねて』河出書房新社 2001、河出文庫 2009、対談集• 『縁は異なもの』 との対談、河出書房新社 2001、 2007• 『花供養』 との対談、 2009• 『魂の居場所を求めて』 共著・対談、河出書房新社 2014 ビジュアルブック [ ]• 草づくし 新潮社 1985()、吉越立雄写真• お能の見方 新潮社 1993、改訂版2008(とんぼの本)、吉越立雄写真• 白洲正子 私の骨董 1995、藤森武写真• 白洲正子の世界 〈コロナ・ブックス〉 1997、写真・インタビュー• 日本の神々 新潮社 1998(とんぼの本)• 白洲正子の旅 平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉 2000• 白洲正子の世界 二十一世紀への橋掛かり 平凡社〈別冊太陽〉 2000• 白洲正子 美の種まく人 新潮社 2002(とんぼの本)• 白洲正子と楽しむ旅 新潮社 2003(とんぼの本)• 白洲正子と歩く京都 新潮社 2008(とんぼの本)。 牧山桂子編• 白洲正子のすべて (和樂ムック) 2008• 白洲正子 十一面観音の旅 平凡社〈別冊太陽 太陽の地図帖〉 2010。 青柳恵介監修、奈良・大和路篇+京都・近江ほか篇の2冊• 白洲正子 祈りの道 新潮社 2010(とんぼの本)。 白洲信哉編• 白洲正子のきもの 新潮社 2012(とんぼの本)。 牧山桂子・青柳恵介・八木健司編 伝記・評論 [ ]• 『白洲正子を読む』 求龍堂 1996、作家論集+対談• 『臨時増刊 白洲正子』 、1999年2月号• 『白洲正子 文藝別冊』 〈KAWADE夢ムック〉、2000年2月号/増補新版2014年8月号• 『いまなぜ白洲正子なのか』 、、2008/新潮文庫、2011• 『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 、新潮社、2007/新潮文庫、2009• 『武相荘のひとりごと』 牧山桂子、世界文化社、2012。 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 新潮社、2008• 『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』 牧山圭男 新潮社、2012/新潮文庫、2015• 『かたじけなさに涙こぼるる 祈り 白洲正子が見た日本人の信心』 /写真・野呂希一、世界文化社、2010• 『白洲正子 ひたすら確かなものが見たい』 挾本佳代、平凡社、2013• 『白洲正子 日本文化と身体』 、新典社選書、2014 脚注 [ ].

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白洲次郎の正体とは?妻や子供と武相荘も調査!

白洲次郎 家系図

経歴 [ ]• (明治43年)1月7日 - (現:)に父と母・常子の次女として生まれる。 祖父は(、)、母方の祖父に(海軍大将、伯爵)。 (3年) - を習い始める。 (大正13年) - 女性として初めての舞台へあがる。 女子部初等科修了。 渡米しに入学。 (3年) - ハートリッジ・スクール卒業。 聖心語学校(現・)中退。 (昭和4年) - と結婚。 (昭和17年) - 東京府能ヶ谷(現・東京都)の古を購入。 この頃からに古美術の手ほどきを受ける。 (昭和18年) - 鶴川村へ転居。 (昭和22年) - 廃止。 (昭和39年) - 随筆『能面』で第15回受賞。 (昭和47年) - 随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞受賞。 (平成9年) - 名誉市民。 (平成10年) - 肺炎のため、の日比谷病院で死去、88歳没。 墓所は夫次郎と共にの心月院。 両人に戒名は無く、梵字が墓石に刻まれているだけである。 人物 [ ]• 志士で樺山家に生まれた自らの性質や、その出自を生涯を通じ強く意識(その事で夫次郎と口論となりをしたこともあった)した。 幼少期よりのの舞台にあがり、能に造詣が深く、やの薫陶を受けを愛し、日本の美についての随筆を多く著す。 や、晩年は護立の孫で元首相の、や等との交友もあった。 また名人といわれた能楽師・の仕舞の会を自宅で開き、演芸研究者も参加していた。 骨董収集家としても著名。 収蔵品はのほか数々の名品揃いである(愛蔵版「私の百人一首」に所収)。 姉に、夫は。 長男は 生まれ 、次男は 生まれ 、長女は 生まれ。 は孫で、兼正との娘明子の子である。 白洲はとをライフワークとして多くの作品を著した。 また、日本古典の再読、再評価によって後の研究者に影響を与えている。 白洲の作風は用語の定義など微妙な問題は曖昧にぼかす、論理的な根拠は示さずに直感で自己流の解釈を示す、厳密な解釈は避け結論は出さずに有耶無耶に終わるなど、あくまでの作風でありの筆法とは異なる。 これは白洲の作風の欠点でもあり、美点でもある。 著作 [ ] 単著 [ ]• 『お能』昭和刊行会 1943/角川新書 1963/駸々堂出版(改訂版) 1974、新版1990• 『たしなみについて』雄鶏社新書 1948/ 2013(改訂新書判)、河出文庫 2017• 『聞書』能樂書林 1951• 『私の藝術家訪問記』緑地社 1955• 『お能の見かた』〈創元選書〉 1957• 『韋駄天夫人』 1957/ 2007• 『きもの美 選ぶ眼・着る心』徳間書店 1962/知恵の森文庫 2008• 『心に残る人々』講談社 1963/講談社文芸文庫 1996• 『能面』求龍堂 1963• 『世阿弥-花と幽玄の世界』宝文館出版 1964/ 1996• 『巡礼の旅 』淡交新社 1965• 『西国巡礼』駸々堂出版 1974/旺文社文庫 1985/風媒社 1997/講談社文芸文庫 1999• 『栂尾 上人』 1967• 『明恵上人』新潮選書 1974/講談社文芸文庫 1992、ワイド版2017/新潮社 1999• 『古典の細道』 1970、改版1997/講談社文芸文庫 1994/新潮社 2008• 『かくれ里』新潮社 1971、新版2010/講談社文芸文庫 1991• 『謡曲・紀行 歴史と文学の旅13・14』平凡社 1973• 『旅宿の花 謡曲平家物語』平凡社 1982/講談社文芸文庫 1998• 『ものを創る』 1973/新潮文庫 2013• 『山河抄』駸々堂出版 1974、新版1983/講談社文芸文庫 1994• 『巡礼』新潮社 1975、新版2002、愛蔵版2010/講談社文芸文庫 1992• 『私の百人一首』新潮選書 1976/新潮文庫 2005/新潮社 2005• 『白洲正子が語る 能の物語 かたりべ草子6』平凡社 1984• 『能の物語』講談社文芸文庫 1995• 『道』新潮社 1979、新版2007/新潮文庫 2011-歴史紀行• 『鶴川日記』文化出版局 1979/PHP研究所 2010、PHP文芸文庫 2012• 『日本のたくみ』新潮社 1981、新潮文庫 1985、改版1997• 『私の古寺巡礼』法蔵館〈法蔵選書〉 1982、新版1997/講談社文芸文庫 2000• 『縁あって』青土社 1982、新版1999/PHP研究所 2010、PHP文芸文庫 2012• 『花にもの思う春 白洲正子の』 1985、平凡社ライブラリー 1997• 『木-なまえ・かたち・たくみ』住まいの図書館出版局 1987/平凡社ライブラリー 2000• 『』新潮社 1988、新潮文庫 1996、改版2014• 『遊鬼 わが師わが友』新潮社 1989、 1998• 『いまなぜ青山二郎なのか』新潮社 1991、新潮文庫 1999• 『お能・老木の花』講談社文芸文庫 1993-再編本(能楽)• 『随筆集 夕顔』新潮社 1993、新潮文庫 1997• 『白洲正子自伝』新潮社 1994、新潮文庫 1999• 『風姿抄』世界文化社 1994 新版2009• 『日月抄』世界文化社 1995 新版2009• 『名人は危うきに遊ぶ』新潮社 1995、新潮文庫 1999• 『雨滴抄』世界文化社 1996 新版2009• 『風花抄』世界文化社 1996 新版2010• 『夢幻抄』 1997 新版2010• 『両性具有の美』新潮社 1997、新潮文庫 2003• 『美しくなるにつれて若くなる』角川春樹事務所「ランティエ叢書」 1998-再編本(文庫判)• 『独楽抄』世界文化社 1998• 『行雲抄』世界文化社 1999• 『対座』世界文化社 2000-随筆・インタビュー・対話集25篇(図版多数)• 『舞終えて』ワイアンドエフ 2000• 『ほとけさま』ワイアンドエフ 2000• 『ひたごころ』ワイアンドエフ 2000• 『美は匠にあり』 2004-• 『余韻を聞く』世界文化社 2006-手紙+随想(図版多数)• 『金平糖の味』新潮文庫 2010、再編本• 『美の遍歴』平凡社ライブラリー 2010-初期エッセイ集• 『 精選女性随筆集7 白洲正子』文藝春秋 2012、選• 『ほんもの 白洲次郎のことなど』新潮社 2014、新潮文庫 2016、再編本• 『なんでもないもの 白洲正子エッセイ集〈骨董〉』角川ソフィア文庫、2015、青柳恵介編• 『美しいもの 白洲正子エッセイ集〈美術〉』角川ソフィア文庫、2015、同上• 『かそけきもの 白洲正子エッセイ集〈祈り〉』角川ソフィア文庫 2015、同上 作品集 [ ]• 『白洲正子著作集』 (全7巻) 1984-85• 『白洲正子全集』 (全14巻別巻1) 新潮社 2001-02 別巻は対話集 対談・共著 [ ]• 『古都残影』駸々堂出版 1970、写真・• 『』平凡社 1975、新版1991。 『古典夜話~けり子とかも子の対談集』 との対談、平凡社 1975、新潮文庫 2013• 『やきもの談義』 と対談、駸々堂出版 1976、風媒社 1997• 『回峰行』駸々堂出版 1976、写真・後藤親郎• 『瀧』駸々堂出版 1977、写真・永瀬嘉平• 『を歩く』共著、駸々堂出版 1978、写真・土村清治• 『魂の呼び声-能物語 名作文庫9』平凡社 1978、画・松野秀世• 『雪月花』神無書房 1991、写真・、• 『老木の花 友枝喜久夫の能』求龍堂 1989、写真・吉越立雄、大倉舜二• 『姿 ・』共著、求龍堂 1993• 『対話 「日本の文化」について』神無書房 1993• 『おとこ友達との会話』新潮社 1997、新潮文庫 2005、対談集• 『花日記』藤森武写真、世界文化社 1998• 『器つれづれ』藤森武写真、世界文化社 1999• 『衣匠美』藤森武写真、世界文化社 2000• 『白洲正子への手紙 二人が遺した文筺から』 田島隆夫(織師)との書簡、文化出版局 2000• 『日本の伝統美を訪ねて』河出書房新社 2001、河出文庫 2009、対談集• 『縁は異なもの』 との対談、河出書房新社 2001、 2007• 『花供養』 との対談、 2009• 『魂の居場所を求めて』 共著・対談、河出書房新社 2014 ビジュアルブック [ ]• 草づくし 新潮社 1985()、吉越立雄写真• お能の見方 新潮社 1993、改訂版2008(とんぼの本)、吉越立雄写真• 白洲正子 私の骨董 1995、藤森武写真• 白洲正子の世界 〈コロナ・ブックス〉 1997、写真・インタビュー• 日本の神々 新潮社 1998(とんぼの本)• 白洲正子の旅 平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉 2000• 白洲正子の世界 二十一世紀への橋掛かり 平凡社〈別冊太陽〉 2000• 白洲正子 美の種まく人 新潮社 2002(とんぼの本)• 白洲正子と楽しむ旅 新潮社 2003(とんぼの本)• 白洲正子と歩く京都 新潮社 2008(とんぼの本)。 牧山桂子編• 白洲正子のすべて (和樂ムック) 2008• 白洲正子 十一面観音の旅 平凡社〈別冊太陽 太陽の地図帖〉 2010。 青柳恵介監修、奈良・大和路篇+京都・近江ほか篇の2冊• 白洲正子 祈りの道 新潮社 2010(とんぼの本)。 白洲信哉編• 白洲正子のきもの 新潮社 2012(とんぼの本)。 牧山桂子・青柳恵介・八木健司編 伝記・評論 [ ]• 『白洲正子を読む』 求龍堂 1996、作家論集+対談• 『臨時増刊 白洲正子』 、1999年2月号• 『白洲正子 文藝別冊』 〈KAWADE夢ムック〉、2000年2月号/増補新版2014年8月号• 『いまなぜ白洲正子なのか』 、、2008/新潮文庫、2011• 『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 、新潮社、2007/新潮文庫、2009• 『武相荘のひとりごと』 牧山桂子、世界文化社、2012。 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 新潮社、2008• 『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』 牧山圭男 新潮社、2012/新潮文庫、2015• 『かたじけなさに涙こぼるる 祈り 白洲正子が見た日本人の信心』 /写真・野呂希一、世界文化社、2010• 『白洲正子 ひたすら確かなものが見たい』 挾本佳代、平凡社、2013• 『白洲正子 日本文化と身体』 、新典社選書、2014 脚注 [ ].

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明治天皇の子供や妻は何人?子孫や家系図?竹田恒泰氏は玄孫!?

白洲次郎 家系図

文化事業案内-伊丹市 伊丹再発見シリーズ ー 白洲次郎と伊丹ー 追記H24. 15 白洲次郎といえば、日本一のダンディな男といわれ今なお話題の多い人物です。 白洲家は、摂津国三田藩の儒学者の家柄で祖父白洲退蔵は三田藩儒。 また彼の父親白洲文平 の別荘はわが町伊丹市春日丘にありました。 吉田茂の懐刀ともいわれた白州次郎の父(白洲文平)が伊丹に構えた美術館付きの邸宅があったことなど忘れられた大正・昭和の伊丹の地域文化を掘り起こす「伊丹モダニズム再発見」展が、市制60周年にあたる昨年平成17年に伊丹市立美術館で開かれました。 Shirasu」であったと仄聞しましたのでブンペイが正しいと思われます。 伊丹の町は江戸時代から酒の町として栄えただけでなく、大阪のベットタウン(住宅都市)として発展しました。 鉄道会社は、乗客を増やし収益の向上を図るため、自線沿線に積極的に住宅地開発を行い鉄道会社による住宅開発などによって 大阪のベットタウンとして 都市生活者の中にはよりよい生活環境を求めて住まいを郊外に移したいと願う人々が多く、これらの人々が阪神文化を担ってきた町、伊丹の一面が紹介されておりました。 伊丹におけるモダニズムを見直し、あらたな発見となるすばらしい企画でした。 2006年4月にはNHKの人気番組「その時歴史が動いた」で白洲次郎のことが放送されました。 このように伊丹にも縁がある白洲次郎について紹介いたします。 雑誌からスキャナーで取り込んだたけ不鮮明でわかりにくいですが、 コミュニティ誌「いたみティVol.61」 2004年10月号に伊丹市在住の中森しげ子さん所有の伊丹が写っている珍しい絵葉書が紹介されています。 その絵葉書(下の写真)には大正初期に三田市出身の芦屋に住んでいた実業家白洲文平が建てた白洲屋敷 現在伊丹市春日丘4丁目付近)が写っています。 ちょうど猪名野神社から伊丹緑道沿いに北に上ったところが春日丘で、この地は高台になっており当時の白洲屋敷からは大阪方面を見下ろす景観地にありました。 この屋敷の規模は桁はずれにすごいです。 なんと伊丹邸は敷地4万坪といわれ、伊丹段丘崖から東方を眺めわたす豪奢な建物であり、、中にはミレー、コロー、マティスらの名品を集めた美術館まであったという。 名品で飾った美術館やボタン園などL字型の2階建てで贅の限りを尽くしたものであったが、昭和に入ってすぐに文平が破産し手放され、その後切り売りされましたが、写真の給水塔跡は昭和50年頃まで残っていました。 その白洲文平の二男が白洲次郎です。 また妻の白洲正子(旧姓樺山正子)も個性豊かな女性であり、文筆家でもあり陶芸,骨董品への造詣も深く知性あふれる女性です 大正から昭和の一時期に白洲次郎は伊丹町に籍をおいており、次郎と妻正子(随筆家)の婚姻届は1930(昭和5)年、伊丹町役場に提出されています。 このような人物が我が町伊丹にゆかりがあったことは非常に嬉しく思います。 (宮内大臣に報告されている婚姻届) 上の写真は「いたみティ」Vol. 61に掲載の記事より引用。 Google Earthによる位置表示。 そして上記の番組パンフとともに北氏が1月に朝日新聞出版社から発刊されて「レジェンド白洲次郎」をいただきました。 その記述の中で白洲文平のこの白洲御殿が伊丹市春日丘にあったことや、地元の伯父さんから地元のコミュニティ誌「いたみティ」を送ってもらったことなどが紹介されています。 伊丹市には贅を尽くした建物を建てることが趣味であり、新築してはすぐにまた新しい家を建てるといった、豪快で傍若無人な人物であったと言われる父親文平氏のことが、書かれています。 次から次と建物を建てるためにミヨシさんというお抱えの大工をかかえて家屋建築の道楽三昧の日々。 次郎もこの大工に影響を受けて手作りの家具など作ることがあったと言われています。 その後文平は事業の資金繰りの悪化により、事業から手を引き伊丹の屋敷も売却。 白洲屋敷を解体する段になって、あまりに立派なもので一部再利用されることになりました。 玄関部分は筆供養で有名な京都・東福寺内の正覚庵に移築され長屋門は市内東野の久保貞雄氏宅の門として今も使われています。 白洲次郎は、父親のことを「僕はよく傍若無人だと言われるが、僕の死んだおやじに比べれば、傍若無人なんておよそ縁が遠いと思う。 」と評しています。 彼が日本国憲法制定にあたって、日本の民主化について再考を求めるため、GHQ民生局長に出したいわゆるの最後の結びににも父親のことを引用して次のように書いています。 I am afraid I have already accelerated the paper shortage by writing this mumble but I know you will forgive me for my shortcoming for which my late father is also partly responsible :」 「私はこのような愚痴を書いて紙不足を助長しているのではないかと思っていますが、 私の父親にも責任の一端がある私の欠点を貴方にお許しいただけるものと承知しております。 いずれにせよ今回NHKのドラマで放映され、また伊丹市の白洲御殿のことがこの本の中でとりあげられ紹介されています。 1月28日から神戸大丸のギャラリーで開催された白洲次郎と白洲正子展でもパネルで芦屋と伊丹の家の所在地の説明がありました。 実際4万坪の敷地といってもどのあたりまでがそうだったのか特定できませんが4千坪でも大邸宅です。 伊丹市にゆかりのある人物として多くの方に知られることは嬉しいかぎりです。 まずはじめに、白洲次郎について、ネット上のフリー百科事典で検索してみると。 白洲次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は日本の実業家。 貿易庁(通産省)長官、東北電力会長等を歴任。 吉田茂の側近として活躍する。 夫人は、作家・随筆家の白洲正子。 身長185センチ、容姿端麗、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある。 不思議なことにこれほど話題性のある人だが、彼が注目されだしたのはつい近年のことである。 <<生い立ち>> 1902年(明治35年)2月17日兵庫県武庫郡精道村(現、兵庫県芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。 (別邸は兵庫県伊丹市)白洲家は、摂津国三田藩の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵は、三田藩儒。 明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。 また、神戸ホーム(神戸女学院の前身)の創立にも携わる。 父文平は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績を経て綿貿易で巨万の富を築いた。 1919年(大正8年)旧制第一神戸中学校(現、兵庫県立神戸高校)を卒業。 神戸一中時代は、サッカー部・野球部に所属し、手のつけられない乱暴者として知られ、当時、既にペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し、後のカーマニア・「オイリー・ボーイ」の片鱗を見せていた。 同級生には、後に作家で文化庁長官となった今日出海、中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。 妻、白洲正子は随筆家、長男(第一子)白洲春正は元東宝東和社長、次男(第二子)白洲兼正、長女(第三子)白洲(現姓:牧山)桂子は旧白洲邸・武相荘館長。 1942年東京都町田市鶴川へ転居し、農業に従事した。 <<イギリス留学>> 神戸一中を卒業しイギリスに留学。 ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し、西洋中世史、人類学などを学ぶ。 自動車に耽溺し、ブガッティやベントレーを乗り回す。 ストラトフォード伯ロビン・ビングと終生の友となる。 ロビン・ビングとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでの欧州大陸旅行を実行している。 1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業。 1928年(昭和3年)父の経営していた白洲商店が倒産したため、帰国を余儀なくされる。 <<帰国>> 1929年(昭和4年)英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となる。 友人樺山丑二の紹介で妹の正子と知り合い、結婚する。 樺山正子との婚姻届は兵庫縣川邉郡伊丹町役場(現兵庫県伊丹市)、に提出されています。 その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役を歴任する。 この間、海外に赴くことが多く、駐イギリス大使であった吉田茂の面識を得、英国大使館を自らの定宿とするまでになった。 また、この頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動すると宣伝されているが当代の碩学の揃った「朝飯会」では無論、端っこにいる存在である。 <<ヨハンセン・グループ>> 1940年(昭和15年)来るべき日米戦争を予感し(夫人の白洲正子によれば、臆病なので空襲をおそれて)、事業から手を引き、鶴川村・武相荘(ぶあいそう)に隠棲。 カントリー・ジェントルマンを自称する。 食糧不足に対処して農業に励む日々を送る一方で、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し、ここから白洲の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。 <<終戦連絡中央事務局>> 1945年(昭和20年)東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣に就任した吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。 昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、ぞんざいに扱われたために憤激して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。 マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝った。 <<憲法改正>> 同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。 1946年3月に終連次長に就任。 8月経済安定本部次長に就任。 1947年(昭和22年)終連次長を退任する。 写真はNHKその時歴史は動いたー「マッカーサーを叱った男」より。 ) NHK「マッカーサーを叱った男」の番組では彼の個性から来る様々エピソードを通じて彼の戦後の活躍が、憲法改正だけでなくGHQの統制経済の破綻から脱却して、日本が貿易立国として通産省を立ち上げその経済復興の基盤をつくったことなど、戦後の混乱の時代になPrinciple 原則)を貫く人物と吉田茂との関係などを通じて白洲次郎の人物像を紹介した内容です。 「いまに見ていろ、とひそかに涙する。 」という彼の言葉が物語るように、彼はGHQ内部の社会主義的なスタッフのいる民生局の干渉により昭和22年6月社会党片山内閣誕生、引き続き民主党の芦田内閣も昭電疑獄で総辞職。 経済も好転せず、いずれも短命内閣で終わる中にあって、再度第2次吉田内閣が発足。 彼も返り咲きを果たした。 そして彼は民生局の内政干渉を阻止するため、内部で民生局に対立するGHQ参謀2部に周到な根回しをして民生局の勢力をそぐことに成功。 ついにマッカーサーもGHQの総意として吉田内閣で問題なしと結論づけた。 吉田内閣で彼は貿易庁長官として日本経済の自立をめざした。 しかし庁内では賄賂が横行する体質の中で、彼は毅然と汚職職官僚を糾弾して組織の改革に取組む。. また当時はアメリカの援助物資を売却した資金をもとにした政府補助金を基本にした貿易体制では決して日本の経済的な独立は成しえない。 と結論付け、彼は官僚の干渉や妨害をはねのけ自由貿易をめざしてた省庁、昭和24年5月通商産業省を立ち上げ戦後復興の基盤を作った。 白洲は通産省の立ち上げをみとどけた後、ひっそりと公職を離れたため、「風の男-白洲次郎」と呼ばれた。 その後、昭和26年サンフランシスコ講和会議に出席のため、一民間人として吉田に呼ばれて同行する。 そこで白洲は講和条約受託演説の原稿は外務省が先方とすりあわせて美辞麗句で相手を賞賛した内容でしかも英語で書かれている原稿に激怒して、それを日本語に改め堂々と日本語で吉田首相に演説させるなど最期まで彼独特のプリンシプルを貫く男であった。 戦後の日本について語った言葉 われわれが現在声たからかに唱えている新憲法も,デモクラシーも、 我々の本当の自分のものになっているとは思わない。 それが本当に心の底から自分のものになった時においてはじめて 「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう。 もし日本が戦後の混乱期をうまく乗り切れず社会主義への道を歩んでいたり、経済の独立が達成できなかったら、日本は、今のようなMade in Japan が世界中で信頼のブランドとなる技術大国や経済発展は決して実現しなかったでしょう。 そのような意味で、幸いにして彼のように品位を重んじ、私利私欲にとらわれずみずからのプリンシプル(原則)を貫く大胆な人物がこの時代に登場して活躍していたことに大いに感動しました。 日本の復興にとって彼のような卓越した人材に恵まれたことが非常に幸運であった。 平成18年4月に放送され、10月に再放送されましたが、本当に見ごたえのある内容でした。 国立国会図書館のページ (クリック) より引用。 1946(昭和21)年2月15日、白洲次郎終戦連絡事務局参与は、松本烝治国務大臣の意を受けて、ホイットニー民政局長に宛て、GHQ草案が、松本等に大きな衝撃を与え たことを伝え、遠まわしに、「松本案」の再考を希望する旨の書簡を送った。 白洲は、「松本案」とGHQ草案は、目的を同じくし、ただ、その目的に到達する道すじを異にする だけだとして、「松本案」は、日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対してGHQ草案は、一挙にその目的を達しようとするものだとした。 この書簡に対して、ホイットニー局長から、翌16日、返書が寄せられ、同局長は、日本側が、白洲の書簡に よってGHQの意向を打診し、「松本案」を固守しようとする態度に出ているとして厳しく反 論し、国際世論の動向からも、GHQ草案を採ることの必要性を力説している。 (下のイラストは国会図書館資料ページより引用) 白洲はホイットニーの方法はYour way として一気に民主化ヘ の目的(object を目指すものとし、松本氏の考えはTheir wayとし て手紙にイラストを入れてジープ・ウエイの説明をしている。 (武相荘にもタイプライターとともにこの手紙が展示されていた。 ) 貿易庁初代長官 1948年(昭和23年)商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。 経済復興には輸出振興が必要であるとし、通商政策の強化を目的とし、商工省を改組し、通商産業省設立の中心的役割を果たした。 これはGHQの圧力を利用した通産省の池田派占有のロビー活動でしかなかったと批判されつづけている。 1950年(昭和25年)講和問題で、池田勇人蔵相、宮沢喜一蔵相秘書官とともにアメリカに渡り、ジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約の準備を開始した。 1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。 この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、英語から日本語に直し、沖縄の施政権返還を内容に入れさせた。 吉田退陣後は、政治から縁を切り、実業界に戻る。 実業界へ復帰 既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた白洲は1951年5月に東北電力会長に就任する。 昭和34年(1959年)に退任するまで、精力的に動き福島県奥只見ダムなどの建設を推進した。 東北電力退任後は、荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。 ゴルフ 白洲は、日本ゴルフ界を語るには欠かせない人物でもある。 白洲がゴルフを始めたのは本人によると14、5歳の時からで英国留学中はゴルフはしなかったが、帰国してから熱中した。 昭和51年(1976年)軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事に就任。 メンバーは皆平等、ビジターを制限し、マナーにことのほか厳しく、「プレイ・ファスト」を徹底させた。 1982年(昭和57年)同倶楽部理事長に就任する。 田中角栄に対しては、クラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは、合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。 白洲は田中に対しては、人物を認めつつも、余りに金銭的に苦労したことを惜しんでいた。 晩年の白洲が政治家として最も評価していたのは宮澤喜一であったが、白洲正子は、これを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。 親友との再会 親友ロビン・ビングとは、互いに祖国が戦争状態に入るという不幸な時期を経て、1952年(昭和27年)ロンドンで再会を果たした。 最後にロビンと会ったのは昭和55年(1980年)のことであった。 三田市にある白洲家の墓地 死去 80歳までポルシェを乗り回し、ゴルフに興じていたが、1985年(昭和60年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院。 同年11月18日死去。 83歳。 墓所は兵庫県三田市。 正子夫人並びに御子息に残した遺言書には 「葬式無用 戒名不用」 と記してあった。 三田市にある心月院には三田藩主九鬼家の墓所があります。 ここに次郎の母が県下に分散していた墓を一つにまとめ改葬したという白洲家の墓地もあります。 エピソード 日本人で初めてジーンズを穿いた人といわれている。 長い足に映えた。 ラッパズボンも愛用しこれも似合った。 戦後の日本でGHQに対してプリンシプルを貫き「従順ならざる日本人」といわれた本当の意味でnoblesse oblidge (高い身分の者に伴う義務。 )という言葉が彼ほど似合う人物はいない生き方である。 時代の 変わり目となる激動の時代に、このような人物がいたことは日本にとって幸運であった。 また昭和26年9月号の文芸春秋に白洲次郎が寄せた一文「日曜日の食卓にて」で父親の白洲文平について語ったいます。 父親白洲文平氏もまたこのような豪快な人物であったことがうかがわれます。 -「風の男 白洲次郎」 青柳恵介著 新潮社。 より引用。 僕はよく傍若無人だと言われるが、僕の死んだおやじに比べれば、傍若無人なんておよそ縁が遠いと思う。 死んだ親父は、こういう人だった。 建築道楽で、家ばかり建てていた。 道楽はたくさんあって、ほかの、あまり言いたくない道楽もあったが、そして、いつでも建てる家は日本館にきまっている。 僕のおやじは外国育ちの男だ。 そこで西洋館は靴を脱がないでもいいから西洋館がいいじゃないかと言ったら、外国じゃ道がとてもきれいだ。 だから靴のまま上ったって汚くない。 だけど日本みたいな、こんな汚い道を歩いて来て、そのまま上られたらたまらない、だから日本館がいいと、言う。 ところが、そのおやじは靴履いて畳の上を歩くのだ。 そして人が汚いじゃないですかと言うと、俺は別だと言って澄している。 これがほんとの傍若無人というものだ。 僕のおやじは、子供のときから外国育ちで、ほんとの意味のお洒落だった。 晩年は九州の、大分と熊本との国境に、百姓をして独りで住んでいた。 もっとも女中かなんかはいたけれども、東京に来るときは、木綿の刺子の紺の股引をはいて、上にはツイードの洋服を着て、荷物は全部猟に行くときの網に入れて、それで東京に来て平気で歩いている。 そういう人だった。 死んだという電報が来たので、妹が行ったら、ベッドに独り死んでいて、ベッドの下を見たら、棺桶が入っていた。 それはほんとの田舎で、身体が大きいから、出来合いの棺桶ではあとの者が困るだろうというので、前からつくってあったのだ。 こういうことも皆傍若無人の現われといえよう。 地域の有力者だった白洲文平氏(大正10年の新聞記事より。 ) 伊丹市広報紙?(大正10年)と思われる新聞記事コピーをある郷土史研究の方からいただきました。 記事の内容は9月15日に開会された伊丹町会の内容で、議題が寄付採納2件、郡立女学校費の件、町予算更正追加の件となっている。 (右の写真ークリック拡大表示。 ) 寄付採納の2件は、1件目はコピーが黒くて読みにくいですが 、「池上茂兵衛氏より金200円を伊丹小学校基本財産に寄付。 」 そして2件目は、 「郡立高等女学校設立に関し町費中へ左の通り指定寄付」 二萬円 一萬円 白洲 文 平 八千円 七千円 武内 佐次郎 四千円 と寄付者の記載がつづき合計6万2千3百50円の寄付が異議なく可決された。 また下の段の記事では 「中学校横より、白洲氏邸前に通ずる道路新設の件」と記載されています。 現在の小西新右衞門はじめ酒造家ら上位4名の多額寄付で全体の寄付額の半分以上も占めています。 当時の1万円といえばどれだけの価値があったのでしょうか。 白洲文平氏は伊丹の有力者として地域にも貢献されています。 (この新聞ならびに関連情報があればメールください。 ) 追 記1 伊丹市内のコミュニティ誌「いたみティ」Vol. 70、2007年1月号に 「伊丹の白洲屋敷にあった大水槽の写 真見つかる」 という記事が紹介されています。 わたしもこの水槽は子供のころ近くを通って在ったことを覚えてますが、何の建造物かまったく知りませんでした。 写真は、水槽の隣接地にお住まいの元木俊幸さん宅に保存されていた写真が掲載されており、その大水槽の高さは約10メートルあり、ツタが生い茂っている珍しい写真です。 元木さんの話では倒壊の危険性が高くなって平成元年頃に取り壊されたという。 ことです。 白洲屋敷の敷地は4万坪(132,000平米)といわれ、この大邸宅は,昭和5年ごろ、文平が破産したため手放し、その後分割して売られ相次いで住宅ができた。 このとき水槽も壊そうという話がでたが、「だれかがたたりがある。 」といいだしたところから残った。 とのこと。 白洲文平が寄付した女学校建設のための1万円は現在の貨幣価値で5千万から1億円にあたるものであり、この郡立高等女学校はその後県立伊丹高等女学校となり戦後の学制改革で県立伊丹中学校と合併、現在の県立伊丹高等学校へと引継がれた。 (「いたみティ」Vol.70より引用。 ) もし取り壊さなかったら、おそらく平成7年に当地を襲った阪神淡路大震災ではきっと倒壊して付近に被害が出ていたかもしれません。 いずれにせよ屋敷への給水に水圧が必要でこの大水槽が付設して造られたのですが、一軒の家屋に使う水槽だけでもこれだけの規模が要ったということは往時の屋敷の規模がいかに大きかったのか想像できます。 「今に生きる白洲次郎」 (A4サイズ 28ページ 神戸市シルバーカレッジ・国際交流・協力コース12期生の皆さんが2008年3月に作成された 報告書は白洲次郎に関して体系的に詳しく紹介されています。 家系図削除。 上記サイトを参照してください。 ) 吉田茂との係わりに関して、 白洲次郎は、 「吉田さんの奥さんは 牧野伸顕の娘さんで、牧野伸顕は鹿児島出身で、 大久保利通の二男なのです。 僕の女房は、やはり鹿児島出身でです。 そんな関係で牧野伸顕を知っておったから吉田さんも知っていたということです。 吉田さんが英国の大使をしている時分(昭和11~13年)によくロンドンに行ったんです。 そのころ、私は日産コンツェルンの外国関係の責任者だったんです。 まだ若くて、三十歳ちょっとくらいです。 その時分にロンドンに行ってよく話したりしまして、はじめて大人の付合いがはじまったということでしょうね。 」 東京都郊外の町田市には白洲次郎・正子夫妻が農家を買い取り改装して住まいとしていた住居を娘の牧山桂子さんが武相荘として公開されています。 落ち着いた佇まいの中で、骨董蒐集に卓越した白洲正子さんのコレクションの展示など様々なイベントや展示もされており、四季折々の花木も楽しめます。 この武相荘は2002年11月に町田市の指定史跡となっています。 落ち着いた雰囲気の庭や茅葺の家屋など撮影しました。 20撮影)。 武相荘のページへリンク *武相荘のページより引用記事。 父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。 武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。 近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けておりました。 私は両親を親としてしか見た事がなく、同じ様に私が育ち、両親が人生の大半を過した現在の茅葺き屋根の家に対しても、ただ家という認識しかありませんでした。 この記事は伊丹市文化財保存協会から発行されて伊丹市教育委員会生涯学習部社会 教育課がまとめたものであり白洲家屋敷跡碑建立に際して調査された史実を体系的に まとめられています。 伊丹市民だけでなく多くの方々に昭和の快男児といわれた白洲次郎という人物や4万 坪の屋敷と言われる理由などの解説を通じて白洲次郎という人物に思いを馳せること ができる内容です。 ・ 伊丹市は平成22年3月に伊丹緑道の段丘上に建設された「白洲家伊丹屋敷」跡地内に説明 案内板を設置しました。 (このページがリンクされているより引用。 ) 【白洲次郎】マッカーサーを叱った男~戦後復興への挑戦~ Youtubeより。 追 記3 エフエムいたみプレス VOL11 2011年春号 ーVOL13 より。

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