沖田 総司 写真。 沖田総司はイケメン?ブサイク?写真や子孫の証言から顔の様子を検証!

沖田総司はイケメン?ブサイク?写真や子孫の証言から顔の様子を検証!

沖田 総司 写真

その強さは子どものころからすでに頭角を表していました。 沖田総司が親戚の井上源三郎の家に遊びにいったときのことです。 天然理心流の剣術を習っていた井上家の人と竹刀で立ち会って勝ってしまったのです。 そうしたところ「 筋がよいからすぐにでも道場に入門させたほうがよい」と進められ、試衛館に入門したのでした。 これは、沖田総司の強さを表す有名なエピソードです。 沖田総司は幼くして両親をなくしており、とても貧しい暮らしをしていました。 この環境が沖田総司を天才へと変わらせたのかもしれません。 沖田総司の強さを示すエピソードは他にもたくさんあります。 例えば、1852年、 沖田総司が12歳の時に白川藩の剣術師範と対戦して勝ってしまいました。 1856年には近藤勇と出稽古に出向き、指導もしていました。 そして、新撰組のメンバーであった永倉新八は、「土方歳三にしろ、北辰一刀流の目録をもつ藤堂平助にしろ、沖田総司にかかると子供同然にあしらわれた。 総司が本気になったら師匠の近藤勇も敵わないだろう」と語っています。 沖田総司の剣術の才能は他を圧倒するほど抜きん出ていたのかもしれません。 1864年の池田屋事件のときのことです。 ある一人の武士が沖田総司に斬りかかりました。 斬りかかったと同時にその武士は沖田総司に2、3回斬られてしまったのです。 このエピソードも永倉新八が目撃し、後世に語り継がれているものです。 沖田総司の剣術は 速さでも有名です。 速すぎて太刀筋がまったく見えないほどです。 そのため、敵は自分が斬られたのか斬られていないのか、わからなく死んでしまったこともあったのかもしれません。 やはり、飛び抜けた才能があったのでしょう。 やはり気になるのは沖田総司は 結婚していたのかということについてでしょう。 沖田総司が結婚していたという記録は残っていません。 ただ、沖田総司の恋愛についてはあるエピソードがあります。 試衛館道場での修行時代に、 沖田総司に想いを寄せた一人の少女がいました。 その少女は沖田総司を道場の隙間からずっと見ていたのでしょう。 想いは日増しに強くなるばかりです。 とうとう少女は沖田総司に想いを告げます。 これに対して、沖田総司は「 修行中の身だから断る」と伝えたそうです。 少女は恥ずかしさのあまり、自殺未遂を図ったそうです。 現代では、LINEやメール、そして電話を使って女性からの告白もあると思うのですが、当時はまだまだ男社会です。 そのため、女性からの告白は相当珍しかったのではないでしょうか。 さすがに、自殺未遂を図られた沖田総司もまいってしまいました。 この件が、思春期の沖田総司の大きな心の傷になったと言われており、京都時代に仲間が遊郭に遊びにいくのに、あまり好まなかったと言われています。 沖田総司には内縁の妻がいた!? 正式な結婚の記録はないのですが、少しだけちょっと気になる記録があります。 1867年に新撰組の菩提寺とも言える京都の光緑寺にひとりの身元不明の女性が葬られていて、その墓碑銘が「沖田氏縁者」と記されていたのです。 この 沖田氏が沖田総司の可能性が非常に高いと言われていて、縁者という記述が、恋人、あるいは内縁の妻のような存在である可能性が残されています。 実際に、この身元不明の女性の戒名と沖田総司の戒名を並べると、とても釣り合いがよいことが見て取れます。 沖田総司の戒名は「賢光院仁誉明道居士」であり、身元不明女性の戒名は「真明院照誉貞相大姉」です。 とはいえ、この女性が亡くなった同じ年の秋から冬頃には、総司自身も重い肺結核の病状となり、翌年の1868年には短い生涯の幕を閉じています。 その反面、病弱でも色白なイケメン剣士としても描かれています。 沖田総司は本当にイケメンだったのでしょうか?その真相にせまっていきます。 沖田総司の容姿について記録が残っているのは、「 ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」や「 肩の張り上がった」といったものが有名で、現代のイメージである美青年というより、体格のいい体育会系の青年というイメージが強いかもしれません。 そんな世間のイメージがあるのですが、沖田総司の実家では、「 総司は色の白い、小さい男だった」と真逆なイメージで伝えられているそうです。 そんな活躍をしていた沖田総司は、小柄で病弱では無理かもしれませんね。 ここで実際に 沖田総司の現存している写真を見てみましょう。 それがこちらです。 これはどうなんでしょうか。 まず、現代のイケメンのイメージはヨーロッパ系が強いと思いますので、この肖像画をイケメンとは呼べません。 [aside] 江戸時代のイケメンの基準は以下のようなものだったと言われています。 頭頂部は青味がかかってたほうが色気がある• 眉の薄いのは顔がボンヤリと見えるから、眉墨でクッキリ描くのがよろしい。 ヒゲの剃りあとの青いのは美しくない。 ことに鼻と口の間の青いのはひどく田舎じみて見えるから• ヒゲの濃い人は剃るより抜く方が良い。 口臭は女のコにきらわれるトップ。 うがい歯みがきはこまめに。 髷はいつでも「二日前に床屋へ行ったような」状態を保つのが良い。 頬はスベスベなのが良い。 洗顔は日に三度。 耳は意外に目立つので念入りにみがき込んでおく• この肖像画からは、顔は置いておいて、 清潔感があることは伝わってきます。 眉毛もくっきり書いてあります。 頬もすべすべなような気がします。 沖田総司は現代の感覚でいうと決してイケメンとは思いませんが、 天才的な剣術や、 人懐っこい性格、 新撰組一番隊隊長という肩書きからすると、モテる男であったことは間違いないのではないでしょうか。 とてもこの肖像画からは強そうな感じが伝わってこないので、おそらく当時も一見すると強そうには見えなかったのではないでしょうか。 強そうに見えないからこそ、実施にとんでもないくらい強いのであれば、ギャップに魅力がでてきます。 いつの世もこの男のギャップに世の女性たちは虜にされてきたのかもしれません。 沖田総司が結核で若くしてなくならなければ、結婚して、今頃は沖田総司の子孫も生きていたのかもしれませんね。 まとめ• 沖田総司はイケメンではなかった• イケメンではなかったがモテた可能性があった• ちなみに結婚はしていない 私の感覚ですが、 沖田総司は現代の感覚ではイケメンとは言い難いと思います。 今の現代人の感覚は戦後にアメリカの文化が大量に入ってきてから成り立っている感覚なので、仕方がないといえば仕方がないのかもしれません。 反対に、現代のイケメンと呼ばれる人物が、沖田総司の時代にいくとイケメンではないと判断される可能性が高そうです。 いずれにしても、イケメンとは個人の主観が大半を占めます。 当人がイケメンと思っていればその人はイケメンです。 みなさんは沖田総司をどう判断されますか?.

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本当に美形? 新撰組沖田総司の写真とは!?

沖田 総司 写真

生涯 [ ] 江戸下屋敷詰めの三代続く足軽小頭・沖田勝次郎の息子(長男)として、の(現・)で生まれたとされる。 専称寺の過去帳では「沖田林太郎次男」となっている。 母の名前は不詳だが、実家については日野在住の千人同心宮原家の出身という伝承がある。 生年については13年()または15年()の2つの説があり、生まれた日付についても判明しておらず、夏であったということしか分かっていない。 「沖田家文書」では没年が25歳とある。 2人の姉がおり、沖田家は姉のがにを迎えて相続させる。 父の勝次郎は2年()に死去した ため、長男の宗次郎が元服し跡目相続すべき所、幼少のため相続出来なかった。 9歳頃、江戸にあったの・()の内弟子となり 、のちに新選組結成の中核となる、とは同門にあたる。 若くして試衛館塾頭を務め、3年()には近藤とともにの下仙川村に出稽古に出かけている記録が見られる。 新選組活動 [ ] 3年()の結成に参加してする。 分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成。 沖田は一番隊組長となる。 一番隊は剣豪ひしめく新選組の中で常に重要な任務をこなしたといわれる。 この時期では同年の暗殺 、元年の・暗殺 など手がけたという。 元年()のにおいても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込んだ。 この奮戦の最中、喀血により戦線離脱したといわれている(これには諸説あり、詳細は後述のを参照)。 元年()、総長のが脱走した事件では、追っ手として差し向けられで捕らえる。 山南は沖田のでした。 沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の死に関して軽く触れるに留められている。 病死 [ ] 体調の悪化により、第一線で活躍することがなくなるのは慶応3年()以降である。 慶応3年、沖田が療養のため滞在していた近藤の宅を、元・、、の3人が襲撃した。 前月に彼らの指導的立場であったを殺害した新選組への報復として狙われたものだが、沖田はへと出立した後で難を逃れた。 同日夕刻、阿部らはから戻る途中の近藤勇をし、負傷させている。 には参加できず、に後送される(鳥羽・伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に後送される船中においてを発症したとも)鳥羽・伏見での敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、に参加する(諸説あり)も、中途での落伍を余儀なくされる。 以後は・によりの植木屋に匿われ、近藤勇から2ヶ月後の慶応4年()に死去。 近藤の死を知らないまま亡くなったともいわれる。 生年が明確で無いため、については諸説あり、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、『』()における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の3説が存在する。 墓所はのにある。 は「賢光院仁誉明道居士」。 人物 [ ] 剣術 [ ] 9歳の頃、の・に入門。 若くして才能を見せ、塾頭を務めた。 15歳のときの八坂神社に奉納された天然理心流の額には、4代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されている。 沖田家累代墓碑には天然理心流の他、のを得ていた旨も記されている。 は後年、「、、、などがを持っては子供扱いされた。 恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語った。 実際、竹刀をとっては近藤の一段も二段も上を行ったという。 沖田の指導を受けた者によれば、「荒っぽくて、すぐ怒る」といい、は相当厳しかったらしく、師範の近藤より恐れられていた。 「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたという言い伝えもある。 沖田の剣技で有名なのが「三段突き」であり、日野の佐藤俊宣の遺談によると、(天然理心流では「平晴眼」と書く)の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出した(すなわち目にも止まらぬ速さで、相手は一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていた)という。 によると、「山攻撃破剣」という剣法が苦手であったという。 の長男・佐藤俊宣の談話によれば、沖田の剣術の形は師匠の近藤そっくりで、掛け声までがよく似た腹の底に響く甲高い声であったという。 ただ、太刀先がやや下がり気味で前のめりで、腹を少し突き出し気味の平正眼をとる近藤とはやや異なる構えを取る癖があるとされる。 新選組以外からの声もある。 は新選組結成前の文久2年()に、「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と述べており 、新選組に批判的だったも、「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客なり」、「天才的剣法者」と言い 、さらに新選組と敵対していたは、「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」、「沖田総司、という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術などはよく使っていた」、「大石鍬次郎、沖田総司、、是らは無闇に人を斬殺致しますので」と語るなど 、外部からもその腕前が高く評価されていたことが窺える。 否定的見解は、千葉弥一郎(隊士で、総司の義兄・の同僚)の言葉に、「われわれからみたらやっと(低い)くらいの腕前」とある。 死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は付添いの老婆に「ああ、斬れない。 婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたといわれるが、この話はによる創作であるといわれる。 ただし、江戸時代には、黒猫を飼えば労咳(結核)が治るとの迷信があり、病身の沖田の周囲に黒猫がいた可能性は否定しきれない。 [ ] 性格 [ ] 凄腕の一番隊組長としての顔とは裏腹に、当の本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物であったようである。 屯所界隈の子供達ともよく遊んでやっていたようで、作家のは新選組を題材とした作品を執筆する際、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している(取材が前後とすると、がなので、かなり高齢ではあるものの実際の沖田総司を目にした人々が生きていたことになる)。 近藤・土方など新選組についての酷評で知られる西村兼文ですら、山南と並び沖田についても批判を残していない。 これは西村が山南と沖田には悪意を持っていなかったことの表れと見られ、従って沖田は新選組に表立って敵対した者以外には人当たりの良い好人物であったと考えられている。 また別の話では、の息子・が、ある隊士にからかわれ、後日、土方と沖田がを打っている側で、その隊士を背後から斬りつけたが失敗した時、沖田は三浦の襟首を引っつかんで、二、三間も突き飛ばしたという。 三浦が、腕が鈍いとからかわれたから斬りつけたと言い訳すると、沖田は、腕が鈍いのは本当じゃねえか、このざまは何だと、大口を開けて笑った。 が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るく強気な沖田がこのときだけは声を上げて泣いたという。 近藤の死に関して周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らず、死の間際まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。 そして近藤の死の2ヶ月後、沖田は近藤の死を知らぬ儘その生涯を閉じた。 容貌 [ ] 若き天才剣士が労咳により夭逝してしまうというドラマ性に富むその生涯から、そのドラマ性をさらに演出する要素として多数の創作において 「剣にめっぽう強い上に明るい性格、その反面、病弱で色白の美青年」として描かれてきた。 沖田の容貌に関して、現在残っている沖田のは、姉ミツが孫の要を「総司にどこか似ている」と称したことから、彼をモデルに4年()に描かれたもので、生前の沖田を描いたものではない。 の者や新選組に関わった人物の証言では、「美青年であった」とは書き残してはおらず、容姿に関する記述としては、 「笑うと愛嬌がある」「色黒」「肩の張り上がった」「猫背」「長身」と書かれたものが残っている。 この記述から浮かび上がる人物像として、美青年説に疑義を唱える指摘もある。 なお、巷の「総司=ヒラメ顔」説は、佐藤彦五郎のがテレビで谷春雄の話にのってつい口走ってしまったのが始まりとされ、谷は「総司がヒラメ顔」というのは「のっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の間隔が寄っているから」と話している。 沖田哲也はこの説を完全に否定し、沖田家では総司の容姿について 「色の白い、小さい男だった」という風に伝わっているという。 また、沖田の写真は一枚も残されていないが、ミツの証言によると、「沖田の次姉の文机の引き出しに彼の写真がある」と伝えられていたが、新選組研究者によると、キンの文机の引き出しを調べたが写真はなかったという。 家を引越しする際、可燃ごみと一緒に処分してしまったのではないかとされる。 女性関係 [ ] 作品の世界で沖田は、一般に純情な青年として描かれることが多かった。 町医者の娘とな恋愛をするなどの描き方がほとんどで、実際に沖田の周囲では近藤や土方などのようにの女性の影は見えない。 ただ、の文久3年(1863年)付の日記によると、土方、松五郎、と共に沖田がの廓九軒町吉田屋にて天神()を買うという記述が見られるため、必ずしも女遊びをしなかったというわけではないようだが、自分が好意を持っている女性の話になるととても真面目だったという。 また、光縁寺には、に「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、これが沖田の恋人ではないかとも言われている。 一説には、この女性は石井秩という未亡人で、連れ子(娘)が1人おり、沖田はこの女性との間に1女をもうけキョウという名を付けたという話もあるが、定かではない。 なお、新選組にはもう1人「」(、土方らが江戸で募集した隊士の1人)という沖田姓の隊士が居り、過去帳の「沖田氏」は承之進の方では無いか、との説もある。 さらに、 試衛館で手伝いをしていた女性(気が強い男勝りな性格だったようだ)に「結婚してくれ」と告白され、「修行中の身ですので」と断ったという逸話も残っている(その女性は断られたショックでかを起こし、その後近藤の口利きにより他家に嫁いだようだ)。 この女性はのであったと言われるという説もある。 [ ] また、にあった里茂の娘・キンとは馴染であったと言われている。 発病時期 [ ] 『』(子母澤寛)によると、沖田はで派の1人を斬り伏せた直後に、でして倒れ、以後は活動から離脱したという。 しかしその時期から発病していたならば、もっと早く悪化していなければ不自然である。 そして沖田の離脱については『近藤勇書簡』『島田魁日記』においては記述されておらず、翌月のにも近藤勇・土方歳三・・永倉新八と共に出動していた記録があり 、その後も活動していることが確認されている。 慶応2年()頃、幕府・が新選組をした際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。 慶応3年()には周囲が認識し得るほど発病していた模様で、頃罹病したとする『両雄実録』()、不動堂村へ屯所を移転した頃に大病を患ったとする『壬生浪士始末記』(西村兼文)、さらに付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。 以上から、沖田が戦闘に耐えがたいほど重篤な状態に陥ったのは、慶応3年秋から冬頃であったと思われる。 永倉新八が2年の『』、明治44年()の『七ヶ所手負場所顕ス』『新選組史料集』において沖田がを患っていたことを記し、子母沢寛が『新選組始末記』において池田屋における喀血と離脱が記されており、時代が下ることに確立した説であると考えられている。 なお、『新選組始末記』をはじめとする池田屋での喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『』と考えられるが、こちらには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が池田屋で昏倒したことが記されている。 昏倒の原因は肺病の発症か、蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による等の一時的な体調不良かは不明だが、原因が肺病だったとしても少なくとも近藤や永倉等周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられる。 名前 [ ] 沖田総司の幼名は「 宗次郎」であるが、沖田家には「幼名沖田 総次郎」、墓石には「沖田 宗治郎」、の八坂神社献額には「沖田 惣次郎藤原春政」、の日記には「沖田 惣次郎殿」とそれぞれ書かれている。 当時は読み方さえ合っていれば字は何でもいいという風潮があったためで、沖田総司自身、近藤勇の生家・宮川家宛ての手紙にて自分の名前を「沖田総二」と署名しているものがある。 フィクションにおける沖田総司 [ ] 「」および「」も参照 フィクションにおける沖田像は、が指摘するように、「天才的といわれるすぐれた剣技の持ち主であったこと」「きわめて明朗な性格であったこと」「肺結核を患っていたこと」が不可欠の要素であったとされている。 1970年以降は「薄幸の天才美剣士」「純粋」「透明」な存在として描かれてきた。 この沖田像はによって創造されたとしばしば指摘される。 沖田在世時の記録には沖田の容姿が秀でたものであると描写したものはほとんどなく、子母澤寛の『新選組三部作』にもその要素は描かれていない。 沖田が映画に登場したのは1928年9月に公開された『』で、翌年には主演の『』が公開されている。 1930年の『』ではが沖田を演じた。 はこの二作によって沖田が美男子であるイメージが構築されたとしている。 史実の沖田が遊郭にほとんど出入りせず、女遊びをしなかったということや、不治の病である肺病を患っていたという点も、「純愛」や「薄幸」のイメージを増幅した。 1937年、沖田の墓が発見されたという記事が『』に掲載されたが、沖田は「白皙の美剣士を誇る大衆文芸の主人公を地で行った宿命の若き剣士」と表現されている。 40年代に司馬遼太郎が描いた新選組作品では、沖田は「さわやか」な「透明感を与える清潔な好青年」で「無垢な明るさ」を持つ美剣士であると認識された。 映像化作品でも、『』や『』で演じる沖田が高い人気を博した。 一方で司馬は新選組自体を「病的な美意識」と出世権威主義で動いていたと批判的に見ており 、沖田についても斬る対象を憐れみながら、斬る日を楽しみにしていたり、自分が殺害した間者の隣で祇園祭の鉾を無邪気に眺めながら刀を拭うという「ふしぎな若者」としても描写されている。 現在でも多数の・・など映像メディアにおいてもほぼ常に若手俳優が演じるか二枚目に描かれている。 は沖田を女性に設定した小説『』や『竜馬伝』を書き、化している。 また、子母澤寛の『新選組始末記』以降に定着した「池田屋での戦闘中に激しく喀血し、倒れ込む」描写は「新選組に斬られた浪士が階段を転げ落ちる」シーンとともに多く見られる。 渡辺多恵子の漫画『』やのNHK大河ドラマ『』では、(暗殺)の直前まで沖田が新選組として活動しており、近年の説に沿った描写となっている。 関連作品 [ ] 小説 [ ]• 『六月は真紅の薔薇』 1975 のち講談社文庫、春陽文庫 『小説沖田総司~六月は真紅の薔薇』と改題• 『総司炎の如く』 2003 のち文春文庫 楽曲 [ ]• 『明鏡止水』(作詞:、作曲:) 画像集 [ ]• 釣洋一『新選組写真全集』、 1997年 43p• 「新選組隊士列伝」• 東京都港区のに拠る。 「沖田家文書」『新選組日誌』上巻所載。 「剣術稽古覚帳」調布市史編纂委員会編『調布の近世史料』所載。 沖田は無類の天才剣士であったと言われるが、江戸の頃の教え方はかなり荒っぽいものであったという。 「行動録」『新選組日誌』上巻所載。 芹沢鴨暗殺については確実な記録が見られないが、『新撰組始末記』に拠れば沖田は土方、、とともに芹沢襲撃に参加したという。 内山彦次郎暗殺についても確実な記録が見られないが、西村『新撰組始末記』においては新選組の暗殺としている。 「近藤勇書簡」「島田魁日記」に拠る。 『』に拠る。 『剣の達人111人データファイル』()• 『永倉新八遺談』• 『小島日記』• 『壬生浪士始末記』• 『史談会速記録』• 『史談会速記録』• 『幕末奇談』• 『甲子戦争記』• 大石学『新選組』• , p. 97-98. , p. , p. 93-94,107. , p. , p. 98-99. , p. , p. 106-107. , p. 107. , p. 105. , p. 105-107. 参考文献 [ ]• 木村幸比古『新選組と沖田総司 「誠」とは剣を極めることなり』、• 『剣の達人111人データファイル』、• 平塚佳菜「司馬遼太郎の沖田総司像」『國文學論叢』第55巻、龍谷大学、2010年2月1日、 93-108頁、。

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沖田総司の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介

沖田 総司 写真

1.沖田総司が「ブサイク」という可能性を高める写真や証言 まず、初めに世間で語られている沖田のイメージとは真逆の、「沖田はイケメンではない」ということを裏付けるような証言や史料をみていきましょう。 1.現存している写真がブサイク… 上記を裏付けるものとして有名なのは、「沖田総司」で検索すると真っ先に出てくるこちらの肖像画でしょう。 私も他人の顔をとやかく言えるような人間ではないのですが、客観的な評価としてこの顔を「イケメンだ」と評するのはよほどの物好きでしょう。 少なくとも、万人がイケメンであると認識する顔でないのは異論がないと思われます。 しかし、結論から言えばこの写真は生前の沖田を映したものではありません。 この写真は沖田の姉であるミツが、自身の孫にあたる要という人物の容姿を「どこか総司の面影がある」として書き取らせたものとされています。 そのため、直接的に沖田の容姿を描いた肖像画というにはあまりにも不十分です。 2.容姿に関する証言もイマイチ… 次に、沖田の容姿に関しては同時代を生きた人物たちによるいくつかの証言が残されています。 例えば、小説家の子母澤寛が小説で沖田を扱うために、生前の新選組を知る「八木為三郎」なる人物に取材したところ、沖田の容姿については 「丈が高く肩の張りあがった色黒な人であった」 と証言しています。 「色黒」というのは我々のイメージとはだいぶ異なりますね。 さらに、郷土史家の谷春雄が新選組の後援者だった佐藤彦五郎のひ孫に取材した際には、 「背が高く、色黒で猫背のよく笑う人だった。 ひら顔で目が細く、ひらめのような人だった。 」 と証言しています。 zukan-bouz. このあたりの反論は研究書では確認できず、情報源がというなんとも心もとないものですが、参考程度にこういう意見もあると紹介しておきます。 2.沖田総司が「イケメン」という可能性を高める証言や史料 さて、次は世間で語られているイメージ通り「沖田はイケメンである」ということを裏付けるような証言や史料をみていきましょう。 ただ、私の個人的な意見を先出ししておくと 「沖田はイケメンではなかった可能性が高い」と考えています。 そう考えるに至った根拠として、イケメン説を裏付ける根拠があまりに乏しいことが理由として挙げられます。 そのため、この項で触れる内容は多少無理があることをご理解ください。 1.子孫・沖田哲也氏の証言 総司の子孫にあたる人物に、明治大学政経学部で教授を務める沖田哲也氏がいます。 彼は上記の「ヒラメ顔」説について否定的な意見をもっており、 「沖田家では色白の小さな男として伝わっている」 沖田イメージとしてはこんな感じでしょうか。 volks. しかし、この反論にはいくつか問題点があると個人的にはみています。 問題点1.複数人から真逆の証言が出ている まず、沖田の容姿については複数人から「色黒で背が高い」という証言が出ている点は無視できません。 もちろん上記は単なる証言であり、その信ぴょう性は決して高いとは言えません。 しかしながら、信ぴょう性という点で議論するならば「沖田家に伝わっている」という沖田哲也の証言の根拠もそれほど信ぴょう性は高くないでしょう。 そう考えていくと、単純に複数人から寄せられている証言を重視したいものです。 問題点2.子孫という立場は客観的な立場とは言えない また、「沖田哲也氏が沖田総司の子孫である」という事実にも問題があると考えています。 これは単純な話で、仮に自分が哲也氏の立場であった場合、偉大な先祖を貶すような証言を残すとは思えないからです。 先祖の名誉を汚すという事は、彼にとってまさしく百害あって一利なしです。 したがって、客観的な立場から寄せられている証言とはいえないと感じています。 2.沖田は女性に人気があった可能性が高い これは直接的に容姿と結びつくかは疑問ですが、生前の沖田は何人かの女性に愛されたということを示すような痕跡も見つかっています。 歴史作家の森満喜子は、沖田が町医の娘と恋に落ちたことがあると書き残しています。 ただ、これについてはあくまで伝聞に過ぎず、それを裏付ける明確な史料は見つかっていません。 また、新選組の支援者であった小島鹿之助の長男が記した『慎斎私言』では、気の強く腕っぷしの良い女に求婚され、沖田がそれを拒否すると女が自害を図ったというエピソードが紹介されています。 ただし、これも二次史料のエピソードなので信ぴょう性が高いとは言えません。 さらに、壬生寺には「沖田氏縁者」と刻まれた墓標があり、この「縁者」を娼婦であるとする仮説も提唱されています。 このように沖田にはいくつも浮名を流した形跡があり、それぞれの説話自体は信ぴょう性が高くないものの、彼がモテていたという可能性は決して低くないと言えます。 もっとも、当然ながらこうした女性との浮名が「イケメンである」こととは直接的に関係しないのも事実です。 剣術の腕は確かであり、人柄も優れていたという沖田は、顔は多少大目に見られていた可能性もあります。 3.沖田の顔に関する個人的な意見 さて、ここまでは「イケメン説」と「ブサイク説」の双方をみてきました。 両者の主張を鑑みた結果、私個人の結論としては先ほども触れたように「沖田総司はイケメンではなかった」という説を提唱したいです。 その理由は先ほども説明したように「反論の根拠が相対的に弱い」という点が大きいです。 加えて、個人的には姉ミツの 「肖像画のモデルとなった孫の容姿はどこか総司の面影がある」という証言を重視したいです。 wikipedia. しかし、仮にそうであったとしても、「大きなイメージ」まではあいまいにならないのではないか、と考えられます。 つまり、一応親戚にあたりおぼろげな記憶ながらも沖田に似ていると証言された孫の姿は、生前の彼の姿とそれほど大きくは乖離していないのではないかと思うのです。 もちろん、この証言だけを根拠にするには問題が多すぎるのも事実です。 あくまで面影があるという程度の証言・ミツの記憶がどれほど正確か・「似ている」の定義があいまい…etc ただ、このミツの証言と他に同時代を生きた人々から得られた証言には、一致するところがあるのも事実です。 そのため、それらの証言を組み合わせていくと、くだんの肖像画は決してそれらの証言を大きく外していないことがわかります。 したがって、「現状分かっている情報だけ」を根拠とするならば、沖田総司は不細工寄りだったと考えるのが自然でしょう。 しかしながら、それを事実と断定するにはあまりにも情報が少なすぎます。 そのため、今後の史料調査で彼の顔写真が見つからない限りは、この問題が解決されることはないのではないでしょうか。 【参考文献】• 木村幸比古『新選組と沖田総司:「誠」とは剣を極めることなり』PHP研究書、2002年。 新人物往来社編『沖田総司のすべて』新人物往来社、1973年。 伊東成郎『幕末新選組拾遺帖』新人物往来社、2004年。 宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店、2017年。

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