縁起 仏教。 縁起

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縁起 仏教

仏教伝来 仏教伝来 - 仏教は飛鳥から広まった - 538年,(日本書紀によると552年。 元興寺縁起などでは538年),百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりです。 その後,推古天皇の時代に「仏教興隆(こうりゅう)の詔(みことのり)」が出され,各地で寺院建設も始まりました。 命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して,感謝をし冥福を祈るために仏像を身近に置きたいと考えました。 ここに仏教信仰が始動します。 難波津(大阪府)に着いた聖明王の使者は,大和川を船で上り,初瀬川河畔の海柘榴市(つばいち:海石榴市-奈良県桜井市金屋)に上陸しました。 7世紀頃,この辺りに大きな市が開かれていました。 また,藤原京時代には,さらに大きく発展し,大阪湾から入ってきた船の港でもありました。 大和川について 古代の大阪湾は内陸部に湾入し,湖(草香江)を形成していました。 やがてその湖が干拓され平野がつくられました。 大和川は石川と合流して西北へ流れ,何本かの川に分かれて旧淀川から大阪湾へ流れます。 大和川は水害によって流域住民に大きな被害をもたらしていましたが,1704年に大和川の付け替え工事が始まり,流れを大きく変えることで,その被害を抑えることができました。 現在の大和川河口はこの江戸時代の工事によってできたものです。 古代の大和川の略図 大和川河川事務所HP及び『倭国から日本へ』 (吉川弘文館)を参考に作成しました。 濃い青色は付け替え工事後の現在の水域 大阪歴史博物館より難波京跡を見下ろす。 かつて,この付近は入海でした。 現在の大和川河口付近から奈良方向を見る (左端の山は二上山) 額安寺(奈良県大和郡山市額田部寺町) 額安寺(かくあんじ)という寺が大和郡山市にあります。 聖徳太子が学問修行の道場として621年に「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」を建て,推古天皇がこの精舎を「額安寺」としたと伝えられています。 この近くに大和川が佐保川と合流する所があります。 古代の水運の要所であったようで,外国からの使いや文物が上陸した場所と案内されています。 大和郡山市「板屋ケ瀬橋」より 東を見る(左:佐保川 右:大和川-合流) 西を見る 大和川-初瀬川をさらに上流に進むと大和王朝への入り口に至る 大和川(初瀬川・泊瀬川) 仏教伝来の地の石碑 奈良県桜井市 金屋 海柘榴市 壁画 仏教はなぜ・いつ日本に入ってきたのか 甘樫丘の東麓斜面から数棟の掘立柱建物跡や石垣が発掘されて話題となっている蘇我氏。 これまで,蘇我氏は謀反を企てた悪者と扱われてきましたが,その見方が変わろうとしています。 2006年の飛鳥の発掘によって,よりはっきりとした蘇我氏の姿が見えてきたようです。 これは,NHKでも「大化改新 隠された真相~飛鳥発掘調査報告~」として放送されました。 6世紀,日本(正確には日本という国名はまだなく,「倭国」と呼んでいました。 )に仏教が伝来し,日本人の文化や精神世界に深く入り込んだのは聖徳太子の力によるところが大きいのです。 しかし,最初に仏教に興味を示し,これを受け入れたのは蘇我氏でした。 なぜ日本に仏教が伝わったかを考えるとき,百済の聖明王の政策として,機を見て使者を遣わしたとも,もとより早くから国外に目を向け,深いつながりのあった百済系氏族から中国や朝鮮半島情勢を入手していた蘇我氏が要請したから送られてきたとも考えられます。 また,いつ仏教が伝わったかの議論については,当時は百済から多くの渡来人が日本に来ており,仏像や経文など仏教に関わるものを私的に持ち込んだと考えるのが自然でしょう。 ですから,いつ伝来したのか特定できないというのが正しいのかもしれません。 そこで,「仏教伝来」=「仏教公伝」という言葉を使い,仏像や教論などが朝廷に献上された時が日本に正式に仏教が伝来した年と解釈したいと思います。 では,この仏教伝来時の様子を整理してみましょう。 ・『日本書紀』によると552年です。 欽明(きんめい)天皇13年(欽明天皇の即位は539年としているので,西暦552年です。 ),百済の聖明王(せいめいおう)が朝廷に遣いを送ってきました。 その一人が怒利斯到契(ぬりしちけい,「り」の字は正しくは口偏に利を書く)で,釈迦仏(金銅製)一体,幡蓋(はたきぬがさ,「幡」「蓋」とも仏前に置かれた),経論数巻を献上しました。 ・『上宮聖徳法王帝説』8世紀初めに成立したとされ,日本書紀と並ぶ書物で,主として聖徳太子の伝記が書かれています。 これによれば,仏教が日本に伝来したのは,「志帰嶋(しきしま)天皇:欽明天皇)の時代、戊午(つちのえうま)の年10月12日,百済国の主明王(聖明王)が初めて渡ってきて,仏像・経教,僧等を奉る。 」とあります。 欽明天皇が即位した年を531年としているので,仏教伝来は538年となります。 ・『元興寺縁起』といわれる『元興寺伽藍縁起并流記資材帳(がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』にも仏教伝来は538年としています。 『元興寺縁起』は元興寺(飛鳥寺)創建の由来が書かれた書物です。 『上宮聖徳法王帝説』同様,『日本書紀』が書かれる以前の資料に基づいて作成されたものと言われます。 現在は,仏教公伝を538年とするのが通説です。 上陸した一行は欽明天皇の宮「磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)」に向かいました 桜井市水道局前庭に立つ「磯城嶋金刺宮」跡石碑 奈良県桜井市外山(とび) 欽明(きんめい)天皇は仏教を礼拝すべきかを臣下たちに問うと,「大陸の優れた文化であり,西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。 」と蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)が答えたのに対して, 物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ:天智天皇時代の中臣鎌子・鎌足とは別人でつながりのない人物)らは「外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒る。 」という理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと主張しました。 そこで天皇は「試しに拝んでみるように」と,仏像や教典を蘇我大臣稲目に授けました。 稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺としました。 この時より向原の家は日本最初の寺となりました。 現在,向原の家は飛鳥の向原寺です。 国内で疫病が流行った時,尾輿はその原因が仏教を受け入れたせいだと批判しました。 そのため,570年に蘇我大臣稲目が死去すると,天皇の許可を得て稲目の寺を焼き払ってしまいました。 家は焼けても仏像は燃えなかったため,仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだのです。 しかし,疫病はなくならず,天災も続きました。 後に推古天皇はここ向原の地を宮としました。 小墾田の宮に移った後は豊浦寺(とゆらじ)となりました。 向原寺(向原家・豊浦宮・豊浦寺跡) 奈良県高市郡明日香村豊浦630 物部尾輿が仏像を投げ捨てた池と伝わるのが難波池。 当時ここは{難波の堀江}とよばれていました。 難波池 注)日本書紀によると,仁徳天皇11年に,田んぼが少ないのは洪水や高潮のためで,これを防ぐために難波宮の北の野を拓いて水路を造らせた。 この水路によって水は大阪湾に排水された。 これを「堀江」と名付けたとある。 この記述に従えば,当時「難波の堀江」と呼ばれていたのは難波宮の北にあった水路ではないかと思われる。 難波は大陸文化が入ってくる玄関であったので,朝鮮半島に向かって仏像を海に投げ捨てたと考える。 信濃の善光寺 元善光寺(長野県飯田市座光寺) 善光寺(長野県長野市元善町) 投げ捨てられて池に沈んでいた仏像は信濃の国から都に来て,この池の前をたまたま通りかかった信州麻績里(しんしゅうおみのさと:現在の長野県飯田市座光寺)の住人で本多善光(ほんだよしみつ:本田善光)という人物によって発見されました。 長野の善光寺縁起によると,仏像は聖徳太子の祈りに一度だけ水面に現れたが再び底に沈んだままとなっていました。 しかし,本多善光が池の前に来ると,金色の姿を現し,善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると告げます。 善光はこの仏像 (一光三尊の御本尊:阿弥陀如来像)を背負って信濃にもどり,自宅の西の間の臼(座光の臼)の上に置きました。 ここが現在「元善光寺」があるところで,その後,642年,皇極天皇の時代に,如来のお告げにより, 本多善光が長野の善光寺に本尊を遷座しました。 これは善光寺の創建に関わる話です。 584年9月,百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)石像一体と佐伯連が仏像一体を持ってもどってきました。 蘇我馬子は全国に修行者を探させたところ,播磨にいた恵便(えべん)という高麗からの渡来人がいることがわかりました。 そこで恵便を仏教の師とし,さらに3人の娘を出家させて尼(あま)としました。 また,自分の家の東に仏殿を建立し,弥勒菩薩の石造を安置しました。 また,馬子は石川の自宅-石川精舎(しょうじゃ)にも仏殿を建てて仏像を収めました。 585年2月には,大野の丘に塔を建てました。 石川精舎(しょうじゃ)跡に建つ本明寺 奈良県橿原市石川町 大野丘塔跡(和田廃寺跡) 奈良県橿原市和田町 国内には疫病がはやり,古来よりの神々をないがしろにした祟(たた)りだと騒がれ始めたため,崇仏を承認していた敏達(びだつ)天皇も物部守屋(もりや)や中臣勝海(かつみ)の主張を聞き入れて排仏命令を出します。 この時を待っていた物部守屋は,仏殿や塔に火を放ち焼き払ってしまいました。 しかし,その後も疫病はおさまらないばかりか,天皇や馬子,守屋までが病気になってしまいます。 馬子は崇仏の天皇から再び崇仏の許可をもらうとたちどころに病が治りましたが,天皇は崩御してしまいました。 続く用明天皇は587年,在位わずか2年で崩御しました。 この後の天皇を誰にするかで物部氏と蘇我氏の対立が激化します。 これは馬子が自ら討たれる前に先手を打ったとみてよいようです。 こうして,蘇我氏が推す泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位しました。 この後,蘇我氏と物部氏は武力衝突を起こし,へと発展します。 蘇我氏対物部氏 関係図 大聖勝軍寺(大阪府八尾市) 権力闘争に勝利した蘇我馬子や聖徳太子は,「仏法興隆」をめざし,その後本格的な寺院建設を行っていきます。 法興寺(ほうこうじ-「興」は法をおこすの意味をもつ)は明日香村にあり,現在はとして知られています。 法興寺は我が国最初の本格的な伽藍配置の寺院として蘇我氏によって建立されました。 また,飛鳥寺は日本で最初の瓦葺(かわらぶ)き寺院でもありました。 掘っ立て柱の板葺き建物しか見ていない人々にとっては外国の文化を直接感じるものであったようです。 瓦の使用の他にも寺院建築には多くの渡来人の技術が使われています。 掘っ立て柱式の建築から石の上に柱を立てる礎石を用いた技法もその一つで,それまでの建築方法が一変しました。 聖徳太子は大阪に四天王寺,奈良斑鳩に法隆寺(「隆」は法を隆める:たかめるという意味をもつ)を建立しました。 飛鳥の扉 古代史 伝説 トップ.

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サッカーと縁起 縁起が言うところの「物事が起こる原因」とはどういうことなのか。 サッカーを例に考えてみたい。 ある選手がシュートを蹴って、見事ボールがゴールネットに突きささったとする。 この 「シュートが決まった」という出来事が起きた原因は何だろうか? 普通であれば、原因はシュートを放った人物、つまりボールを蹴った選手の蹴り方が上手だったことにあると考えるのではないか。 もちろん、それも大きな原因である。 主たる原因、あるいはメインの原因といってもいい。 しかし、よくよく考えてみればそのほかにも補助的な原因、要因というのはいくつもある。 パスが良かったのかもしれないし、相手が油断していたのかもしれないし、もしかしたら靴が良かったなんてことも。 縁起とは、メインの原因ではなく、むしろこうした サブ的な要因のほうにこそ眼を向けた禅語なのである。 直接的な原因と間接的な原因 仏教では、 直接的な原因を「因」、間接的な原因を「縁」と呼んで、原因の種類にも大きく分ければ二つあるという考え方をする。 そして縁起とは、物事が起きた要因のうち、間接的な原因をより重要視した言葉になる。 だから「因」ではなく「縁」によって起こる「縁起」と書く。 もう一度サッカーを題材にして考えてみよう。 ゴールが決まったサブ的な要因は何か。 これはどれだけでも挙げることができる。 チームメイトがパスをつないでくれたから。 相手のキーパーがボールをとめることができなかったから。 サポーターの応援によって燃えていたから。 朝ご飯を食べてエネルギーに満ちていたから。 そもそもボールを作った職人がいたから。 どんな事柄であっても、それが少しでも関係していれば間接的な原因となりえる。 さらに間接的な原因に対する間接的な原因まで考えだしたら、それこそあらゆることが間接的な原因となることだろう。 大袈裟に言うなら、 この世界に原因でないもの、まったく関係していないものなど存在しないとまで言えるかもしれない。 そして、この「原因でないものが存在しない」ということが、縁起という禅語に含まれるニュアンスとしはもっともふさわしいものだと私は考えている。 どんな結果であっても、1つの理由や原因から成り立っているものはない。 必ず細かな原因が関係し合っている。 世界は相互に関係し合い、相互に影響を与え合い受け合い、常に結果であり原因でもありつつ存在している。 だから禅では、 物事はありとあらゆることが複雑に関係し合って起きているのだと考え、そのことを縁起という言葉で表現している。 「自分の力でシュートが決まった」などという考えは、広大な縁起の世界から眺めれば、じつに視野の狭い見方であると言わざるをえないというわけである。 何がために神に祈る 海外のサッカー選手で、ゴールが決まった際にユニフォームの内から十字架のネックレスを取り出して、 神に感謝の祈りを捧げる姿をたまにテレビで見かけることがある。 私がまだ出家する以前、在家だった頃、まだ禅について何一つ知らなかった私はあの光景を見て、 「あの選手は神を信じているんだ。 神のおかげでゴールを決めることができたと考えているんだ」 というような想像をしていた。 あの姿こそまさに「信仰」を具現化したものだという印象を受けたものである。 それが禅僧となって縁起という考えを知ってから同じ光景をテレビで見たとき、以前とは異なる印象を受けるようになった。 神に感謝をするというのは、つまり 自分の力だけでゴールできたのではないという思いの表れなのではないかと。 神というものを超越的な個としての存在ではなく、ずっとずっと広く大きな普遍的真理として捉えてみれば、 あらゆる間接的な原因が関係しあってゴールが生まれたという、非常に謙虚な、大きな関係性への感謝の姿に見えてきたのである。 実際に選手がどう考えて十字を切るのかはわからない。 神様のおかげだと考えているのかもしれないし、もっと普遍的な「感謝」に近い感情から行われるものなのかもしれない。 それは傍から見る者にとってはわからないのだが、とにもかくにも、 禅の考え方を知ってから眺める世界は、以前とは少し違う意味合いを含んだものとして眼に映るようになった。 それは私にとってちょっと嬉しい変化だったのである。 縁起の眼で見れば、あらゆる存在は「 縁起という真理を説くため」にそこに存在しているのではないかとも感じられるようになった。 それは、在家の頃には考えも及ばない認識の世界だった。 禅の視点を得て、人生はずっと豊かになった。 いろいろな禅語を知りたい方は、下の記事をどうぞ。 zen-ryujo.

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【仏教思想】縁起と空 〜釈迦と龍樹の教え〜【基本を解説】

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「縁起」とは「すべての存在は無数無量といってよい程の因縁によって在り得ている」という、仏教の基本思想を表す重要な用語であるが、私たちの日常において用いられている仏教語の中で、これほど誤解されて用いられている言葉も珍しい。 その代表的なのが「縁起がよい、縁起が悪いと、縁起をかつぐ」という用いられ方で、吉凶の前兆として縁起という言葉が用いられていることである。 どうしてこのようになったのであろうか。 それは同じく縁起という言葉であっても、「縁起絵巻」といわれる場合のように、寺社などの由来・沿革・起源という意味で用いられる縁起という言葉とすり替わって、その由来などという意味が吉凶の前兆という意味となったことによるのであろうか。 しかし、そこにはもっと基本的な人間の問題があるのではなかろうか。 仏教における縁起とは、私たちは因縁によって存在するのであって、それらの因縁を取り除いたら「私」と言われる確かな存在は塵垢ほどもないという意味である。 それを「無我」というのであるが、それをそのように正確に了解せず、この私がたくさんの因縁を頂いて生かされているという通俗的な意味で了解されてしまったからではなかろうか。 そうであれば、自分の都合だけを求めているこの私が先に存在しているのであるから、自分の都合のよい因縁だけを願うのは当然である。 福は内、鬼は外となる。 そこに縁起がよいとか悪いと「縁起をかつぐ」という構図がでてくる。 いうまでもなく、仏教の基本思想でいう縁起とは、私が先に存在しているのではなく、無量無数の因縁が私となっている、無量無数の因縁によって私が成り立っているという意味であるから、福も内、鬼も内である。 福と鬼が私となっているという意味である。 それがいつの間にか、縁起が吉凶の前兆を意味する、自分の都合を願う言葉になっいているとすれば、仏教の大切な教えすらも、自分に都合よく理解しようとする人 間の本質が見えてくる。

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