アッシリア 王国。 アッシリア帝国

アッシリア王国とは?歴史や誕生・滅亡の理由、伝説の女王なども徹底解説

アッシリア 王国

ティグラト・ピレセル3世が帝国の基礎を作り、アッシュル・バニパルの時代に最盛期を迎えます。 アッシュル・バニパルは楔形文字について造詣が深く、『文化王』の名にふさわしい知性を持ち合わせていましたが、同時に持っていた側面が『残酷性』でした。 彼の統治はあまりにも残酷であり、抵抗した国家を徹底的に破壊していくき、支配に逆らう民族を容赦なく虐殺していきました。 このような圧政によって諸民族の反乱を受け、アッシリア帝国は100年程度で崩壊することになります。 滅亡は 紀元前609年だと言われています。 史上初の世界帝国アッシリアは、• エジプト• リディア• メディア• 新バビロニア の4つに分断。 それを 紀元前525年にペルシャ人が『アケメネス朝』としてこれを統一します。 そこからアレキサンダー大王が支配する 紀元前330年頃まで、 アケメネス朝ペルシャがヨーロッパの覇権を握ることになります。 両方とも現在の中東近辺(アッシリア=イラク、ペルシャ=イラン)エリアの国です。 史上初の世界帝国 アッシリア・アケメネス朝ペルシャ 上記の記事の続きだ。 このようにして『エジプト文明』は紀元前30世紀頃に作られ、実に2500年もの間繁栄を続けた。 しかし、勢力を強めたアッシリア帝国に支配され、紀元前6世紀ごろにアケメネス朝のペルシャによって滅ぼされることになる。 また並行してエジプトは、7世紀あたりからヘレニズムとローマ帝国の領域となり、イスラム圏に飲み込まれていく。 上記の記事に書いたように、ローマ帝国は紀元前800年頃から作られ始める。 つまり、• ローマ帝国• アケメネス朝ペルシャの帝国 という2代帝国が、現在のヨーロッパや中東地域で頭角を現していた。 冒頭の記事のつながりで、まずは『アケメネス朝ペルシャ』について見てみよう。 その前にまず覚えるキーワードは、『 オリエント』である。 オリエント オリエント 中東一体 オリエントというのは現在で言う『中東』の一体のことだ。 西はエジプト、東はインド地域あたりの広範囲を『オリエント』と言った。 だがこのオリエントという言葉は、実は差別用語に近いものがある。 『オリエンタリズム』の意味を見てみよう。 オリエンタリズム世界を西洋と東洋に分けて考える考え方。 トルコから日本を含めた東洋(オリエント)を馬鹿にし、ヨーロッパを世界の中心と考える傲慢。 [ウジェーヌ・ドラクロワの「アルジェの女達」。 退廃的で官能的でもある、この作品は西ヨーロッパ人の持った東方世界のイメージの現れ] つまり、オリエントというのはまずヨーロッパが世界の中心にあり、『それ以外の地域』のことを指す言葉として生まれている言葉でもある。 しかし、その2代帝国が2つとも近隣にあることを考えてもわかるように、『そこから東の方』は、あまり重要ではない地域だと考えられていたのである。 『極東の国』日本 日本ともなると『 極東の国』などと言われる。 『極めて東にある国』のことだ。 北極、南極と同じように、『東の果てにある』というぐらい、彼らからしたら遠く離れた国のことになる。 それが何となくわかるワンシーンがある。 かつてイスラム国を名乗るテロリストが日本人2人を監禁し、身代金を要求したとき、日本の安倍総理は断固としてそれを断った。 しかしテロリストは日本人を殺害してしまい、このような内容の声明を出した。 日本は遠い国だが、これでテロの標的になってしまった。 全文は覚えていないが、確かに内容はこうだった。 つまり彼らにとって日本という国は、『 無関係と思えるほど、遠い国』という認識があったのだ。 しかし、身代金を断られたことで敵視しなければならなくなったと。 そういう声明を出したわけだ。 この事件からわかったのは、彼ら中東の地域に住んでいる人々が、 日本という国について感じている『距離感』だった。 当時の人は今以上に『東の国』に対し、違う世界を見るかのような感覚を持っていたのだろう。 アッシリア帝国 さて、とにかく当時は『オリエント』という言葉が使われていた。 それらの地域では様々な王国の勃興が続いていたが、紀元前7世紀の前半、セム語系遊牧民アッシリア人が、• シリア• バビロニア• パレスチナ• エジプト を統一し、世界帝国を打ち立てた。 アッシリアがオリエントの統一王朝を成し遂げたのである。 『アッシリア帝国』を作り始めたのは、ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年 — 紀元前727年)』の時代からである。 彼がシャルマネセル3世の死後弱体化していたアッシリアの王権を強化し、シリア、バビロニアなど周辺諸国を攻撃して領土を広げアッシリアの最盛期と言われる時代の端緒を開いた。 [アッシリア王アッシュールバニパル(在位:紀元前668年 — 紀元前627年頃)の浮き彫り(ロンドンの大英博物館蔵)。 ] アッシリアの重要人物• ティグラト・ピレセル3世• サルゴン2世• アッシュル・バニパル 全盛期はティグラト・ピレセル3世の治世からアッシュル・バニパルの治世までの100年だ。 この間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。 帝国崩壊 この アッシュル・バニパルは、アッシリア帝国の最盛期を飾るサルゴン朝の最後の王であり、楔形文字について造詣が深く、『 文化王』の名にふさわしい知性を持ち合わせていた。 だが、同時に持っていた側面が、『 残酷性』である。 彼の統治はあまりにも残酷であり、抵抗した国家を徹底的に破壊していくき、支配に逆らう民族を容赦なく虐殺していった。 このような圧政によって諸民族の反乱を受け、アッシリアはついに崩壊することになる。 そして間もなく史上初の世界帝国アッシリアは、• エジプト• リディア• メディア• 新バビロニア の4つに分断されることになってしまう。 MEMOリディアは、世界最古の金属貨幣を作った。 人類のお金の歴史の始まりである。 またこの新バビロニアは、ユダ王国というユダヤ人の国を滅ぼし、その時に多くのヘブライ人(ユダヤ人、イスラエル人)が捕囚された。 これが、歴史的に有名なキーワードである『 バビロン捕囚』である。 アケメネス朝ペルシャ しかしこの後、ペルシャ人が『アケメネス朝』としてこれを統一することになる。 紀元前525年のことである。 このペルシャというのは、もともと『メディア』に属していた。 メディアの王であったカンビュセス1世とメディアの王女マンダネは、『 キュロス(2世)』をもうける。 このキュロスは、メディアを打倒し、イラン高原で覇権を確立。 そして、• リディア• バビロニア を滅ぼし、ついに西アジア世界を包み込む大帝国の支配者となる。 これが『アケメネス朝』の始まりである。 最盛期のダレイオス1世 このダレイオス1世というのは、キュロス2世の娘と結婚することになる。 しかし、2代目カンビュセス2世が死亡したあと、アケメネス朝は内乱に陥り、それを収めて帝国を再統治いつする必要があった。 ダレイオスは9人もの王を打ち倒し、それを成し遂げたのだ。 ダレイオスは、『 サトラップ』という知事に、州に分けさせた帝国を監視させ、更にサトラップ自体を、• 王の目• 王の耳 という役職を設け、彼らに監視役をさせ、巨大帝国の秩序を保った。 また、『王の道』という道路網も整備した。 当時の環境で考えられる、様々な工夫によって帝国を統治しようとしたのである。 ペルシャ戦争 その後ダレイオスは、更に領域を拡大しようとする。 ギリシャとの戦い しかし、ペルシャはペルシャ戦争には敗北するが、その後『ペロポネソス戦争』などの戦争に介入するなどして、ギリシャへの勢力拡大は狙い続ける。 例えば、アケメネス朝の4代目の王、『クセルクセス1世』は、父親であるダレイオスの意思を次いでペルシャ戦争を再開させる。 170万人の歩兵と10万人の騎兵および1207隻の艦船からなる大軍を率いて、『 テルモピュライの戦い』に勝つ。 その後、アテネに無血入場を果たすが、サラミス湾で艦隊が敗北し、撤退を余儀なくされた。 [ジャック=ルイ・ダヴィッド『テルモピュライのレオニダス』] テルモピュライの戦いは、 紀元前480年。 マラトンの戦いの10年後だ。 この戦いについては、映画『 300』の舞台となったことでも有名だ。 ギリシャのスパルタはカルネイア祭によって全軍を出仕できず、レオニダス王率いる先遣隊300のみを派遣した。 つまり、レオニダス率いるスパルタ軍300人の精鋭たちが、100万人以上のペルシャ軍を相手に、戦いを挑む雄姿を描いた映画だ。 不気味で巨大なペルシャの王、クセルクセスも見ることができる。 いわゆる『スパルタ教育』がどうとか言って騒いでいる現代人には、およそ彼らの境地に到達することはできないだろう。 生きるために強くなければならなかった。 スパルタ軍の男たちの生きざまを、この映画で十分に想像することができる。 その後ペルシャは先ほどあった知事である『サトラップ』らの反乱などの影響もあり、衰退していくことになる。 そして、紀元前330年、ギリシャ地域にあるマケドニアのアレクサンドロス3世によって、滅亡することになる。 これが、史上初の世界帝国アッシリアから、オリエントを再統一したアケメネス朝ペルシャの歴史だ。 紀元前700年頃~紀元前330年頃までの話である。 次の記事 該当する年表 SNS.

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アッシリア―聖書の歴史

アッシリア 王国

第39代 シャムシ ・ アダトの時代に王名表に書き入れられたらしい。 (アモリ系の部族名にちなんだ名も記されているという) 1. トゥディヤ ( 在位年代 不明) 2. アダム ( 在位年代 不明) 3. ヤンギ ( 在位年代 不明) 4. サフラム ( 在位年代 不明) 5. ハルハル ( 在位年代 不明) 6. マンダル ( 在位年代 ; 不明) 7. イムツ ( 在位年代 不明) 8. ハルツ ( 在位年代 不明) 9. ディダヌ ( 在位年代 不明) 10. ハヌ ( 在位年代 不明) 11. ズアブ ( 在位年代 不明) 12. ヌアブ ( 在位年代 不明) 13. アバズ ( 在位年代 不明) 14. ベル ( 在位年代 不明) 15. 17.アピアシャル ( 在位年代 ; 不明) 18.ハレ ( 在位年代 ; 不明) 19.サマヌ ( 在位年代 ; 不明) 20.ハヤヌ ( 在位年代 ; 不明) 21.イル ・メル ( 在位年代 ; 不明) 22.ヤクメシ ( 在位年代 ; 不明) 23.ヤクメニ ( 在位年代 ; 不明) 24.ヤズクル ・イル ( 在位年代 ; 不明) 25.イラ ・カブカブ (イラ ・カプカプ) ( 在位年代 ; 不明) 第39代 シャムシ ・ アダドの改竄による王の名。 彼は、自分の簒奪を正当化するために 自分の父の名を、時代をさかのぼって数百年前の王の名に書き入れた。 アッカド時代のイシュタル神殿から出てきた石板(アッシュールで発見された)。 父ダキキの名は王名表には載っていないが、その役職とされる「伝令」とは、特別な職業だったらしい。 28.キキヤ ( 在位年代 ; 不明) アッシュール市の城壁を初めて築いた王とされる。 29.アキヤ ( 在位年代 ; 不明) 30.プズル ・アッシュール 1世 (前21世紀 初め ) 本によっては、この王が「ウル第三王朝」「イシン王朝」から独立し、アッシリアの独立王朝を建国した、と書いてある。 31.シャリム ・アフム ( 在位年代 ; 不明) 32.イル ・シュマ ( 在位 ; 前21世紀 なかば ) バビロン第一王朝の祖スム ・アブム (在位;前2057〜2044) と争う (?)。 この王の時代、アッシリアはバビロニアやティグリス河以東の地方に「自由を確立した」。 33.エリシュム 1世 ( 在位年代 ; 不明) 碑文が多い(17点)。 36.プズル ・アッシュール 2世 ( 在位年代 ; 不明) 37.ナラム ・ シン ( 在位年代 ; 不明) アッカド王朝の同名の名高い「ナラム ・シン」 (在位;前2254〜前2218) と、どのような関係があるかは不明。 祖父のサルゴンがアッカドのサルゴン大王と混同されることが多かったため、こちらも混同されて王名表の中に書き入れられてしまったのではないか。 また、同時期の都市エシュヌンナの支配者にも、同名の人物がいたらしい。 38.エリシュム 2世 ( 在位; 前1920〜前1900) シャムシ アダドに王位を簒奪される。 この時期、アッシリアは弱体化しきっていた。 (なお、この支配年代は、とあるサイトで見つけてきたものなんだけど・・・ 間違っているよね。 父の名は「イラ ・カブカブ」・・・アモリ系小王国の王。 シャムシ アダドはそれまでの「アッシリア王国」を滅亡させたが、みずから新王朝を開くようなことをせず、 王名表を改竄することで、自分がアッシリアの由緒正しい後継者である、とアピールした。 領土を 西方へ拡大 ・・・・マリ王国を併合したことを手始めに、シュバト・エンリル、テルカ、エカラトゥム、カラナ、シュシャラなどを獲得し、メソポタミア全域に及ぶ支配権を確立。 広大な広大な領土の支配の権限を二人の息子に分割して与えた。 ・自分;アッシリアの中央にある都市「シュバト・エンリル」。 ・長子イシュメ・ダガン ・・・・ 「エカラトゥムの王」 (エシュヌンナ等の外敵に対する備え) ・次子ヤスマハ・アッドゥ (イアスマダ ・アダド) ・・・・ 「マリの王」 (シリア方面に対する備え) シャムシ アダドが死去すると、バビロニアのハムラビ王の援助を受けて、ヤスマハ アダドはマリから追い出され、旧・マリ王国の遺児ジム・リリムが返り咲く。 「世界の王」という称号を使用する。 (ごくまれに) 首都の物価を制定。 4g)に対し、穀物2クル(504リットル)、羊毛1シェケル5ミナ(7. 5kg)、油1シェケル2セア(16. 4グラムなのに羊毛1シェケル5ミナが7. 5キログラムって、どういう単位なんだ、ミナ。 この王が死ぬ前後までバビロン第一王朝のハムラビ (位;前1792〜前1750) が「シャムシ ・アダドに」臣従していた(らしい)。 40.イシュメ ・ダガン 1世 ( 在位; 前1780〜前1741 /39年間 ) 前1762年から、バビロン第一王朝の ハムラビ王がメソポタミアの大外征を開始し、一時期強大な勢力を誇り、アッシリアはたびたびこれに敗れた。 前1759年にはアッシリアはバビロニアに併合されている。 (前1740頃〜前1363年) 北西の大国・ミタンニ王国の圧迫を受ける。 この時代、アッシリアの王の名前のみがかろうじて分かっている程度で、それ以外の資料は極端に少ない。 アッシリア王家の中では、王位簒奪が相次いだらしい。 しかし、この時代に長い服従の期間と独立への抗争を地道に重ねたことにより、アッシリアは「それまでの商業重視の性格から 軍事主義的性格 を鍛えていった」という。 41.アッシュール ・ドゥグル ( 在位; 前1741 ? 〜?) 「名前のない人の息子」。 42〜46. 5人の王(名は不明) 47.アダシ王 ( 在位年代 ; 不明) 48〜55. 8人の王(名は不明) 56.エリシュム 3世 ( 在位年代 ; 不明) 57.シャムシ ・アダト 2世 ( 在位年代 ; 不明) 58.イシュメ ・ダガン 2世 ( 在位年代 ; 不明) 59.シャムシ ・アダト 3世 ( 在位年代 ; 不明) 60.アッシュール ・ニラリ 1世 ( 在位; 前1540年 ごろ ) わずかに、破壊された神殿・王宮の建造・修理の記録が残っている。 61.プズル ・アッシュール 3世 ( 在位 ; 前1540年 ごろ〜 ?) 前1500年ごろ ? 、バビロニア・カッシート王朝のブルナ ・ブリアシュ1世と、国境の確定をした。 62.エンリル ・ナツィル 1世 (エンリルナシル) ( 在位年代 ; 不明) 63.ヌル ・イリ ( 在位年代 ; 不明) 中央公論社の『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』には、この間に 「アッシュール ・ シャドニ」「アッシュール ・ ラビ1世」「アッシュール ・ ナディン ・ アヘ1世」「エンリル ・ ナツィル2世」 ( 在位 ; 前1430〜25) の4人の名が加えられている。 (即位代の番号は振られていない) アッシュール・ナディン・アヘ1世は、エジプトと同盟を結び、エジプト王から黄金を贈られた。 なぜこれらの王の名が「王名表」に含まれていないのかは、不明である。 66.アッシュール ・リム ・ニシェシュ ( 在位 ; 前1408〜1401) 67.アッシュール ・ナディン ・アヘ(アケ) 2世 Asshur - nadin - akhe ( 在位 ; 前1400〜1391) 独立君主として、エジプト君主と文通。 それまではアッシリア人は、自分たちの土地を「シュバルトゥ」「スバルトゥ」と呼んでいた。 前1360年、強国・ミタンニ王国の内紛に乗じ、ヒッタイトの シュッピリウマ王と共同で、ミタンニ王トゥシュラッタを破り、その後トゥシュラッタが宮廷内の内乱で暗殺されたため、今度はフルリ王アルタタマと共同で、ミタンニの領土を分断してしまった。 エジプト王に戦車・馬・ラピスラズリを贈り、お返しに黄金を贈られる。 当初バビロニア王 ブルナ ・ ブリアシュ3世はいまだにアッシリアを自分の属国とみなしていて、アッシュール ・ウバリトがエジプト王 アメンホテップ4世を「兄弟」と呼ぶつきあいを開始したとき、「なぜアッシリアが勝手にエジプトに行ったのか(自分には理解できない)、エジプトがもしバビロニアを愛するならば、アッシリアにどんな商売もさせないように」という脅しの内容の書簡を送っている(アマルナ文書)。 しかしまもなくバビロニアもアッシュールウバリトが強大な権力を有していることを認めざるを得なくなり、アッシリアの皇女を自分の息子の嫁として迎えた。 バビロニア王ブルナブリアシュ3世の死後、王となったその孫が暗殺されると、アッシュールウバリトはバビロニアの内政に干渉し、自分の曾孫クリガルズを王位につけた。 70.エンリル ・ニラリ ( 在位; 前1327〜1318) or. ( 在位; 前1340〜1326 ごろ ) ????? 父がバビロニア王位につけたクリガルズと、激しく争う。 「神の代行者」である王が、初めて 「リンム職」 (市民の中から毎年くじで選ばれる俗権の代表者) に就任する。 71.アリク ・デン ・イリ (アリク ・デーン ・イル) ( 在位; 前1317〜1306) このころ、シリア方面からアラム人が進入し、またスティ人やアフラメ人も登場し、王たちはその対応に忙しくなった。 72. アダド ・ ニラリ 1世 ( 在位; 前1305〜1274 /31年間 ) 征服活動。 西方;ハルラン、カルケミシュを占領。 東方;バビロニアからラピク以北を奪う。 ハニガルバド (旧ミタンニ=シリア北部) の王シャトゥアラ1世を捕虜に、朝貢を課す。 その後ふたたび同地に進軍し、シャトゥアラの子ワサシャッタを破り「アッシリアに反逆した」という理由で、多くの王族をアッシュールに連行する。 アダドニラリが ヒッタイト王ムワタリに「兄弟」と呼びかけた書簡に対しヒッタイト王は不快を示し、「なぜ私がお前に兄弟と呼ばれなければならないか、私とお前が同じ母親の腹から生まれたとでも言うのか」という書簡を返している。 それまで慣例として使われていた王の称号「エンリルの代官」「神アッシュールの副王」のほかに、かつてシャムシアダドが使った称号「世界の王」を復活させる。 (以後、慣例化) 73. シャルマネセル 1世(シャルマナサル) ( 在位; 前1273〜1244 /29年間 ) 上のアダドニラリがおこなった、ハニガルバドの王シャトゥアラの対する勝利は、シャルマネセルの業績とする本もある。 ハニガルバドは、ヒッタイトやアラム人と結んでいたため、アッシリアはそれらとも争うようになる。 アッシリアに対抗して、ヒッタイト王ハットゥシリ3世はバビロニア王カダシュマン ・トゥルグと条約を結んだ。 東北部のウルアトリ (のちのウラルトゥ) をとりあえず平定する。 東方の山岳部族クタ人 (グティウム人) を討って、莫大な戦利品を得る。 バビロニア軍を殲滅。 カルフ (要害の地 ;大ザブ河とティグリス河の合流点) に第二の王宮を建造。 74. トゥクルティ ・ ニヌルタ 1世 (ツクルチ ・ ニヌラタ) ( 在位; 前1243〜1207 /36年間 ) 前1232年、バビロニア占領。 バビロニア王カシュ・ティリアシュをアッシュールに連行。 アッシリア王が短期間バビロンを直接統治したのち、 (1年半後に叛乱が起こったので、バビロンを焼き払ってマルドゥク神殿の神像を略奪した後) 、傀儡政権をバビロニアに立てる。 『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』 ・・・対バビロニア戦の武勲。 アッシリアに代々うたわれる。 「彼の力は栄光に満ち、前後の不敬な者を焼き焦がす。 彼の激しさは燃え立ち、左右の従わざる者を焼き尽くす。 彼の輝きは恐ろしく、全ての敵を打ち破る。 彼は四方の隅まで征服し、王たちはひとりのこらず恐れて生きる」 都市アッシュールに巨大な新王宮を建造したが、どうしたわけか彼自身はこれを使用しなかった。 さらにアッシュールの郊外に、新都カール・トゥクルティ・ニヌルタ (=トゥクルティニヌルタの港) を建造。 新都造営には強制連行された被征服民を使用。 しかし王の死後、この新都は打ち捨てられる。 ギリシャの伝説中で「ニノス王」と呼ばれる。 息子のひとりに 暗殺される。 略奪されたマルドゥクの神像の神罰、とうわさされる。 76.アッシュール ・ニラリ 3世 ( 在位; 前1202〜1197) 77.エンリル ・クダリ ・ウスラ ( 在位; 前1196〜1191) 78.ニヌラタ ・アッパール ・エクル ( 在位; 前1191〜1179) 79.アッシュール ・ダン 1世 ( 在位; 前1178〜1133) 80.アッシュール ・レシャ ・イシ 1世 (レーシュ ・イシ) ( 在位; 前1132〜1115) バビロニア、グティウム人、アラム人、ルルビ人を討つ。 81.ニヌルタ ・トゥクルティ ・アッシュール (ニヌラタ ・ツクルチ ・アシュル) ( 在位; 前1115〜1114) 82.ムタッキル ・ヌク (ムタキル ・ヌスク) ( 在位; 前1115〜1114) 第81代と第82代の在位年代が重なってるんですよねー。 どうして? 83. ティグラト ・ ピレセル 1世 (チグラス ・ピレセル) ( 在位; 前1114〜1076 /38年間 ) ヒッタイト帝国崩壊後に出現したムシュキ人、カシュキ人を討つ。 北方のナイリに3度進出。 アッシリア王として 「初めて地中海まで進出」。 「ユーフラテス川を28回渡った」 ・・・シリアに14回遠征したことを意味する。 富裕なフェニキア都市アルワドに入城し、エジプト王から贈り物を得る。 タドマル(=パルミラ)、スヒなどのアラム人を、何度も討伐。 マルドゥク・ナディン・アヘ王を攻めて、バビロンを焼き払い、バビロニアを臣従させる。 地中海の海豹狩り、シリアの象狩り、獅子狩り、などのスポーツを好む。 農業の保護・奨励、行政制度の改正、神殿・王宮の造営、などの政策。 「ハムラビ法典」などをを手本とした 「中期アッシリア法典」の編纂。 『宮廷法令集』、『ハレム法令集』。 ;女性に関する条項が多く、女性の人権保護の様子がうかがえるという。 しかしまもなくアラム人の侵入と、大飢饉が重なり、アッシリアの国力は大きく後退。 ティグラト・ピレセルも暗殺された。 84.アシャレド ・アピル ・エクル (アシャリド ・パル ・エクル) ( 在位; 前1076 (?) ) or ( 在位; 前1075〜74) 85.アッシュール ・ベル ・カラ ( 在位; 前1076〜1057) 86、87. 王の名は不明 88.シャムシ ・アダド 4世 ( 在位; 前1053〜1049) 89〜93. 5人の王(名は不明) (前1049〜1010) 94.アッシュール ・ラビ 2世 ( 在位; 前1010〜970) 95.アッシュール ・レシ ・イシ 2世(アッシュール ・レーシュ ・イシ) ( 在位; 前969〜967) 96.ティグラト ・ピレセル 2世 (チグラス ・ピレセル) ( 在位; 前966〜935) 97.アッシュール ・ダン 2世 ( 在位; 前934〜912) ふたたびアッシリアの勢力拡大開始。 このころアッシリアの統治政策として、被征服民の 強制移住が、以前にもまして活発におこなわれるようになる。 99.トゥクルティ ・ニヌルタ 2世(ツクルチ ・ニヌラタ) ( 在位; 前890〜884) 北方の「前人未踏の地」まで攻め入る。 ユーフラテス河中流域まで平定。 「あらゆる敵を殲滅し、敵の死骸を杭に刺す」 100. アッシュールナツィルパル 2世 (アッシュールナシルパル、アッシュール・ナツィル・アプリ) ( 在位; 前883〜859 /18年間 ) 大征服王。 アッシリアを軍事的征服国家の方法へと進めた。 精力的で残酷な征服王として、典型的なアッシリア君主。 反抗する敵に対しては徹底的な破壊でもってむくい、服属民には重い貢納を課す。 従来の2頭立て2人乗りの馬車を、3頭立て3人乗りの馬車に改造して、戦車隊の攻撃力を倍増させる。 初めて戦車隊に代わる 「騎兵隊」を創設。 官制の改革もおこなう。 反抗した敵に対しては 徹底的な破壊政策で応じたので、シドン、ビュブロス、アルワドのフェニキア都市は、王の軍が近づいてくるだけで朝貢した。 「ティグリス河の彼岸から大海 (地中海) に至る、全ラケおよびスヒを、 (バビロニアとの境の) ラビクに至るまで征服し、スブナト水源からギルザンまで、下ザブ河の彼岸からザバンの上のティル・バリまで、ティル・シャ・アブダニからティル・シャ・ザブダニまでの地方を」征服した。 首都を ニネヴェから カルフ (現在のニムルド) に遷都し、新しい大王宮を建造。 どうでもいいことですが、アッシュールナシルパル「1世」、というのはどこにいたの?????? 101. シャルマネセル 3世 ( 在位; 前858〜824 /34年間 ) 父の遺策を継いでさらなる領土の拡大政策を推進。 しかしシリア (アラム人と新ハッティ人の諸国) に遠征したとき、カルケミシュやアレッポは進んで降伏したが、ダマスクス王国のビル・イドリ王 (旧約聖書のベン・ハダド) はイスラエルの十二王と同盟して、激しく抵抗した。 前854年、カルカルの戦い ・・・ アッシリアとダマスクスの両軍が、大損害をこうむる。 ヘルモン河の戦い ・・・ シュルマネセルはダマスクス王ハザエルの守る堅城を落とすことが出来なかったため、ハウランまでの周辺の土地を荒らし回った。 これに畏れて、シドン、ティルスなどのフェニキア都市と、イスラエル諸王のうちイェフはアッシリアに朝貢。 小アジア(キリキア、タバル)に対する遠征。 北方の ウラルトゥが強大になってきたので、何度か遠征したが、あまり効果は無かった。 バビロニア王に反逆したその弟を討つためにバビロンに遠征し、これを見事討ってバビロンの神殿で祭祀をおこない、バビロンにおけるアッシリア王の名声を強化する。 晩年、息子アッシュール ・ダニン ・アプリが叛乱を起こし、これは帝国全土に広がって王に対する大叛乱となった。 王はこれを鎮圧することが出来ず、カルフの王宮で、ひとりさびしく死んだ。 ところで、どうでもいいんですけど、シャルマネセル「2世」というのは、いったいいつ・・・・・・ 102.シャムシ ・アダド 5世 ( 在位; 前823〜811) 父シャルマネセルを死に追いやった兄の叛乱を、バビロニアの援助を借りて鎮圧。 しかし、内政は混乱し、地方代官(官僚)の権力が増大した。 なかには独立国のように振る舞う臣下も出現。 103.シャミラム ( 在位; 前811〜806) 104.アダド ・ニラリ 3世 ( 在位; 前806〜783) 幼年で即位したので、 母サムラマト (セミラミス、シャムシアダド5世妃 ・・・セミラーミデ?) が、摂政として後見。 (摂政の実状は不明) この賢明な母サムラマトのはなしは、のちにギリシャで伝説となった。 『女王セミラミス』 4年後に王が親政を始めると、西方遠征のためにバビロニアの援助を得るため、バビロニアの神をアッシリアで祀ることを始めた。 ダマスクス王マリ (ベン・ハダド3世) およびフェニキア諸都市はアッシリアに貢納。 ウラルトゥが強大化し、とくに王 メヌアシュ (位;前810〜?) がアッシリアに大きな脅威。 カルフの代官ベール・タルツィ・イルマの碑文によると、神ナブーのみを崇めようとする「唯一神信仰」の動きがあったらしい。 105.シャルマネセル 4世 ( 在位; 前782〜773) 106.アッシュール ・ダン 3世 ( 在位; 前772〜755) 107.アッシュール ・ニラニ 3世 ( 在位; 前754〜745) ニラニ??? 3世??? アッシュールニラリ3世は別にいるしなあ・・・・。 108. ティグラトピレセル 3世(トゥクルティ・アパル・エシャラ) ( 在位; 前744〜727 /17年間 ) 王位簒奪者であったと考えられている。 (王の碑文の中に父親の名前がないから) 即位後、地方行政制度を改革し、州の規模と総督の権限を縮小、都市の特権を廃止。 主として被征服民から成る 国王常備軍を創設して、軍隊の強力化をはかる。 戦車の改造、攻城兵器の開発。 征服戦争の方針を改め、征服地の徹底破壊をおこなわずに出来るだけ被征服民のアッシリア領内への強制移住をさせるようにした。 アッシリア領内の荒れ地の開拓をさせ、王室財政の安定に貢献させる意図。 前735年までに、北方の強国ウラルトゥの王シャルドゥリシュ2世と戦ってこれを制圧。 (その後ウラルトゥは北方のキンメリア人によって、滅亡) シリアでは3年間アルバドを包囲して陥落させ、前738年までにダマスクスのラスンヌ、サムアルのパナンム、サマリアのメナヘム、などをむこうから降伏させた。 前734年、 ユダのアハズ王の懇願を受けイスラエルに進軍、ラスンヌとイスラエルの王ペカと戦って殺し、大量の捕虜を得る。 (ユダのバビロン捕囚) このユダヤ人王国同士の争いを「シリア・エフライム戦争」という。 さらにシリアのアラム人の王国とバビロニアを破って属領とし、さらに南方のガザやアラビアまで遠征して、ベドウィンとも戦った。 進取の気風に富んだやり手の人物で、農民や商人を慈しんだと言われる。 旧約聖書では「プル」 (ピレセルを短縮した、バビロニアによる蔑称) とも記されている。 そのあとティグラトピレセルという名前でも登場するので知らなかったら、別人かとも思うね。 109.シャルマネセル 5世 ( 在位; 前726〜722) 父王が死ぬやいなやイスラエル王が態度を変えて反抗しだしたため、シャルマネセルは怒り狂ってイスラエルに攻め込み、王ホシュアを捕らえ、首都サマリアを包囲し、ついにイスラエル王国は滅亡した。 しかし、旧約聖書にはサマリアを陥落させたのはシャルマネセルと記されているが、史実ではそれをおこなったのはサルゴン2世である。 即位後、首都カルフを棄て、新たに 新都ドゥル・シャルキン (「サルゴンの砦」、現在のコルサバード) に遷都。 ティグラトピレセルが農民・商人などの市民を重視したのに対して、サルゴンは神官たちの歓心を買うことに努めた。 即位直後の、王に対するシリア・イスラエルの反乱に対し、ふたたび難なく鎮圧。 前721年、 バビロニア王メロダク・バラダン2世 (カルデア部族の首領) の独立。 ; 東方のエラム人がバビロニアを支援。 前709年、サルゴンは苦戦の末、バビロンを陥落させるが、バビロン王は 行方知れずに。 アナトリア方面 ; フリュギア人の王ミダスとの戦い ; 前709年に北方のキンメリア人に対抗するために和睦。 対ウラルトゥ ; 苦戦。 アナトリア諸都市とウラルトゥが同盟してアッシリアに当たる。 サルゴンはウラルトゥ戦役のさなかに死去。 111. センナケリブ (サンナケリブ、シン ・ アヘ ・ エリバ) ( 在位; 前704〜681 /23年間 ) 「シン・アヘ・エリバ (センナケリブ) 」とは、「月の神シンが (死んだ) 兄弟たち (複数形) の代わりを与えてくれた」の意。 皇太子時代からめざましい戦功をあげ、才能ある若者だったが、父に似ず 我儘で無鉄砲だった。 先王の都;ドゥル・シャルキンを廃棄し、あらたに ニネヴェに新王宮を建設。 バビロニア ; メロダク・バラダンの復活。 アッシリアの代替わりを機に挙兵。 センナケリブはバビロニアに遠征。 メロダク・バラダンはまたも逃亡し、行方知れずに。 バビロニア王家のベール・イプニを傀儡としてバビロニア王としたが、やがて反逆したのでこれを討ち、今度は 嫡子アッシュール ・ ナディン ・ シュムをバビロニア王とする。 前689年、バビロニアの ムシェジブ ・ マルドゥクが エラム王ウンマン ・ メナヌと計って挙兵。 アッシリア人バビロニア王アッシュール・ナディン・シュムはエラムの王都に連れ去られ、消息不明に。 ハルレの戦い ; センナケリブはバビロニア・エラムの連合軍を散々に打ち破る。 前689年、 バビロンの大破壊。 バビロン史上最大の破壊。 西方 ; シリアのフェニキア諸都市がエジプトの援助を受けて反逆したため、これを征討。 イスラエル ; ユダ王国の王ヒゼキアがシリアと通じたため、ラキシュの戦いで破る。 さらにエルサレムを包囲。 旧約聖書のなかにあるエルサレム包囲の記述によると、アッシリア軍は18万5千の大軍でエルサレムを包囲したが、ヤハウェの使いによって撃たれたため、翌朝にはすべて死体となっていたため、センナケリブは軍を撤退させた、と。 真偽はわからない。 建設・治水工事をつぎつぎとおこない、「センナケリブ運河」を建設し、業績を上げる。 宗教政策 ; いろいろやったらしい。 後継者問題 ; 長子アッシュール・ナディン・シュムがバビロニア戦のさなかに消息不明になってしまったため、代わって末子エサルハドンを後継者に決定したが、これが他の王子たちの反感を買い、王は息子たちの手によって暗殺された。 これもまた、トゥクルティ・ニヌルタの時と同じく、バビロン破壊の時に持ち去ったマルドゥク神像の祟り、と噂される。 112. エサルハドン (アッシュール ・ アヘ ・ イディン) ( 在位; 前680〜669 /11年間 ) 父王が兄弟たちに殺害されたので、エサルハドンはあわてて首都を脱出し、小アジアに潜伏、約1年半かけて兄たちの叛乱を鎮圧。 父王が破壊政策を続けて各地の反乱を招いたことを教訓に、バビロンの復興と帝国の再建に努める。 「大法官の制度」; 宰相として努めるが、一番重要な役割は、王のために帝国各地の情報を収集すること。 キンメリア人が南下してきたので、軍をおこしてこれを阻んだが、敗走する敵を追うことはしなかった。 西方のティルスを包囲したが、力攻めで勝利を急ぐのではなく、持久戦でもって陥落するのを待った。 エジプト遠征 ; シリアとイスラエルが繰り返し反乱を起こすのは、これを支援するエジプトがあるからだと考えた王は、前671年、大軍を率いてエジプトに侵攻。 メンフィスにいたエチオピア朝の王 タハルカと戦ってこれを破り、敗走するタハルカを追って、テーベまで攻め上がった。 しかし、遠隔地エジプトを支配するのはむずかしく、エサルハドンがアッシリアに帰ると反乱を起こしたため、再度大軍を率いて討伐に向かったが、その途上で死去した。 自分自身が病弱だったため、宗教問題に大きな関心を持っていた。 ・・・天文学者、占い師、予言者を重用。 彼らが「いま王の運勢が悪い」と告げると、王はみずから「退位」し、「代理王」を立てて、自分は「農夫」と名乗った。 「農夫」といいながらある程度までの政治はおこない、一定期間が過ぎると「代理王」は王の代わりに殺害され、「王」として殺害された。 そして「農夫」はふたたび王に戻った。 後継者問題 ; 父王の失敗と兄たちの反乱を見たのに関わらず、エサルハドンは長子シャムシ・シュム・ウキンを後継者とはせず、嫡子ではないアッシュールバニパルを後継者と定めた。 ただしこのことに対し、部下たちが不満を持たぬように、王はくりかえし皇太子アッシュールバニパルに対する恭順を示す誓約書を作成し、おおくのその誓約の石版が現存しているという。 それ意外にも、エサルハドンは多くの場面で大量の契約書を作成させる王だった。 113. アッシュールバニパル ( 在位; 前668〜627 /41年間 ) ああ、もうめんどうくさいからを見て(涙)。 アッシリアの黄金時代。 115.シン ・シュム ・リシル ( 在位; 前623?) 116.シン ・シャル ・イシュクン ( 在位; 前623〜612) アッシュールバニパルの息子。 前王を追い払って王位を回復。 北方のスキタイ人に悩まされていたが、東方のメディア王国の王キュアクサレス2世が、このスキタイ人を打ち破る。 ところがこのメディア王が、刃を返してバビロニア王ナボポラッサルとくんでアッシリアを攻めてきたため、シン・シャル・イシュクンはこれと戦ったが、首都ニネヴェを包囲され、ついに陥落。 王は戦死した。 117.アッシュール ・ウバリト 2世 ( 在位; 前612〜?) 首都ニネヴェが陥落すると、アッシリアの残党は西方の都市ハランに逃れ、アッシュールウバリトを旗頭に、エジプトに援助を求めながら抵抗を試みたが、エジプトの援軍は途中イスラエルで撃破され、援助は届かず、前609年にアッシリアの勢力は撃滅された。 ああ、アッシリア! 私が高校生だった頃からこの帝国に入れあげている理由は、なんといっても帝王たちの「名前」の響きの美しさにある、といってもいいでしょう。 「アダトニラリ」「ティグラトピレセル」「アッシュールナシルパル」「シャルマネセル」「センナケリブ」「エサルハドン」。。。。。 ・・・・ ああ、なんて美しい。 一方で「ギルガメシュ」だとか「ハンムラピ」だとか「カダシュマンハルベ」とか「トトメス」だとか「ハットゥシリ」だとか「メロダクバラダン」だとか「ネブカドネザル」とか。。。。。 他地域の王たちの名は、なんと濁々しいことか。 え? どちらも同じに聞こえるですか?? うわはははははは。 およそ1400年間も連綿とその王国が栄え続けたこと、も驚きです。 1400年ですよ、1400年。 3回も長期にわたる衰退期がありながら、ひとつの民族が同じ王朝を名乗り続ける。 国の性質もほとんど変わらない。 こんな国の例は他にはありません。 しかし、 それと同時に、この大帝国の帝王たちには、卓越した「戦争王」がとても多い。 というのも私の関心のもとでした。 アッシリアというと、「戦争王国」として有名ですからね。 ・・・・ ところが、こうして一覧にしてみると、そうでもないですね。 特筆するに足る「王」 (一覧では名前に色が付いている王)を数えてみても、わずか13名なんですよね。 117人のうちの。 しかし言い換えれば、この13人の人物によって、この帝国の名は永遠に人類の歴史の中に輝き続けることになるわけで。 「王名表」を眺めてみると、この117人の名前には、幅広いバリエーションがあって驚きます。 「アッシリア風の」名前というのはひととおり指摘出来ますが、アッシリア風でありながらパターンから外れているもの、なぜか明らかにバビロニア風なもの、それ意外のもの、いろいろあります。 そのなかで、さすが「神の国」アッシリア。 神々の名に由来する名が一番多いので、一応、神々の名と、その他の名前の要素となっている言葉の意味を、挙げておこうと思います。 アッシュール ・・・ アッシュール市の市神。 アッシリアの守護神。 戦闘神。 エンリル ・・・ シュメールの天候神。 バビロニア、アッカド、アッシリアなどで広く信仰される。 アダド ・・・ 天候神。 稲妻と雄牛で象徴される。 ニヌルタ ・・・ 戦闘神。 獅子で表現される。 トゥクルティ ・・・ ???? ティグラト ・・・ って、きっと「ティグリス河」の神格化されたものに違いない(と勝手に)思っていましたが、ティグラトピレセルの正式名は「トゥクルティ・アパル・エシャラ」なそうなので、上の「トゥクルティ」なのだということが判明。 なぁんだ。 シャマシュ ・・・ バビロニアの太陽神。 冥府の神でもある。 「シャムシアダド」の「シャムシ」とも関係あるか? (ないかも) アヘ ・・・ 「兄弟」の意。 アプリ ・・・ じつはこれが一番知りたい。 エサラ??? 「シャルマネセル」=シュルマン神は指導者である。 王名表を作ってみて思ったのですが、実際に業績を列挙していったのですが、あまりにも部族・地域名を表す固有名詞が多すぎて、混乱しますよね。 実際に地図を見て確認しなかせらこれをみると、この帝国が拡大の様が見られて、その巧妙さと歴史の流れが感じられて感嘆するはずなのですが、なかなかそこまで行きませんよね。 今後、それがわかるようにこの王名表を作り直していくのが、わたしの課題です。 また、王名表として王名を列挙するだけでは、この偉大な帝国の特異性は、全然表現できません。 じっさい、アッシリアは幾多の民族、王国が輩出したメソポタミアの中でも、一、二を争うぐらいの異常な民族です。 他の征服王朝と比べて、あんなに周辺地域を荒らし回り、各地の金銀財宝、人材を自国に大量に持ち帰りながら、最初から最後までアッシリアはアッシリアなのは、このアッシリア民族という民族の中に、最初からアッシリアという国を規定する、一貫した規範があったからです。 これは、アッシリアを守護するアッシュールの神が理由だった、と書いてある本もあります。 そして、このように表にしてみると、アッシリアという国の中で「王」が絶対的な、超越的な権力を持っていた、と受け取られると思うのですが、実際にはそれはあまり正しくありません。 王はずっと「王 (神アッシュール)の代行者 (副王)」と名乗っていて、名の通り、宗教的な権威を受け持つ、と考えられていました。 一方で、アッシリアの中で「世俗的な権力の代表者」として『リンム職』というのがあって、アッシリアでは一貫して、王とは別に、市民の中から選ばれていました。 (まあ王の権力が強大化してからはこれはなかば名目的なものになり、最初は公正に市民の中から毎年クジで選ばれていたのに、のちには序列でもってリンムが選ばれるようになり、また70代エンリルニラリ以降は、慣例として王の治世初年だけは王がリンムを兼任するようになりますが)、 さらに王がなにかをしようとしたときは、アッシュール在住の族長(貴族)たちの承認を受けなければならなかったのです。 (後期の王たちが次々と新都を造営したのは、伝統的な勢力を忌避しようとしたからだとされる) それなのに、一番重要なのは、業績を列挙してみると、(皇位継承争いは別にして)王が自国の市民、貴族たちと衝突した、という記述はまったくありません。 たとえば専制的なカエサルやローマ皇帝たちが、元老院や軍隊と衝突し続けたことと、くらべてみてください。 最後に、 やっぱり、名前が不明な王が20名もいるのが気分悪いですなあ。 きっと王名表自体のその部分が失われているのでしょう。 多分、名前が見えないアッシュールナシルパル1世とシャルマネセル2世(とアッシュールニラニ1世と2世????)は失われた中に入っているんでしょうなぁ・・・ 参考文献 『 世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』 中央公論社 著者;アッシリアの部分は 渡辺和子 1998年 ¥2524 これが今、手軽に手に入る本の中では世界一くわしい本。 アッシリア以外にも、他の国々のかなり詳細な王名表が付いていて、洪水のような名前の群れをながめてうっとり。 これ、初めて見たとき、滂沱の涙を流してしまいました(ウソ)。 でも、それだけでも、この本は買う価値があります。 写真はカラーだし、地図も豊富だし、巻末資料文献(のタイトル)も豊富ですしね。 『西洋の歴史 〔古代・中世編〕』 ミネルヴァ書房 著者;アッシリアの部分は山本茂が監修。 この本が出たのは昭和28年なので、その後アッシリア学は大いに進展しているに違いなく、これもどの程度信用できるか心配なのですが、この本にしか載っていない情報も多くて。 センナケリブの項、「才能ある若者だったが、父に似 ず我儘で無鉄砲だった」って、その根拠は。 『 生活の世界歴史1 古代オリエントの生活』 河出書房新社 アッシリアの部分の著者は佐藤進 1991年 ¥660 題名の通りですが、アッシリアに関わらずオリエント全体の古代生活が多くて、楽しい。 この章は非常に情報が詳細で、ここに書いてあることを要約するだけで、エサルハドンだけでこのページの文字数を超えてしまいそうなほどだ。 とても楽しく読んだのだけれど、思い切ってこの本から得た情報は、すべて省略しました。 専門書は全然読んでないので分からないのだけど、アッシリアで出土した石版をすべて読めば、アッシリアの君主ひとりひとりについて、こういうふうに人物像に迫った記述が出来るのでしょうなあ。 ああ、悔しい。 わたしの作ったこのリストでは、一番触れたかったひとりひとりの性格について、全然触れていないですから。 文章中、『メソポタミアの三大女傑』と書かれてある部分に、注目。

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9.古代オリエントの統一(アッシリアの興亡)

アッシリア 王国

世界帝国 アッシリアは、広大な地域を征服し、さまざまな民族を抱えながらも、強力な支配を保持している世界帝国であった。 征服した植民地を属州として支配した。 ただし、強制移住や重税など苛酷な支配を行ったため、服属諸民族の反抗を受け、前612年、とメディアの攻撃で滅びた。 アッシュル アッシュルは、ティグリス川中流域の都市である。 アッシリアの最初の都で、同名の市の守護神アッシュル神が天地創造の神となった。 アッシリア帝国の成立によって国家神となる。 アッシリアの名はこれらに由来する。 軍事国家 アッシリア人は北メソポタミアに定住したが、農地に向かなかったため、内陸中継貿易に活路を求めるようになる。 前15世紀に一時ミタンニに服属したものの、独立を回復し、前12世紀に東地中海全域を襲った民族大移動で、旧勢力が衰亡したあとをうけて強大な軍事国家となる。 前8世紀後半になると征服活動に拍車がかかり、バビロニアからシリアへての地域を支配下におさめた。 アッシリア軍 アッシリア軍は陸軍で構成される。 当時は最新鋭である鉄製武器、2頭立ての戦車、弓で武装した歩兵・騎兵をもった。 それらに加えて、ローマ軍のように、土木技術を身につけた工兵隊で編成された。 艦隊の建造には、築城や攻城にはシリアの工人が担った。 アッシリア軍は多くの都市を徹底的に破壊し、抵抗した都市に対しては死骸を積み重ね略奪などが行われた。 オリエント統一 前7世紀の前半、も征服したアッシリアはオリエントの主要部分を統一した。 アッシュール=バニパル王は各地に総督をおいて統治した。 また駅伝制を設けて中央集権の強化をはかった。 反乱の防止と領内労働力の適正配置を狙い被征服民に強制集団移住政策を行ったが、被征服民に過酷な負担を背負わせることになり、各地で反乱が起きた。 ニネヴェ ニネヴェはティグリス川中流左岸の都市である。 前8世紀末よりアッシリアの首都となった。

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