市川いっかさつがい 犯人。 百人一首 日本 美意識 日本の歴史 雑学の世界

青空てにをは辞典 「~であろう」

市川いっかさつがい 犯人

[やぶちゃん注:本篇についての詳細はの私の冒頭注を参照されたい。 歌の表示はブラウザの不具合を考えて底本のものを上に引き上げてある。 小泉八雲の〔 〕書き割注(〔 〕のポイント落ち)も、同ポイントで引き上げた。 「万葉集」の校合や注には中西進氏の講談社文庫版を参考にした。 小泉八雲は必ずしも順番に引用していない。 一部で前後しているので注意されたい。 ] これ等の歌の多くのものに於て、妻の方が夫に會ひに天の川をまめまめしく渡るのではなくて、夫の方が妻に會ひに川を漕ぎ渡るといふこと、また鳥の橋のことには少しも言ひ及んでないことが觀られるであらう。 ……自分の飜譯については、日本の詩句を飜譯するの困難を經驗して知つて居らるる讀者諸君は、最も寬容であらるることと自分は思ふ。 自分は(アストンが採用した方法に從つて古風な綴音を示す方がよいと考へた一二の場合を除いて)羅馬字綴りを用ひた。 そして必要上補充した語なり句なりは、括弧で括つて置いた。 [やぶちゃん注:「アストン」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。 十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。 詳細は参照したを参照されたい。 ] 天の川相向き立ちて我が戀ひし 君來ますなり紐解きまけな 〔この最後の句は非常に古い日本文學に記載されて居る面白い習慣を指して居る。 戀人は、分れる前に、互の内側の帶(ヒモ)を結んで、つぎに會ふ時までその結びに手を觸れずに置くことを約束する習はしであつたのである。 ] 久方の天の川洲に船うけて 今宵か君があがり來まさん 〔ヒサカタノは天(そら)の物に關して古の歌人が用ひた「枕詞」でゐつて、飜譯するのが困難なことが往往ある。 だから、ヒサカタは『蒼空の』といふ意味になると言ふ。 處が日水の註譯者は此言葉はヒ(日)、サス(射す)、カタ(方)の三語で出來て居ると言ふ。 枕詞のことについてはアストンの 日本文語文典を見られたい〕 [やぶちゃん注:「万葉集」巻第八の、やはり山上憶良の一首(一五一九番)。 後書に「右は、神龜元年七月七日の夜に、左大臣(ひだりのおほまへつきみ)の宅(いへ)」とある。 「神龜元年」は七二四年で、長屋王の屋敷での詠歌。 ひさかたの天(あま)の川(かは)瀨に船浮(う)けて今夜(こよひ)か君が我許(わがり)來(き)まさむ 「ひさかたの」は以上のような説もあるが、小学館「日本国語大辞典」によれば、現在でも語義・語源は未詳とする。 ] 風雲は二つの岸に通へども わがとほつまのことぞ通はぬ [やぶちゃん注:この歌もやはり同巻第八の山上憶良が七夕を詠んだ十二首の歌の内の一つ(一五二一番)、前の一五二〇番の長歌に添えられた反歌の一つ目。 風雲(かぜくも)は二つの岸に通へども わが遠妻(とほづま)の言(こと)そ通はぬ 第四句目は別に「はしづまの」とする注記が附く。 「わが遠妻」は「私の遠くにいる妻」。 「はしづま」は「愛しい妻」の意。 ] つぶてにも 原註四投げ越しつべき天の川 隔てればかもあまたすべなき 原註四 古書にはツブテはタブテとある。 [やぶちゃん注:同前の反歌の二つ目(一五二二番)。 礫(たぶて)にも投げ越しつべき天の川 隔てればかもあまた術(すべ)無き 後書があり、「右は、天平元年七月七日の夜に、憶良、天の川を仰ぎ見たり。 【一に云はく、師(そち)の家の作】」とある。 「天平元年」七二九年だが、厳密には神亀六年が正しい。 この年の改元は八月五日であるからである。 「帥」は大伴旅人。 ] 秋風の吹きにし日よりいつしかと わが待ちこひし君ぞ來ませる [やぶちゃん注:「万葉集」巻第十の「七夕(なぬかのよ)九十八首」の中の詠み人知らずの一首(二〇八三番)。 秋風の吹きにし日より天の川瀨に出で立ちて待つと告げこそ 「こそ」動詞の連用形に付いて、他に対する願望を表わす終助詞。 「~してほしい。 ~てくれ。 ] 天の川いと川波は立たねども さもらひがたし近きの瀨を [やぶちゃん注:既注の「万葉集」巻第八の山上憶良が七夕を詠んだ十二首の歌の一つ(一五二四番)。 天の川いと川波は立たねども伺候(さもら)ひ難(かた)し近きこの瀨を 「天の川にひどく川波が立っているわけではないのに、川の様子をまず見ようとしてもその船さえも出せない。 これほど、川瀬が近く見えるのに!」の意。 何故、船出出来ないのか不明だが、牽牛の焦りを読んだものではある。 ] 袖振らば見もかはしつべく近けれど 渡るすべなし秋にしあらねば [やぶちゃん注:憶良の同前の次の歌(一五二五番)。 袖振らば見もかはしつべく近けども渡るすべ無し秋にしあらねば 牽牛の立場から。 ] かげろひの 原註五ほのかに見えて別れなば もとなや戀ひん逢ふ時までは 原註五 カゲロヒはカゲロウの古語、陽炎。 [やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二六番)だが、 初句の読みが現行と異なる。 玉かぎる髣髴(ほのか)に見えて別れなばもとなや戀ひむ逢ふ時までは これは後書があり、「右は、天平二年[やぶちゃん注:七三〇年。 ]七月八日の夜に、師(そち)の家に集會(つど)へり」とする。 「かぎる」から「かげろひ」は派生したものだが、「玉かぎる」がしっくりくる。 玉が一瞬キラリと光るように、ほんのわずかの間、逢っただけで別れてしまったなら心もとない思いがずっと続くのだなぁ……また逢う日まで、ずっと…… といった謂い。 ] 彥星の妻迎船漕ぎづらし 天の川原に霧の立てるは [やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二七番)。 牽牛(ひこぼし)の嬬迎(つまむか)へ船(ぶね)漕ぎ出(づ)らし天(あま)の川原(かはら)に霧の立てるは で作者の観察景仕立て。 ] 霞立つ天の川原に君待つと いかよふほどにものすそ濡れぬ [やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二八番)。 霞立(かすみた)つ天の川原(かはら)に君待つといゆきかへるに裳(も)の裾ぬれぬ で迎える織姫の立場から。 ] 天の川水の波音騷ぐなり わが待つ君のふなですらしも [やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二九番)。 但し、 二句目の読みが現行と異なる。 天の川ふつの波音騷くなりわが待つ君し舟出すらしも 「ふつ」は「皆・すっかり」。 「し」強意の副助詞。 ] 七夕の袖卷く宵のあかときは 川瀨のたづは鳴かずともよし [やぶちゃん注:「万葉集」巻第八の湯原王(ゆのはらのおほきみ)の七夕(なぬかのよ)歌二首の二つ目(一五四五番)。 但し、 二句目の読みが現行と異なる。 織女(たなばた)の袖つぐ夜(よる)の曉(あかとき)は川瀨の鶴(たづ)は鳴かずともよし 「つぐ」は「続ける・くっつける・交わす」。 ただ、「卷く」でもシチュエーションとしては問題はない。 ] 天の川霧立ち渡るけふけふと 我が待つ戀ひしふなですらし [やぶちゃん注:「けふけふ」の後半は底本では踊り字「〱」。 「万葉集」巻第九の「七夕(なぬかのよ)の歌一首幷(あは)せて短歌」の後者。 前書は「反歌」(作者未詳・一七六四番)。 但し、現行とは下の句が異様に異なる。 天の川霧立ち渡る今日今日とわが待つ君し舟出すらしも 小泉八雲のローマ字の転記ミス。 ] 天の川安の渡りに船うけて わが立ち待つといもにつげこそ 原註六 原註六 日本古語ではイモは「妻」と「妹」と兩方を意味してゐる。 「いとしの者」といふ語に譯してよからう。 [やぶちゃん注:「万葉集」巻第九の「七夕(なぬかのよ)九十八首」の中の一首(作者不詳(以下同じ)・二〇〇〇番)。 天の川安(やす)の渡(わたり)に船浮(う)けて秋立ち待つと妹に告げこそ 「天の川」は高天原神話に登場する「安の川」と同一と考えたもの。 そこには川原があって、牽牛が織女のもとへと通う際に乗る、船の船着き場があると捉えたもの。 ] おほそらよ通ふわれすらながゆゑに 天の川路のなづみてぞこし [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇〇一番)。 但し、 初句の「よ」は「ゆ」が正しい。 小泉八雲の転写ミス。 大空ゆ通(かよ)ふわれすら汝がゆゑに天の川路(かはぢ)をなづみてぞ來し 「ゆ」は経過点を示す格助詞。 万葉時代の歌語。 ] 八千矛の神の御世よりともしづま 人知りにけりつぎてし思へば 〔ヤチホコノカミ、これには他にも名が多くあゐが、此神は出雲の大神で、普通にはオホクニヌシノカミ卽ち「大國主神」として知られて居る。 ツマ(ヅマ)といふ語は、古代日本にあつては、妻とも夫とも意味した。 だから、この歌は妻の思ひを叙べたものとも、或は夫の思ひを叙べたものとも解してよからう〕 [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇〇二番)。 八千戈(やちほこ)の神の御代より乏(とも)し妻(づま)人知りにけり繼ぎてし思へば 「乏し妻」とは「逢うことが稀な妻」の意。 「繼ぎてし思へば」は「かくも私が絶えることなく思い続けているから」の意。 ] あめつちと別れし時ゆおのがつま しかぞてにある 原註七秋待つあれは 原註七 古の曆では七月の七日は秋季。 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇〇五番)。 四句目の字余りは原歌のままである。 天地と別れし時ゆ己(おの)が妻然(しか)ぞ年にある秋待つ我れは 「天地開闢以来、私の妻には、かくも、年に一度しか会えぬのだ! だから秋を待ち焦がれるのだ! 私は!」の意。 ] わが戀ふるにほのおもは今宵もか あまの河原に石枕まく [やぶちゃん注:「おもは」 は訳者大谷のミス。 同前の一首(前歌より前・二〇〇三番)。 わが戀ふる丹(に)の穗(ほ)の面(おもわ)今夕(こよひ)もか天の川原に石枕(いしまくら)まく 「丹(に)の穗(ほ)の面(おもわ)」「丹色が秀でている顔」で「匂うような美しい顔」。 牽牛が織女のことを想像して仮想したもの。 石を枕にして独り寝しているのは織女。 ] 天の川みこもりぐさの秋風に なびかふ見れば時來るらし [やぶちゃん注:同前の一首(二〇一三番)。 但し、 「みこもりぐさ」が現行と異なる。 天の川水蔭草(みづかげぐさ)の秋風に靡(なび)かふ見れば時は來にけり 「水蔭草」は川辺の草。 ] わがせこに 原註八うらこひおれば天の川 よふね漕ぎとよむかぢのときこゆ 原註八 古代の日本語ではセコという語は夫か兄を意味した。 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇一五番)。 下の句の字余りは原歌のままである。 「おれば」は原本のママ。 小泉八雲は口語表記に変えてしまっている。 わが背子にうら戀ひ居(を)れば天の川夜船漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ 「なる」伝聞推定の助動詞。 ] 遠妻とたまくらかはし寢たる夜は とりがねななき明けばあくとも 〔「玉枕を取り換はす」とは互の手を枕に用ひるといふ意味。 この詩的な句は、よく最初の日本文學に用ひられて居る。 玉(タマ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。 ]といふ語は「貴とい」、「親しい」とかいふ語と同意味に、よく複合詞に用ひられる〕 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇二一番)。 原歌は以下のように最終句が字余り。 遠妻(とほづま)と手枕(たまくら)交(か)へて寢(ぬ)る夜は鷄(とり)が音(ね)な鳴き明けば明けぬとも 「な」は禁止の副詞。 最終句は「夜が明けてしまったなら、それはそれで仕方がないのだが」の意。 ] よろづよにたづさはり居てあひみども おもひすぐべき戀ならなくに [やぶちゃん注:同前の一首(二〇二四番)。 万代に携(たづさ)はり居て相見(あひみ)とも思ひ過ぐべき戀にあらなくに 「思ひ過ぐべき戀にあらなくに」「思いが消えてしまうような恋ではないのに」の意。 ] 我が爲とたなばたつめのその宿に 織れる白妙ぬいてきんかも [やぶちゃん注:同前の一首(二〇二七番)。 わがためと織女(たなばたつめ)のその屋戶(やど)に織る白栲(しろたへ)は織りてけむかも 「織り終ったかな?」という牽牛の想像。 ] しら雲の五百重かくりて遠けども よひさらず見ん妹があたりは [やぶちゃん注:同前の前の一首(二〇二六番)。 現行とは四句目に異同がある。 白雲の五百重隱(いほへがく)りて遠(とほ)けども夜(よる)去らず見む妹があたりは 「白雲の五百重隱(いほへがく)りて遠けども」「白雲が幾重にも重なり合って、織女のいる方は隠れて見えないし遠いけれど」の意。 ] 秋されば川霧たてる天の川 川に向き居て戀ふ夜ぞ多き [やぶちゃん注:同前の一首(二〇三〇番)。 秋されば川霧立てる天の川川に向き居(ゐ)て戀ふる夜そ多き 係助詞「ぞ」は古くは清音で、上代には「そ」「ぞ」が併存していた。 ] ひととせになぬかの夜のみ逢ふ人の 戀もつきねばさよぞあけにける [やぶちゃん注:同前の一首(二〇三二番)。 一年に七日の夜のみ逢ふ人の戀も過ぎねば夜は更(ふ)けゆくも であるが、別に、 一年に七日の夜のみ逢ふ人の盡きねばさ夜そ明けにける の異形が原本に示されてある。 ] 年の戀今宵つくして明日よりは 常のごとくや我が戀居らん [やぶちゃん注:同前の一首(二〇三七番)。 年の戀今夜(こよひ)盡して明日よりは常のごとくや我が戀ひ居(を)らむ 「や」疑問の係助詞。 ] 彥星とたなばたつめと今宵あふ 天の川戶に波立つなゆめ [やぶちゃん注:同前の一首(二〇四〇番)。 彥星(ひこぼし)と織女(たなばたつめ)と今夜(こよひ)逢ふ天の川門(かはと)に波立つなゆめ 「川門」川の流れが狭くなっているところ。 渡し場はそこ。 「な」禁止の副詞。 「ゆめ」「努・勤」で呼応の副詞で通常文では下に禁止・命令表現を伴う。 ] 秋風の吹きただよはすしら雲は たなばたつめの天つひれかも 〔日本の夫人服裝史に於て、時代を異にして、異つた衣裳品が此名で呼ばれて居た。 此歌の場合では、云ふところのヒレは、頸のまはりに著けて、肩の上から胸へと下して、其處で垂らしたままで置くか、又は或る飾り結(むすび)に結んだ白いスカアフであつたらしい。 ヒレは、今日同じ目的に手巾[やぶちゃん注:「ハンカチ」或いは「ハンケチ」と読んでおく。 ]を振るやう、それで合圖をするによく用ひた。 秋風の吹きただよはす白雲は織女(たなばたつめ)の天つ領巾(ひれ)かも 「領巾(ひれ)」は元々は呪具であった。 私は「魂振り(魂呼び)」の一呪法と見る。 ] しばしばも相見ぬ君を天の川 船出はやせよ夜の更けぬまに [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇四二番)。 しばしばも相見ぬ君を天の川舟出(ふなで)早(はや)せよ夜の更けぬ間に 織女の焦りをモチーフとしたもの。 ] 天の川霧立ち渡り彥星の かぢのとさこゆ夜の更け行けば 〔カヂといふ語は今は「舵」。 「艫」(とも)の誤記か誤植。 ]に乘せて、同時に舵の役も櫂役もする一本の櫂(ヲオル)で匕橈(スカル)、今、ロと呼んで居るもの。 註釋家の說に據ると、天の川を橫ぎつて居る霧は星神の櫂の飛沫であるといふ〕 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇四四番)。 第四句は小泉八雲の転写ミス。 天の川霧立ちわたり彥星の楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ夜の更けゆけば の字余りが正しい。 ] 天の川かはとさやけし彥星の はや漕ぐ舟の波の騷か [やぶちゃん注:同前の一首(二〇四七番)。 天の川(かは)川音(かはと)淸(さや)けし彥星の秋漕ぐ舟の波のさわきか 「騒ぐ」は上代は清音。 ] このゆふべ降り來る雨は彥星の はや漕ぐ舟の櫂(かい)のちりかも [やぶちゃん注:同前の一首(二〇五二番)。 この夕(ゆふべ)降り來(く)る雨は彥星の早(はや)漕ぐ舟の櫂(かい)の散(ちり)かも 「散(ちり)」水飛沫。 ] あすよりはわがたまどこを打拂ひ 君といねずてひとりかも寢ん [やぶちゃん注:同前の前の前の一首(二〇五〇番)。 明日よりは我が玉床(たまどこ)をうち掃ひ君と寢(い)ねずてひとりかも寢(ね)む 「玉床」壻(むこ)迎えの飾ったベッド。 牽牛の心境であろう。 ] 風吹きて川波立ちぬ引き舟に 渡り來ませ夜の更けぬまに [やぶちゃん注:同前の一首(二〇五四番)。 風吹きて川波立ちぬ引船(ひきふね)に渡りも來(きた)れ夜の更けぬ間に だが、別な訓では「渡り來ませ」もあるようだ。 ] 天の川波は立つとも我が舟は いざ漕ぎいでん夜の更けぬまに [やぶちゃん注:同前の一首(二〇五九番)。 天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に] いにしへに織りてし機をこのゆふべ ころもにぬひて君待つあれむ [やぶちゃん注:同前の一首(二〇六四番)。 いにしへゆ織(お)りてし機(はた)をこの夕(ゆふべ)衣(ころも)に縫(ぬ)ひて君待つわれを 「を」は詠嘆の間投助詞。 ] 天の川瀨を早みかもぬばたまの 夜は更けにつつあはぬ彥星 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇七六番)。 天の川瀨を早(はや)みかもぬばたまの夜(よ)は更けにつつ逢はぬ彥星 ちょっと変わった意地悪な客観想起設定である。 ] わたし守船早や渡せひととせに 再びかよふ君ならなくに [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇七七番)。 渡守(わたしもり)舟早(はや)渡せ一年に二たび通ふ君にあらなくに ここでは牽牛は自分で漕がずに、渡し舟で船頭の漕ぐそれでやってくる設定にしてあるのである。 ] 秋風の吹きにし日より天の川 川瀨にてたち待つと告げこそ [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇八三番)。 秋風の吹きにし日より天の川瀨に出で立ちて待つと告げこそ] 七夕のふなのりすらしまそかがみ きよき月夜に雲立ち渡る 〔天平十年(紀元七百三十八年)七月の七日、天の川を眺めながら、かの有名な大友[やぶちゃん注:ママ。 ]宿禰家持が作つたもの。 三句目の枕詞(マソカガミ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。 ]は飜譯が出來ぬ〕 [やぶちゃん注:「万葉集」巻第十七の、大伴家持の、天平「十年の七月七日に、大伴宿禰家持の、獨り天漢(あまのがは)を仰ぎて、聊(いささ)かに懷(おもひ)を述べたる歌一首」(三九〇〇番)である。 現行表記とやや異なる。 織女(たなばた)し舟乘(ふなの)りすらしまそ鏡淸き月夜(つくよ)に雲立ち渡る 家持二十歳頃の作。 これは織女が出向く形だが、これは中国の伝説のままなのであっておかしくないのである。 「まそ鏡」はもとは神聖なる鏡を褒めてていう語で「立派な鏡」のことであったが、「鏡を見る」の意から転じて、「見る」にかかる枕詞となったものである。 「霧」はその織女の乗る舟の乗り出す飛沫(しぶき)ととっているのである。 「し」は強意の副助詞であろう。 ] しかるに、日本の昔の歌人は星空に何の美をも認め得なかつた! と眞面目に主張され來たつて居る。 …… [やぶちゃん注:感嘆符の後の字空けは底本にはない。 特異的に入れた。 ] 恐らく如上の昔の歌人が了解して居たやうな、七夕傳說は西洋の人の心にはただ微かにしか訴へ得ないであらう。 にも拘らず、澄み切つた靜寂の夜、月の昇る前に、この古い物語の妙趣が、熒熒[やぶちゃん注:「けいけい」。 小さくきらきらと輝くさま。 すると自分はもはや天の川をば、その幾億萬の太陽も奈落を照す力を有たぬ[やぶちゃん注:「もたぬ」。 自分にはその光つて居る川のおののきが見え、その川岸にたゆたふ霧が見え、秋風に靡く水草が見える。 白い織姬がその星の機に坐つて居るのが見え、向うの岸に草を喰んで居る牛が見える。 [やぶちゃん注:本篇についての詳細は の私の冒頭注を参照されたい。 歌の表示はブラウザの不具合を考えて底本のものを上に引き上げてある。 ] 我が讀者諸君は七夕傳說を取扱つて居る、日本の古歌の次記の選擇を見て興味を感ぜらるる筈と思ふ。 これ等は悉く『マンエフシウ』から採つたものである。 『マンエフシウ』卽ち『萬の葉の集り』といふは八世紀の半ば前に作られた大歌集である。 勅命に依つて編纂されたもので、九世紀の初めに完成された。 その中にある歌の數は四千の上にのぼる。 『長い歌』(ナガウタ)もあるが、大多數はタンカ卽ち三十一文字に限られて居る作品で、そして作者は廷臣か高官かであつた。 つぎに飜譯する初めの十一の短歌は千百年以上も前に筑前の國の守(かみ)であつた山上憶良が作つたものであり、その作のうちの少からずが希臘詩選中の より立派な奇警詩(エピグラム)の或る物と比肩するに足るから、氏の歌人としての名聲は頗る當然のものであつた。 その幼兒フルビが死んだ折に物しら、つきの歌は例證とするに足るであらう。 九〇四番の長歌の反歌。 九〇四の詞書に、「男子(をのこ)の、名は古日(ふるひ)に戀ひたる歌三首【長一首短二首】」とある。 自分の幼子「古日」の死を悼むものである。 稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)は爲(せ)む黃泉(したへ)の使(つかひ)負(お)ひて通(とほ)らせ 「道」は死出の旅路、「幣」は贈り物・捧げ物。 「通らせ」尊敬の命令形。 「行かせてやって下さい」。 「Sardis」(サルディス又はサルデス)現代のトルコ共和国マニサ県サルトにかつてあった古代リュディア王国の首都。 (グーグル・マップ・データ)。 以下は底本では全体が二字下げ。 前後を一行空けた。 ] この蘆の湖の水の上を、冥土指して死者の船を漕ぐなる汝ケエロンよ、キニラスの子が舷[やぶちゃん注:「ふなばた」。 ]の梯子を登る時、汝が手を伸ばして受け迎へよや。 穿てる草履はかの子を滑らしむべく、また岸の砂を肌足にて踏まんことは恐るれば。 然るに憶良の歌は父が子に對する思慕の情を我我に言ひ現はして居るのである。 ハーデースはギリシア神話の冥府の神。 冥界の代名詞ともなった。 「カローン」或いは「カロン」が一般的(この大谷の音写ではギリシア神話の半人半馬の怪物ケンタウロスの一人である「ケイロン」(Cheiron)と誤るのでよくない)。 ギリシア神話に登場する神に準ずる存在で、冥界の河「ステュクス」(「憎悪」の意)或いはその支流「アケローン」(悲嘆)の渡し守で、「エレボス」(闇)と「ニュクス」(夜)の息子とされる。 「キニュラース」或いは「キニュラス」(ラテン文字表記:Cinyras)は、ギリシア神話に登場するフェニキアの王。 実の娘であるミュラーに思いを寄せられ、夜の闇によって相手が十二歳の娘だということを知らずに近親相姦を行ったが、やがて相手が娘だということを知ることとなる。 娘との間にアドニスが生まれた。 妻はケンクレイス(以上は に拠る)。 ギリシア神話に登場する美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年(神ではなく人間)。 フェニキアの王キニュラースとその王女であるミュラーの息子。 この名は後、美しい男性の代名詞としてしばしば用いられる。 によれば、『アドーニスは狩りが好きで、毎日狩りに熱中していた。 アプロディーテーは狩りは危険だから止めるようにといつも言っていたが、アドーニスはこれを聞き入れなかった。 アドーニスが自分よりもアプロディーテーを選んだことが気に入らなかったペルセポネーは、アプロディーテーの恋人である軍神アレースに、「あなたの恋人は、あなたを差し置いて、たかが人間に夢中になっている」と告げ口をした。これに腹を立てたアレースは、アドーニスが狩りをしている最中、猪に化けて彼を殺してしまった』。 『アプロディーテーはアドーニスの死を、大変に悲しんだ。 やがてアドーニスの流した血から、アネモネの花が咲いたという』とある。 ] 七夕の傳說は實に、支那から借りたものではあるが、讀者は次記の作に何等支那らしいところを見出されぬであらう。 いづれも外國の感化を受けてゐない昔の古典的な歌のその最も純なるものを代表して居るもので、千二百年前の日本人の生活と思想との情態[やぶちゃん注:ママ。 大谷の癖。 ]について、幾多の暗示を我我に提供するものである。 如何なる近代の歐洲文學もまだ形を具ふるに至らざる前に、書かれたものであることを想へば、その後の幾世紀の星霜の間に日本の文語がどんなに少ししか變化して居ないか、誰れしも非常に驚く。 少しばかりの廢語と發音の樣樣な一寸とした變化とを差引けば、今日の尋常な日本讀書人は、英國の讀書人がエリザベス朝の詩人を硏究するに覺ゆると殆んど同じ位に、餘り困難を感ぜずにその自國の詩神(ミユウズ)のかういふ初期の作物を味ふことが出來るのである。 その上、萬葉集の作品の典雅と簡素の妙趣とは、役の日本歌人は終にこれを凌駕し得ず、しかもこれと竝馳することも減多に無かつたのである。 しばしば「イングランドの黄金期」と呼ばれる。 シェイクスピアはソネットなどにも大きな足跡を残した。 クリストファー・マーロウなどによっても多くの詩文が残され、英文学の大きな財産となっている』とある。 ] 自分が飜譯した四十幾つの短歌に就いて云へば、その主たる興味は、思ふに、その作者は人間性を我我に洩す處に在つて存する。 タナバタツメは今なほ頭が下る程に愛情の深い日本の人妻(ひとづま)を我我に代表して居り、ヒコボシは我我には神の光りは一向に放たず、支那の倫理的習慣がその拘束を生活竝びに文學に加ふるに至らない前の、六世紀若しくは七世紀の一年若い日本の夫(をつと)のやうに思はれる。 それからまた此等の歌は、彼等が自然美に對する早くからの感情を表白して居るので、我我には興味がある。 その歌に我等は日本の風景と、四季とが 高天の蒼野に移されて居るのを見る。 水が音を立てて淀みなく流れるさま。 木の釘の上で動くたつた一挺の櫂で推し進めるヒコボシの船はまだ廢れては居ない。 そして少女と人妻とは、氣持ちのいい秋の日には、タナバタツメがその戀人たる夫の爲めに機を織つた如くに、田舍村のその門口で今なほ坐つて機を織つて居るのである。 [やぶちゃん注:以下、一行空けで和歌紹介パートに入るので、ここでブレイクしておく。 ] [やぶちゃん注:本篇についての詳細はの私の冒頭注を参照されたい。 ] 自分はそれへたつた一つの神社の記錄を見出すことが出來た。 それは尾張の國星合村 原註三といふ村にあつて、七夕森といふ杜に圍まれて居る七夕神社といふのである。 原註三 ところが近代のどんな地名簿にもそんな村の記載がない。 [やぶちゃん注:尾張ではないが、現在の が現存し(グーグル・マップ・データ)、 によれば、『古くは伊勢国における七夕伝説発祥の神社とされ』、『三雲管内、新田開発以前の白砂青松の地で行われていた七夕祭は「伊勢星合祭」と呼ばれてい』たとし、『現在も「星合」「鵲」という地名が残り、神社の近くには「鵲橋」が存在し』、『主祭神は「天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)」』で、『古い文献には「多奈波太姫(たなばたひめ)」とあ』るとある。 小泉八雲が言っているのはこれの可能性がある。 ] が、然し天平勝寶前でも、織姬の傳說はよく知られて居たらしい。 といふのは養老八年(紀元七百二十三年)の七月七日の夜に、歌人の山上憶良が、 天漢(アマノカハ)相向立而(アヒムキタチテ)吾戀之(アガコヒシ)君來益奈利(キミキマスナリ)紐解設奈(ヒモトキマケナ) といふ歌を作つたといふことが、記錄されて居るからである。 [やぶちゃん注:以上は、「万葉集」巻第八の「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)の七夕の(なぬかのよ)の歌十二首」と前書する、その冒頭の一首である(一五一八番)。 整序すると、 天の川相向き立ちて我が戀ひし君來ますなり紐解き設(ま)けな で、歌の後に、 右は、養老八年七月七日に、令旨に應(こた)ふ。 とある。 「令旨」は皇太子の命令。 但し、講談社文庫の今西進氏の「万葉集」の注によれば、『養老八年は二月に神亀』に『改元』されているから、『六か七の誤り』とある。 ] 七夕祭は日本では千百五十年前に、支那の先例に從つて、ただ、宮中の祭りとして、初めて行はれたもののやうに察しられる。 其後貴族と武人階級とが帝室の手本を模し、俗に云ふホシマツリ卽ち『星祭』を行ふ習慣が漸次下に及び、終に七月の七日は、其言葉の十分の意味に於て、國民的祭日となつた。 が、その行ひ方は、時代によつてまた國を異にするに從つて、餘程違つて居つた。 [やぶちゃん注:によれば、『日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた』。 『「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の』一『書第』一『にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。 また、『萬葉集』卷』十『春雜歌』二〇八〇番の「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者將長」(たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ)『など』、『七夕に纏わる歌が存在する』。 『そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある』。 『日本では、雑令によって』七月七日が『節日と定められ、相撲御覧(相撲節会』(すまいのせちえ)『)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた』。 『その後、平城天皇が』七月七日に『亡くなると』、天長三(八二六)年、『相撲御覧が別の日に移され』、『行事は分化して』、『星合と乞巧奠が盛んになった』。 『乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん』『、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い』、七月七日の『夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。 古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。 この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。 宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を』四『脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉』一『枚に金銀の針をそれぞれ』七『本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。 一晩中香をたき』、『灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。 また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた』。 『二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。 江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。 なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない』とある。 ] 宮中での儀式は極はめて細細した念入りの者であつた。 七月の七日の宵に、宮居のうちの淸涼殿と呼ぶ建物の東の庭に莚を鋪き、その莚の上に星神に捧げる供物を載せる机四脚を立てる。 普通の食物の供物のほかに、その机の上に酒、香、花を活けた朱漆りの華盤、箏と笛、五色の絲を貫いた目の五つある針一本を載せる。 其饗宴を照す爲め、机の橫に黑漆りの燈臺をたてる。 庭の他の部分にタナバタの星の光りが映るやうに、水盥が置かれ、宮中の貴女達は、其水に映る星影で針に絲を通すことを試みた。 首尾よく通した者は翌年中幸運とされてゐた。 「公事根源抄」とも呼ぶ。 朝廷の年中行事を十二ヶ月に分けて、それぞれの由来を解説した書。 全一巻。 一条兼良撰。 室町時代の応永二九(一四二二)年成立。 現存しない行事や、これを通しての民俗信仰を窺うことが出来る好史料である。。 「華盤」「けばん」。 ] 宮廷に仕へる貴族(クゲ)はこの祭jの日に宮中へ或る供物をしなければならなかつた。 其供物の性質と、其奉呈の仕方とは敕令で極まつて居た。 かつぎを冠り、禮裝をした位階ある貴女が、盆に載せて宮中へ運び行くのであつた。 其貴女があゆみ行く時、その頭上に、六きな紅い傘を供人がさす。 盆の上にはタンザク(歌を書くに用ひる色の美しい紙の縱長い角な切れ)七枚、クズの葉七枚、硯七面、そうめん(一種のヷアミセリ)七すぢ、筆十四管、夜伐つて露が滋く置いて居る芋の葉一束が載せてあるのであつた。 先づ星神を讚へる歌を書くのに使ふ墨を用意するに先だつて、其硯を丁寧に洗つて、一年一面葛の葉の上に置く。 露が置いて居る芋の葉の一束をそれから一つ一つの硯の上に載せる。 水を用ひずに、この露で墨の水をつくるのである。 此式は凡て、玄宗皇帝の頃、支那の宮廷で流行つて居たものを模倣したもののやうである。 ヴェルミチェッリ(イタリア語:Vermicelli)。 イタリア料理で使われる麺類であるパスタの一つ。 名称は「ミミズやヒルのような長い虫」という意味の「ヴェルメ」(verme)の指小形で、「小さいヴェルメ」の意。 スパゲッティよりやや太めの二・〇八~二・一四ミリメートルのものを指す。 ] 德川將軍時代になつて、初めて七夕祭は、眞に國民的な祭日となつた。 そしてこの日を祝つて伐りたての竹へ、色變りのタンザクを結ひ付ける通俗の習慣は、漸く文政(千八百十八年)時代に剏まる[やぶちゃん注:「はじまる」。 前には短册は頗る上等な紙でつくつたもので、この古からの貴族的儀式は念入りであつたが、それに劣らずまた金のかかるものであつたのである。 が、德川將軍時代に種種な色の頗る廉價な紙が製造された。 それでこの祭日の式は費用をかけずに、どんなに貧しい階級の人達でも、思ふままこれを行ふことが出來るやうになつた。 このお祭りに關する民習は地方によつて異つた。 それを簡單に記述すれば、封建時代の幸福な生活の模樣が幾分か偲ばれよう。 七月の七日の夜、寅の刻には誰れも起きる。 そして硯と筆とを洗ふ。 それから家の中の庭で、芋の葉から露を集める。 此露をアマノガハノシヅク(『天の川の滴』)と呼んで居た。 庭へたてる竹に吊るす歌を書くのに使ふ新しい墨をつくるのに用ひるのである。 七夕祭の時に友人同士互に新しい硯を贈るのが常であつた。 そして家に新しい硯があれば、新しい墨をそれに使ふのであつた。 それから家中の者が銘銘歌を書く。 大人は、その能に應じて、星神を讚へる歌を作つた。 子供等は云うて貰ふ歌を書きとるか、又は間に合せの歌を作らうとしたりした。 それは六尺許り離して立てるので、その間へ渡した綱へ五色の紙片と、五色の染め絲の總絲を吊るす。 竹の葉と枝とへ、家中の者が歌を書いた短册を結ぴ付ける。 が、此祭りに關して一番妙な出雲の習慣は、ネムナガシ卯卽ち『眠流し』式であつた。 夜明け前に若い者は、ネムの葉と豆の葉とを交ぜて造つた束を携へて流れ川へ行く。 その川へ著くと、その葉束を流れへ投げ込んで、 ネムハナガレヨ! マメノハハトマレ! といふ短かい歌を唄ふのであつた。 その歌は二樣に解釋が出來よう。 が、その式は象徴的のもので、歌の心は、 ねむ氣よ、流れ去れよ! 元氣の葉よ、止りてあれ! といふのであつた。 それを濟ますと、若い者は皆その水の中へ飛び込んで、その翌年は怠惰は全く流し去つて、永く元氣な努力心を保たうといふその決心のしるしに、水を浴びたり泳いだりするのであつた。 が、然し七夕祭が其最も繪畫的な光景を示したのは多分エド(今の東京)でであつたらう。 百姓は其日は竹で大儲けが出來たもので、祭日用にと幾百といふ荷車で竹を町へ持ち込んだ。 江戶での此祭りの今一つの特色は、歌の結ひ付けてある竹を手に、町を持ち步く子供の行列であつた。 その竹一本一本にまた、七夕の星の名が漢字で書いてある赤塗りの札が結ひ付けてあつた。 この日は男の子も女の子も、一等いい著物を著て友人と鄰人とへ式の訪問をした。 七月はタナバタヅキ卽ち『七夕の月』と呼ばれてゐた。 この月はまたフミツキ卽ち『文の月』とも呼ばれてゐた。 それは七月の間は到る處で、天つ空なる戀人をたたへて歌を作つたからである。 [やぶちゃん注:底本では、行空けで次の段落が始まるが、のでここまでで、一区切りとして公開する。 来日後の第十二作品集)の冒頭に配されたものである。 本作品集は (目次ページを示した)で全篇視認でき( から)、活字化されたものは で全篇が読める(本書では、本編内の見開きなるページには左右上部の角に「小泉八雲」の丸い印影が黒で印刷されてあり、なかなかいい。 から)。 小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、この で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。 底本は上記英文サイト にある画像データをPDFで落とし、視認した。 これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。 訳者大谷正信氏については、 の私の冒頭注を参照されたい。 傍点「ヽ」は太字に代えた。 原註は最後にポイント落ち字下げで纏められてあるが、適切と思われる本文の中に同ポイントで挿入した。 本篇は章立てがないが、かなり長い。 適切と私が判断した箇所で分割して示すこととした。 ] 天の河緣起 そのほか 古昔は云ひぬ、『天河は水の精なり』と。 我等は下界の川が時には爲すが如くに 一年のうちにその川床を移すを視るなり。 (古代の學者) [やぶちゃん注:この添え辞は底本では作品集標題「天の河緣起 そのほか」の次のページに配されて、あたかも標題「天の河緣起 そのほか」の添え辞であるかのように訳されてあるのであるが、これは とんでもない誤りで、 本来は作品集巻頭の一篇「天の河緣起」の題の脇に添えられるべきものであって、甚だ具合の悪いものである。 上に示した既に示した を見られたい。 なお、この出典は私は未詳。 ] 天の河緣起 舊日本が行うた幾多の面白いお祭今の中で、一番浪漫的なのはタナバタサマ、卽ち天の川の織姬のお祭りであつた。 大都會では此祭日は今あまり守らぬ。 束京では殆んど忘れられて居る。 然し、多くの田舍地方では、そしてこの首府近くの村でも、今なほ少しは行うて居る。 七月の(舊曆の)七日に、古風な田舍町若しくは村を偶〻訪れると、伐り立ての竹が幾本も家家の屋根の上に取り附けるか、又は橫の地面に樹てる[やぶちゃん注:「たてる」。 ]かしてあつて、その竹一本二本に色紙(いろがみ)の細片(ほそきれ)が澤山に著けてあるのに多分氣付くであらう。 極く貧しい村ではその紙片が臼いか、或はただ一色かであるを見るかも知れぬ。 が、一般の規則としては五通り、又は七通りの異つた色でなければならぬことになつて居る。 靑、綠、赤、黃それに白、これが普通飾る色合である。 その紙片には皆タナバタと、その夫ヒコボシとを讚へて作つた短かい歌が書いてある。 お祭りが濟むと、その竹は拔き取つて、歌をそれに著けたまま、一番近い流れへ投げ込む。 この古いお祭りの緣起を理解するには、七月の七日に、宮中でも、いつもそれに供物をされたこの星神の傳說を知らなければならぬ。 この傳說は支那のものである。 それを平易に日本譯にするとかうである。 仕事が好きで、機を織るより面白いことは他に無いと思つてゐた。 ところが或る日、その天の住家の門口で、機の前に坐つて居ると、牛を牽いて通る美くしい百姓を見て、それと戀に陷つた。 御父樣は、娘の心に祕めた願ひを察して、其若者を夫として與へた。 ところが一緖になつた戀人は餘りに好き合うて、天帝への二人の義務を怠り、梭[やぶちゃん注:「ひ」。 シャトル。 ]の昔はもはや聞えず、牛は世話の仕手が無いので天の河原をさまようた。 そこで大神は不興がられてその二人を別にされた。 二人はその後は、天の川を中にして、別別に暮すやうにと言ひ渡されたが、一年に一度、七月の七日の夜は互に會ふことを許された。 そしてその橋を渡つて二人の戀人は會ふ事が出來るのである。 然し雨が降ると 天の川の水嵩が增して、橋を架けることが出來ぬほど廣くなる。 だから、此夫婦は七月七日だつても、いつも會ふといふ譯には行かぬ。 天氣が惡るい爲めに、續いて三年も四年も會へぬこともある。 [やぶちゃん注:「失錯」(「しつしやく(しっしゃく)」或いは「しつさく(しっさく)」」)は「怠けたり忘れたりして為すべきことをやり損なう」こと。 西洋の著作家はタナバタ卽ち織姬は天琴座の一箇の星であり、その愛人たる牽牛は 乳色の道の向う側にある鷲座の一箇の星であると述べて居る。 然し兩方とも、極東人の想像には、一群の星によつて現されて居ると云ふ方が一層正しからう。 或る古い日本の書物はかう明白に書いて居る。 因みに実際の二星間の距離は十四・四二八光年もあることが科学的に判明している。 牽牛が織女に逢うには光速で走ったとしても十五年半もかかるのである。 以下の引用は底本では、全体が二字下げ。 ] ケンギウ〔牽牛〕は天の川の西にあり、一列に竝べる三つ星にして、牛を牽ける人の如くに見ゆ。 シヨクヂヨ【織女】は天の川の東にあり、機[やぶちゃん注:「はた」。 ]を織る女の姿に見ゆるやうに三つ星竝べり。 ……牽牛は農事にかかはる一切のことを司どり、織女は女の仕事にかかはる一切のことを司どる。 [やぶちゃん注:出典は私は未詳。 ] 雜話集といふ古い書物に、この二人の神はもと、この世界の人であつたと書いてある。 嘗て此世界に夫婦がいて、支那に住んで居た。 夫は斿子[やぶちゃん注:「いうし(ゆうし」。 「斿」の「游」の本字。 ]と言ひ、妻は伯陽と言つた。 二人は殊にまた最も熱心に月を崇め信じた。 晴れた日は每夕、日沒後、その昇るのを熱心に待つて居た。 それから地平線近く沈み出すと、その家の近くの小山の頂きへ登つて、少しでも長くその顏を眺めることにして居つた。 それから到頭、見えなくなつてしまふと、二人は共に歎き悲しんだ。 九十九歲で妻は死んだ。 そしてその魂が鵲[やぶちゃん注:「かささぎ」。 ]に乘つて天上して、其處で一つの星に成つた。 夫は、その時百三歲であつたが、月を眺めて妻を亡うた悲しみを忘れた。 その昇るのを喜んで迎へ、その沈むのを悲しむ時は、恰も妻がなほその橫に居るやうな氣がするのであつた。 夫はその訪れを非常に欣んだ。 だが、その時からして、星に成つて天の川の彼方で伯陽と一緖になれたら、どんなに幸福であらうと、そればかり考へて他のことは考へることが出來なかつた。 到頭、自分も亦、鳥に乘つて天界へ昇つて、其處で一つの星に成つた。 だが、望んで居たやうに、すぐには伯陽と一緖になれなかつた。 といふのは自分の割り當てられてゐる居場處と伯陽が割り當てられてゐる居場處の間に天の川が流れて居たからである。 それにどちらの星も、天帝がその川水で每日沐浴をされるので、その流れを渡ることを許されなかつた。 天帝はその日は、佛の法(のり)の說敎を聽きに、いつも善法堂へ行かれる。 そこでその時は鵲と鴉とが多勢出て、その空を飛んで居る軀と、擴げて居る翼とで天河の上ヘ橋を架ける。 そして伯陽はその擔を渡つて夫に會ぴに行く。 寛永一八(一六四一)年板行の作者・板元不詳の「雑話集」(上・中・下三巻)があるが、それか。 但し、これは私も知っているが、同書と思われる(同名異書の可能性もあるか。 現物を見られないので判らぬが)「雑談集」は「七夕由来譚」を載せてはいる。 しかし、それは小泉八雲が語るものとは異なる、羽衣伝説と七夕伝説がカップリングしたものである。 (PDF)の「七夕由来譚」によれば、『七夕に関連したさまざまな昔話や伝説も各地に伝えられている。 とくに、有名なのが、天の羽衣の話である。 これは天人女房譚の一種であり、七夕の由来譚がともなっている話もある。 たとえば、『雑話集』近江国余呉の湖に織女天降り水浴する。 男が衣を奪う。 織女』、『天に帰らず、その男の妻となる。 子供が生まれ、年ごろになる。 天に昇ろうとする志を捨てず』、織女は『常に泣く。 男の留守に、この子が父の隠しておいた天衣を出してやると、女は喜んでそれを着て天に昇る。 7月7日にこの湖に来て水浴する。 この日を待って』(「男は」であろう)『涙を流した、と記されています』というものである(但し、『この天人女房譚の昔話が、七夕と結びつけられたのは、後世の作為によるものと考えられている』とも述べておられる)。 さらに調べてみたところ、 木戸久二子氏の「『伊勢物語』第六十三段 : 古注に登場する牽牛と織女説話」という論文に( PDF でダウンロード可能)、慶応義塾大学図書館蔵「伊勢物語註」(冷泉家流古注)にこの話がバッチリ出現していることが判った。 同論文の翻刻に従つつ、漢字を正字化し、一部に私の推定読みを歴史的仮名遣で施したものを以下に示す。 前の漢文(返り点と熟語記号のみ附く)は同論文では全体が三字下げ、 後半の訓読文箇所は、恣意的に漢字を正字化し、私が送り仮名や本文のカタカナとなっているものを総てひらがなにし、訓読規則に従い(助詞・助動詞はひらがな書きとする)、さらに句読点・濁音や送り仮名を推定で大幅に補い、改行段落を成形して読み易く示した。 最後の「漢書傳……」(ここは訓読せず、論文のままで載せた)の部分は、論文中でも改行と二字下げが施されてある。 * 史記云瓊在 二夫-婦 一夫云 二遊子 一女云 二伯陽 一百三餘 陽首 一不ㇾ足契 二借〔偕〕-老 一者子二八之候陽三 四之旬愛 二玉兎 一而終-夜坐 二道路-之口 一暮徊 二遠 鄕 一曉登 二山-峯 一舉下而勿 二絕時 一陽沒之刻成 二 深-歎 一月前進得 二相-見 一依 二此執 一生ㇾ星再下 二 陰陽之國 一生 二道-祖半-立之二-神 一主 二男-女 会-合之媒 一 瓊(けい)國の名なり。 遊子・伯陽と云ふ人、夫、十六、妻、十二にて、夫妻となれり。 共に月を愛してすきし[やぶちゃん注:「好きし」或いは「数寄し」か。 ]程に、妻の伯陽、九十九にて死ぬ。 其の時、遊子、百三の年なるに、夫、歎きて云はく、 「汝、死せば、誰(たれ)とか月をも見るべき。 」 と云ふ。 陽、云はく、 「我、死すとも必ず月を見べし。 我、來つて月夜には必ず見るべし。 」 と契り、終(つひ)に死ぬ。 卽ち、葬送すれば、年比(としごろ)かゐける[やぶちゃん注:「飼ひける」。 ]鳥に乘りて、天を飛びて失せぬ。 或夜、なくなく月を見るに、此れに乘りて來(きた)れり。 形をば見れども、物、云ふ事、なし。 弥(いよい)よ、悲みをなす程に、夫の遊子が思ひ、切に成りて、白鵲(かさゝぎ)に乗りて、天に上(のぼ)りぬ。 我が妻を尋ねて行くに、天河(あまのがは)を隔てて、えわたらず。 況んや、婬事を犯す事、思ひも寄るべからず。 七月七日は帝釋の、善法堂へ入り、堂の隙(すき)なり。 さて、此の日相(につさう)と云へり、烏(からす)と鵲(かささぎ)と、羽をさしちがへて、二星、渡すとも見たり。 又、木の葉を口にくはへて、橋にわたすとも見えたり。 「紅葉の橋」ともよみたり。 又、云はく、『星、別れを悲みて血淚を流すが、鵲の白羽(しろば)を染(そ)むれば、「紅葉」と云ふ』とも見たり。 漢書傳云鳥-鵲橋 二口敷 二紅葉 一二-星屋-形前風冷 此の故に、織女を「つもゝ神」と云ふなり。 女を守る神なり。 牽牛を「つくい神」と名づく。 「女をあたふる神」とかけり。 「續伊神」なり。 * 「つくもがみ」は「付喪神」と同語源であろう。 但し、本来のそれは百年を経過した器物に宿って、化けたり人に害をなしたりするとされる精霊を指し、ここで言うようなものとは少し異なるが、女の命とされる髪(九十九髪)・櫛・鏡をそれに置き換えて考えれば、私は腑に落ちる。 「つくい神」の方は判らぬ。 「つくも」を女とした原語を語尾で変えたありがちな男性形に過ぎないかとも思われる。 ともかくも、 小泉八雲が語っているのは、まさにここに記されたものとそっくりである。 「雜話集」なるものに載るのは、これと同源であることは疑いようがない。 但し、冒頭の漢文の「史記」に載るというのは、私の探し方が悪いのか、見当たらない。 原文位置を御存じの方はお教え願いたい。 「鵲」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea。 博物誌は を参照されたい。 ] タナバタといふ日本の祝祭は、元は支那の機織[やぶちゃん注:「はたおり」。 ]の女神織女(チニウ)の祝祭と同一であつたといふことは、殆んど疑ひを挾み得ない。 また、この日本の祭日は、極くの昔からして、殊に女の祭日であつたものらしく思はれる。 そしてタナバタといふ語を書き現す文字は、機を織る少女といふ意味のものである。 然し、この星神の二人を、七月の七日に拜んだものであつたから、日本の學者のうちには、そのもの普通の解釋に滿足せずして、元はこれはタネ(種)といふ語とハタ(機)といふ語から出來て居たと說いたものがある。 その語源說を受け入れる人達は、タナバタサマといふ名稱を單數とせずに複數にして、これを『種の神樣と機の神樣』卽ち農耕を司どる神と機織を司どる神とする。 兩人の服裝は支那風である。 そしてこの二神の最初の日本畫は、多分、支那の何かの原書を模寫したものであらう。 [やぶちゃん注:七夕の行事自体は言うまでもなく、中国から伝来し、奈良時代に広まった。 その基本は無論、「牽牛星」と「織女星」の伝説であるが、中国には別に、手芸・芸能の上達を祈願する習俗として「乞巧奠(きっこうでん)」があってこれが結びつけられて、本邦固有の行事となったとされる。 「七夕」の「たなばた」という当て訓は恐らく「棚機(たなばた)つ女(め)」(「つ」は古い格助詞で「の」の意)の下略されたものとされる。 但し、ここで小泉八雲が述べているように、古くから農村では、豊作を祈って種を撒くという「種播祭(たなばたまつ)り」があったことから、宮中で行われていた中国由来の「七夕(しちせき)」が、民間に広まった際にそれと混同されて、「たなばた」と呼ばれるようになったとも言われる。 農耕予祝行事と別個な中国の外来習慣が習合するのはごくごく普通に見られる現象である。 現代中国音では「織女」は「ヂィーヌゥー」。 出雲では男神の方をヲタナバタサマ、女神の方をメタナバタサマと通常呼んで居る。 兩方共なほ多くの名で知られて居る。 男の方はヒコボシと言つたり、ケンギウと言つたりするが、またたカイボシとも呼ぶ。 そして女の方はアサガホヒメ『朝貌姬』) 原註一、イトオリヒメ(『絲織姬』)、モモコヒメ『一挑子姬』)、タキモノヒメ(『薰物姬』)またササガニヒメ(『蜘蛛姬』)と呼ぶ。 が、古い支那の書物に、一縷の關係がりはせぬかと思はせるやうな、妙な事實が記載されてゐる。 支那皇帝ミン・ヒソン(日本人はゲンソウと呼ぶ)の御世には、宮中の淑女達は、七月の七日に蜘蛛を捕へて占ひのため、これを香箱に入れ置くが習はしであつた。 八日の朝その箱を開く。 若し其蜘蛛が夜の中に厚い網を紡いだならば占ひは吉であつた。 が、若し何もせずに居たのであつたら占ひは凶であつた。 原註一 アサガホ、文字通りでは「朝の貌」。 英語で「モオーング・グロオリ」と呼ぶ美しい攀登植物の日本名。 [やぶちゃん注:この最後の占いは漢籍の中で確かに読んだことがあるように記憶する。 思い出せない。 思い出したら追記する。 「萬葉集」には百三十首以上もの七夕関連の歌が載る。 の「七夕を詠む(一):万葉集を読む」(次へで同(二)が続く)がよい。 「ササガニヒメ」「ササガニ」は「細蟹」「笹蟹」で、蜘蛛の古名である。 小泉八雲は説明が困難だと言っているが、私は織女星ベガが「こと座」の平行四辺形の属星に延ばして捉えるとそれが蜘蛛の巣のように見えるからではないかと秘かに思っている。 織り姫だから、蜘蛛の糸とも縁語関係にあるのでそれだけでも構わぬと思う。 ともかくも、「アラクネ」(ギリシア神話中の女性。 小アジアのリュディアのコロフォンに住んでいたイドモンの娘で、機織りの名手であったが、慢心して女神アテナに腕比べを挑み、女神の面前で神々が人間の女たちと愛欲に耽る情景を美事に織り上げて見せてしまい、怒ったアテナは彼女を、手に持った火で打ち据え、アラクネは首を吊って自殺したが、憐れを催したアテナは、彼女をギリシア語で「アラクネ」と呼ばれる蜘蛛に変えてやったという話)との直接連関を求める必要は、私はない、と考えている。 ] 數年前、美くしい女が一人、出雲の山の中の或る農夫の住家を訪れて、その家の獨り娘に、人の知らぬ機織の技を敎へた話がある。 或る晚その美くしい他國人は、姿を消した。 それで其處の人達は、今まで居たのは天(そら)の織姬樣であつたと知つた。 その農夫の娘は、機織が上手だといふので評判者になつた。 その男は每年、八月中、責重な木材の浮槎[やぶちゃん注:「ふさ」。 普通、「槎」は人工的な筏をさすことが多いが、ここは非常に高級な材質の流木でよかろう。 ]がその住つて居る海岸へ漂うて來るのを觀て、何處にその木が生えるのか知りたいと思つた。 そこで二箇年の航海に要する食料を一艘の船に積んで、その浮槎がいつも流れ來る方向に船を走らせた。 幾月も幾月も、いつも平穩な海を進んで行つて、到頭、不思議な樹木の生えて居る氣持ちのいい海岸へ到著した。 船を繋いで單身その知らぬ陸へと進んで行くと、やがてその水が銀のやうに光つて居る川の岸へ來た。 向う岸に亭が一つあつた。 そして其亭に美くしい女が一人機を織つて居つた。 其女は月光のやうに白くて、あたりに光りを放つて居つた。 やがてのこと眉目美はしい若い百姓が、川の方へ牛を牽いて近寄つて來るのが見えた。 そこでかの男はその若い百娃に、この處と此國との名を聞かせて吳れと賴んだ。 ところがその若人はその問ひを不快に感じたらしく、激しい語調で、『此處の名が知りたいなら、汝(おまへ)が來た處へ歸つて嚴君平(げんくんぺい) 原註二に聞け』と答へた。 そこでこの航海者は、恐ろしくなつて、急いで自分の船に乘つて支那へ歸つた。 歸つてからその嚴君平といふ賢者を探し尋ねて、その冒險を物語つた。 嚴君平は驚いて手を拍つて叫んだ。 『それでは汝(おまへ)だつたのか!……七月の七日に自分はじつと空を見て居ると、牽牛と織女とが出會はうとして居るのが見えた。 仕合せ者だなあ! 汝は天の川へ行つて、織女の顏を見たのだ!……』 原註二 これはその支那名を日本風に讀んだもの。 [やぶちゃん注:以上は晋の西張華(二三二年~三〇〇年:文人政治家。 方城県(河北省)の人。 魏の初めに太常(たいじょう)博士となり、西晋に仕えて呉の討伐に功あり、官は司空に至って壮武郡公に封ぜられたが、「趙王司馬倫の乱」により、一族とともに殺された詩文の才に恵まれ、男女の愛情を歌った華麗な「情詩」五首、「雑詩」三首は特に知られる。 若い頃から、占卜・術数・方士の術などにも精通し、天下の異聞・神仙・古代逸話などを集めて「博物志」全十巻を著した。 但し、現存するものは彼の原著かどうかは疑わしい)「博物志」の巻十の「雑説 下」に載る。 * 舊說云、天河與海通。 近世有人居海濱者、年年八月有浮槎去來不失期。 人有奇志、立飛閣於槎上、多齎糧、乘槎而去。 十餘日中、猶觀星月日辰、自後芒芒忽忽、亦不覺晝夜。 去十餘日、奄至一處、有城郭狀、屋舍甚嚴、遙望宮中多織婦。 見一丈夫牽牛渚次飮之、牽牛人乃驚問曰、「何由至此。 此人具說來意、幷問此是何處。 答曰、「君還至蜀郡、訪嚴君平則知之。 竟不上岸、因還。 如期後至蜀、問君平、曰、「某年月日有客星犯牽牛宿、計年月、正是此人到天河時也。 * 「嚴君平」「漢書」に登場し、成都の市場で占いを生業(なりわい)としていたが、「卜筮(ぼくぜい)は賤しい業ではあるが、人々の役に立つ」と考えて、その商売にことよせて、人の道を説いたという、と平凡社「世界大百科事典」の「占い」に記されている。 著書に「老子指帰」があったが、散逸して残らない。 「客星」(きゃくせい)は、現われたり、消えたりする星のこと。 現代の天文学では新星の現象とされる。 ] 牽牛と織女とが會ふのは、眼のいい人にはどんな人にでも觀られるといふ。 會ふ時はいつも、その二つの星が五通の異つた色で燃えるからである。 タナバタの神へ五色の供物をし、それを賞め讚へての歌を五通り異つた色合の紙に書くのはその爲めである。 が、前にも言つたやうに、二人はいい天氣の時だけ會へるのである。 七日の夜、少しでも雨が降れば、天の川の水嵩が增すので、この戀人はまた全(まる)一年待たなければならぬ。 だから、七夕の夜降る雨をナミダノアメ卽ち『淚の雨』と呼ぶ。 空が七日の夜晴れて居ると、この戀人は幸福である。 その星は嬉しさにピカピカ光つて居るのが見られる。 その時、牽牛星が非常に光つて輝くと、その秋、米の收穫が多い。 織女星がいつもよりも光つて見えると、機織りやあらゆる女の手業の繁昌する時が來る。 舊日本ではこの二人が會ふのは、人間に取つて幸運だと一般に想はれて居た。 伊賀では若い者共が、この戀人二人が會ふ時刻だと思ふ時分に、 七夕や餘り急がば轉ぶべし といふ巫山戲た[やぶちゃん注:「ふざけた」。 ]歌をまた唄ふ。 [やぶちゃん注:これは実際には俚謡ではなく、伊賀上野の人で、芭蕉が若き日に勤仕したこともある藤堂藩藩士であった蕉門の土田杜若(つちだとじゃく ?~享保一四(一七二九)年:名は正祇、通称は小左衛門。 初号は柞良)「猿蓑」の巻之三に(これが彼の初出)、 七夕やあまりいそがばころぶべし 伊賀小年杜若 とある。 因みにこの句は、「古今和歌集」の「卷第十九 雜躰」に藤原兼輔(曾祖父)の一首(一〇一四番)、 七月六日、七夕の心をよみける いつしかとまたぐ心を脛(はぎ)にあげて あまのかはらをけふやわたらむ に基づく戯れ句ではある。 ] 然し出雲の國では、此處は雨のよく降る地方だが、これと反對な信仰が行はれていて、七月の七日に空が晴れると、その後に不幸が起こると考へられて居る。 この信仰の地方的說明は、かの二つの星が出會ふとその合體からして、旱魃や他の禍ひで國を惱ます惡神が多く生れるといふのである。 七夕祭を初めて日本で行つたのは天平勝寶七年(紀元七百五十五年)の七月七日であつた。 恐らく七夕の神の起源は支那に在るといふことが、これを公に崇めるといふことを多くの神社で、いつの世にもしなかつたといふ事實を說明する。 [やぶちゃん注: 底本では、行空けもなしに次の段落が始まるが、 のでここまでで、一区切りとして公開する。 ] 小泉八雲 蟲の硏究 蟻 四・五・六・七 (大谷正信訳) / 蟲の硏究 蟻~了 / 作品集「怪談」~了 [やぶちゃん注:本篇についての詳細は の私の冒頭注を参照されたい。 ] 四 さて、もつと不思議な事實がある。 この間斷無き勞苦の世界は、 處女世界以上の世界である。 尤も時に、雄が其世界に見出されはするけれども、それは特別な時機にだけ現れ、又、勞働者或は勞働と、全然何等の交涉を有つて居らぬのである。 また勞働者の方で雄に話をしようなどと思ふものは一匹も居らぬ。 といふのは、雄は此不思議な世界では、鬪ふことも働くことも等しく出來ない劣等な物で、單に必要な厄介者として、我慢して置いて貰つて居る物だから。 だが、母體に選拔されたものは働かぬ。 そしてそれは夫(をつと)を 受納せざるを得ぬのである。 尤も、勞働者のうちには、單性生殖をすることが出來て、父無し子を生むことが出來る者が居る。 だが、一般の規則として、勞働者はその道德的本能だけが眞に女性である。 非常な慈悲心と忍耐力と、我我が呼んで『母性的』と云ふ先見とを有つて居るのである。 その性は、佛敎の傳說に見る龍女同樣、無くなつて居るのである。 ] 肉食動物卽ち国家の敵を防ぐが爲めに、勞働者は武器を具へて居る。 そしてその上また强大な武力に保護せられて居る。 その軍人は、始め一寸見た時には同一種族のものとは信ぜられぬほどに(少くとも或る社會では)勞働者よりは遙か身體が大きい。 それが守護して居る勞働者よりも百倍も大きな軍人は珍らしく無い。 みな頑强に仕事をやつて行くことは出來る。 が、主として戰鬪をするやう、重い物が曳けるやうにと出來上つて居るからして、その用は塾練よりも、力の要求せられる方面に限られて居る。 [やぶちゃん注:最後の段落は所謂、「兵隊アリ」の記載であるが、総てのアリに兵隊アリが居るわけではなく、兵隊アリと呼ばれても、働きアリと区別できない形態のもの、寧ろ働きアリよりも臆病な印象を受けるもの、担当業務が「兵隊」でないもの等、多種多様である。 によれば(改行を省略した)、『アリの種類によっては、同じ働きアリでも、大きさや形が違う個体が現れることがあります。 特にオオズアリ』(大頭蟻。 膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科フタフシアリ亜科オオズアリ属オオズアリ Pheidole noda)『やオオアリ』(ヤマアリ亜科オオアリ属 Camponotus)『には、頭部も体も大きな兵隊アリが現れる種類があります。 兵隊アリと名前だけ聞くと、敵と戦うためのアリといったイメージがありますが、オオズアリの場合は、兵隊アリは働きアリよりも臆病な感じがします。 実は兵隊アリの本当の役割は、働きアリが集めてきた大きなエサを解体したり、運んだりするなどの力仕事が専門なのです。 中にはコツノアリ』(フタフシアリ亜科カレバラアリ属 Carebara yamatonis)『のように、兵隊アリは一切外へは出ずに、巣に運ばれてきたエサを、そ嚢に貯蔵するだけのアリもいるのです。 このように兵隊アリが現れるアリであっても、兵隊アリが現れるのはコロニーが数十から百匹を超えないと現れることはありません。 これは、働きアリが幼虫に与える量を制限しているためだと言われています。 コロニーの数が少ない時期は、外敵に襲われやすく、最も危険な時期なのです。 このような大変な時期に、成長するのに多くのエサと時間が必要な兵隊アリを育てている余裕などないため、幼虫に与えるエサを少なくして、体の小さな働きアリをたくさん増やす事に専念するのです。 そして、コロニーの数が多くなり、安定してエサが集まるようになると、体の大きな兵隊アリを育て始めるのです。 クロオオアリ』(ヤマアリ亜科オオアリ属オオアリ亜属クロオオアリ Camponotus japonicus)『を飼育した場合、働きアリが100匹以上になったころから兵隊アリが現れます。 また、大きなコロニーであっても兵隊アリの割合は決まっていて、種類にもよりますが、全体の5~10%ほどが兵隊アリになるようです。 生まれた卵が、働きアリか兵隊アリのどちらになるのかは、子育てをする働きアリによって決められてしまうのです。 そして、コロニーがさらに成長して、ようやく新女王が育てられるのです』とある。 ] 〔何が故に、雄で無くて、雌が進化の上に於て軍人及び勞働者に分化したのだらうかといふことは、思ふほど簡單な問題では無いかも知れぬ。 これに答へることは確かに自分は出來ない。 だが、自然的經濟が此事件を決定したのかも知れぬ。 多くの生物體を見るに、雌の方が圖體に於ても精力に於ても、大いに雄に優つて居る。 思ふに、此蟻の場合に於て、完全な雌が元もと所有して居た生活力の より大なる貯藏が、或る特殊の戰鬪階級を發達進化せしむるのに、より迅速に且つ有利に利用され得るからであらう。 そしてそれ等は女王のやうな待遇を受けて居る。 彼等は何んの願望も滅多に云ひ出し得ない程までに絕え間無しに且つ恭しくかしづかれて居る。 日も夜もあらんかぎりの世話を受けて居る。 彼等だけがあり餘る程に美の供給を受ける。 後裔の爲めに彼等は全く王樣のやうに飮食し、また休息せねばならぬのである。 そしてその生理的分化は、それに心任せに耽り得られるやうにして居る。 滅多に外出をしない。 有力な護衞が隨行しなければ決して外出しない。 不必要な疲勞や危險を招くことを許容されぬからである。 多分、外出したい希望も大して無からう。 彼等の周圍には種族全體の大活動が目まぐるしい程行はれて居る。 そしてその慧智も勞苦も儉約も悉く皆、この母とその子供の安寧に向けられて居るのである。 前に道べた通り、或る特別な季節だけに現れ、且つ其生涯は甚だ短かい。 或るものは、高貴な方に結婚する運命を有つては居るが、尊い家に生れた身だと誇ることさへ出來ない。

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よいの使い方、ほかの品詞の結びつき|日本語コロケーション辞典

市川いっかさつがい 犯人

「犬がうらやましい。 ああ、なぜ人間なぞに生れたろう」 冗戯 ( じょうだん )にも、人間仲間で、こんなことばを聞くことが近年では、めずらしくもなくなった。 笑えるうちは、まだよかったが、この頃ではそんな 冗戯 ( じょうだん )が出ても、笑う者もなくなった。 「何しろ、 怪 ( け )ッ 態 ( たい )な世の中になったものです。 お犬様には、分るでしょうが、人間どもには何が何だか、わけが分りませんな」 これは、庶民とよぶ人間の群の、一致していうことばだったが、人々のあたまの中は、言葉どおりに、一致してはいなかった。 こういう時代の特徴として、各 の思想も、人生観も、三人よれば、三人。 十人よれば、十人 十色 ( といろ )にちがっていた。 世にたいする考えも、自分というものの生かし方も、皆、まちまちで、ばらばらで、しかも表面だけは妙に、浮わついた風俗と 華奢 ( かしゃ )を競い、人間すべてが満足しきッてでもいるような 妖 ( あや )しい享楽色と 放縦 ( ほうじゅう )な社会をつくり出していた。 夏の夜である。 蛍狩 ( ほたるが )りでもあるまいに、淀橋上水堀の道もないあたりを、狐にでも 化 ( ば )かされたような三人男が歩いていた。 「おいおい、 大亀 ( おおがめ )。 待てやい。 待ってやれよ」 「どうしたい。 阿能十 ( あのじゅう )」 「 味噌久 ( みそきゅう )のやつが、 田 ( た )ン 圃 ( ぼ )へ落ちてしまやがった。 まっ暗で、引っ張り上げてやろうにも、見当がつかねえ」 「よくドジばかりふむ男だ。 味噌久はかまわねえが、背負わせておいた御馳走は、まさか田ン圃へ 撒 ( ま )いてしまやアしめえな」 べつな声が、闇の中で、 「ええ、ひでえことをいう。 ふたりとも身軽なくせに。 すこし荷物を代ってくれやい」 と、田の 畦 ( くろ )を、這い上がっているようだった。 大亀と阿能十は、おかしさやら、暗さやら、わけもなく笑いあって、 「まあ、そういうなよ。 目ざす中野はもうすぐだ。 辛抱しろ、辛抱しろ」 「だが、着物の裾をしぼらねえことにゃあ、どうにも、 脛 ( すね )にベタついてあるけもしねえ」 「阿能。 泣きベソがまた泣いていら。 そこらで一ぷくやるとするか」 小高い雑木林の丘に、男たちは腰をおろした。 三人とも、 二十歳 ( はたち )から三十前。 ふたりは、浪人風であり、ひとりは町人。 そしてその味噌久だけが、何やら臭気のつよい包み物を首に背負っていた。 真夜中、街道もあるのに、わざわざこんな闇を、この変な荷物をたずさえ、一体どこから来て、どこへ行くのか。 どう人間を信じたらいいのか。 どう世の中を考えていいのか。 また、どう自分を生かしてゆくのが真実なのか。 元禄の当代人には、厳密にいって、たれにも分っていないらしい。 それを明らかにしてよく生命を 愛 ( いと )しんでいる人間などは、 寥々 ( りょうりょう )たる星のごときものであろう。 ことに、若い者には、刹那的な享楽をぬすむほかは、なんの方向があるでもなく、希望もなかった。 いまよりはまだ健康な世代といわれる寛永から万治までの世を知っていないかれらには、前期との比較がないので、 慨嘆 ( がいたん )もなく、煩悶もせず、 易々 ( やすやす )と、自堕落な世に同調してゆけるのもある。 「こう、阿能十、あれ見ねえ。 こんな 御府外 ( ごふがい )からでも、堺町の夜空がぼうっと赤く見える」 「ほんに、今ごろは、芝居小屋も 蔭間 ( かげま )茶屋も、灯の色に染まっている頃だろうて」 「よせやい阿能。 アアいけねえ、ここらは虫の声ばかり、女の顔をおもい出すと、今夜の先が急に 恐 ( こわ )くなってきた」 「兄貴らしくもねえことを。 ……なあ、味噌久」 「そうだとも。 そっちが 弱音 ( よわね )をふいたひにゃ、この久助なざ、なおのこと、ここらでお別れと願いたくなッちまう」 「ばかをいえ」 阿能十は、ここぞと強がった。 あばた顔の大亀が、この仲間では、年かさで、体つきも頑丈だが、小柄ながら阿能十には、武家息子らしい 風骨 ( ふうこつ )と 敏捷 ( びんしょう )さがある。 「今夜のことは、おれの 発議 ( ほつぎ )だ。 まちがっても、大亀にもてめえにも、ヘマを喰わせてすむものか。 おれがいる。 さあ行こうぜ」 阿能十は、 頬被 ( ほおかぶ )りを 解 ( と )いて、ぽんと払って、顔に 被 ( かぶ )り直しながら、長い刀に 反 ( そ )りを打たせて立ち上がった。 色街でもない真ッくら闇を、いつもの癖で、阿能がイヤに気取って歩くのをうしろから見て笑いながら、あばたの大亀も、のそのそと味噌久を中に挟んで歩き出した。 だん畠の傾斜地を下り、谷をわたって、向うがわの丘へ上がる。 そして雑木林の細道を半里ほども行くと、いんいんとして犬の遠吠えが聞えてきた。 一頭や二頭ではない。 何百、何千ともしれない群犬の声である。 それが 谺 ( こだま )して、一瞬この世の声ともおもえぬ 凄味 ( すごみ )に夜をつつんだ。 「お、あれだ、お犬小屋は」 「ちがった人間の 臭 ( にお )いがしてくると思ってか。 もう吠えたてていやがる。 気をつけろよ」 遠吠えは、まもなくやみ、三人はまた道をさぐった。 林を 出端 ( ではず )れると、高い板囲いにつき当った。 夜目にはただ長い長い塀の線が果てなく闇を縫っているとしか見えない。 世に聞えた中野の原のお犬小屋というのがこれらしい。 「しッ。 もどろう。 そっちへ行くと、番所の明りがさしている」 「いや、犬になって行け。 犬になって」 「ど、どうするんだ。 犬になれとは」 「こうよ。 こうやって……」 と、阿能は、四ツん這いになって、 柵門 ( さくもん )の 際 ( きわ )を、先に通ってみせた。 大亀も、味噌久も、それに 倣 ( なら )って、通り越し、番所の灯をふりむいて、声なく笑いあった。 目的にかかり出した。 味噌久に背負わせて来た風呂敷には、犬どもの食欲をそそるにちがいない魚肉の 揚団子 ( あげだんご )が大きな 魚籠 ( びく )にいっぱい入っていた。 味噌久を踏み台にして、阿能十が板囲いの内をのぞく。 そして大亀の手から揚団子をうけ取っては、つぶてのように中の広場へそれを撒いてあるくという段取だ。 「阿能さん、もう品切れだぜ」 「なくなったか。 どこかそこらの木の上で」 と、あたりの 喬木 ( きょうぼく )を見まわした。 「ここらが、手頃」 と、阿能十は、高い赤松の梢をめがけて、もうよじ登っていた。 大亀も、隣の大木へ登りかけたが、ふと、味噌久のうろうろ姿を見て、 「おい、久の字。 ここらで帰るがいいぜ。 あしたの 午 ( ひる )まえにゃ、いつもの所へ、阿能とふたり、 空 ( すき )ッ腹で行くから、お 袖 ( そで )にいって、 美味 ( うま )いもので、飯のしたくをさせといてくんな」 するすると、彼の影は、もう木の上の 梟 ( ふくろ )だった。 ここまでのつきあいが、精いッぱいの辛抱だった味噌久は、大亀にそういわれると、元気づいて、 「ほい、心得た。 じゃあ、お袖のうちで、待ちあわせているぜ」 彼のすがたも、夜鳥に似て、江戸府内の方へいちもくさんに消え去った。 夏のみじか夜とはいうが、梟のまねして、木の上にとまっているふたりには、それからの空がひどく長い気がした。 「阿能。 寒いようだなあ」 「ウム。 洒落 ( しゃれ )た涼みだ」 「寝られるかい。 少 ( ち )ッたあ」 「寝たら落ッこちるだろうと思ってよ」 「おれたち、人間の先祖は、穴に住む以前は、木の上に寝たんだそうだ。 寝られねえわけはねえが」 「それで読めた。 いまの地上では、お犬様をはじめ、畜生どもが、人間以上にあつかわれ、おれたち人間は、木の上で寝る。 これやあ、大昔に返っただけのことだ」 「ははは。 そうかもしれねえ」 この暗天の笑い声も、もし聞く者があったら、異様な感にうたれたろう。 しかし、これも世が人にさせてる一つの 業 ( わざ )にはちがいなかった。 いわゆる元禄若衆姿というものは、風俗画的に見れば優雅にして 艶 ( えん )なるものだが、社会史的に見れば、時の不良青少年の 競 ( きそ )った 伊達 ( だて )にほかならない。 何しろいまは不良が多い。 というよりは、天下不良に満つである。 柳営 ( りゅうえい )の大奥にすら、不良少女不良老女がたくさんにいる事実を江戸の人々は知っている。 ときの将軍家、五代綱吉。 この人の不良も庶民は知りぬいている。 いま、閣老随一の きけ者といわれ、同じ老中の酒井、阿部、大久保、土屋などをも、意のまま操縦しているという柳沢 吉保 ( よしやす )なども、側用人の小身から、破格に成り上がった不良の大なるものだという。 慨嘆の聞かれる時代は、まだ多少健康な時代といいうる。 それを聞くには、 時人 ( じじん )はもう余りにも現世的な快楽主義に 惑酔 ( わくすい )し、成りゆき主義に馴れすぎていた。 「まだまだ島原の孤城に、十字架旗をたてて、天下の軍勢をひきうけるのがいたり、由井正雪とか丸橋みたいな男が出て、成らないまでも、徳川に 叛骨 ( はんこつ )を示してみるような 輩 ( やから )がいた時代は、世の中が、何かを求めて、人間の自堕落を、ゆるさぬとしていたのじゃよ。 腐るものに、腐らぬ作用をしていたのじゃ。 上も下も男も女も、 狎 ( な )れあって、みじかい命のあるかぎり、この世を畜生道にたたき込みおる。 悪政家には、わが世の春じゃろう」 悪政のうちでも、新貨幣への切り換えと、生類 御憐愍 ( おんあわれ )みという二法令ほど、急激に世を悪くし、時人を苦しめたものはない。 さしもの幕府の 庫 ( くら )の金塊も、放漫な経理と、将軍綱吉や、その生母 桂昌院 ( けいしょういん )の湯水のごとき浪費とで、近年は 涸渇 ( こかつ )に 瀕 ( ひん )してきたのである。 そこで、通用中の古金銀を、すべて禁止し、一たん民間から回収して、金には銀を加え、銀には 錫 ( すず )を混ぜて、新貨幣を発行すれば、手つかずに、天下の通宝が、幕府の手にあつまる。 柳沢、荻原らが、その間に、私腹をこやし、新貨幣の威力をもって、さらに悪政閥を活溌にしたのはいうまでもない。 悪貨の増発は、物価をハネあげる。 物価の狂騰はまた貨幣の 濫発 ( らんぱつ )をやむなくする。 それにたいし、幕府は追っかけ追っかけ節約令や禁止令をもって、庶民生活を抑圧した。 その日は、 綺羅 ( きら )盛装の諸侯も 相伴 ( しょうばん )の列に伍し、 蜿蜒 ( えんえん )の遊楽行は、忙しい都人の往来を遮断した。 吉保は、一門一族をあげてこれを迎え、歓楽つきて、秘室、 伽羅 ( きゃら )を 焚 ( た )きこめた 屏裡 ( へいり )には、自分の妻妾でも、家中のみめよき処女でも、綱吉の 伽 ( とぎ )に供するのを否まなかったとさえいわれる。 しかし彼女には、そこの 御能 ( おのう )見物や、美酒美女よりも、護国寺詣りのほうが、はるかに興味があったらしい。 虚栄と、迷信と、綱吉にたいする盲愛ほど、彼女をとらえるものはなかった。 なべて、彼女は盲情家だった。 綱吉を盲愛し、吉保を 盲寵 ( もうちょう )し、また、護持院 隆光 ( りゅうこう )を盲信した。 護持院の七堂 伽藍 ( がらん )は、彼女が黄金にあかせて、 寄進 ( きしん )したものである。 その 普請中 ( ふしんちゅう )、 不念入 ( ふねんいり )というかどで、最初の奉行、 棟梁 ( とうりょう )、 小普請 ( こぶしん )方など、幾人もの者が、遠島に罪せられたほどやかましい 建立 ( こんりゅう )であった。 そのときまだ一側用人だった吉保が、次の奉行となって、お気に入ったのが、彼の今日ある立身の 緒 ( ちょ )であった。 それにみても、かれと隆光と桂昌院との、大奥における 女謁 ( にょえつ )政治が、以後、どんなかたちで育ち、三人のみの秘密が愛されてきたかがわかる。 以後、この法律は、綱吉の死ぬまで、足かけ二十三年間解かれなかった。 人間が畜類の下におかれた受難期である。 いま、元禄十四年は、その発令から十年めにあたっていたが、まだ人間は、その法に、馴れきれなかった。 「いったい、蚊をいぶしたり、たたいたりは、どうなるんだい?」 「きまってら。 いぶしたやつは、松葉いぶし。 たたいたやつは、百叩きよ」 「じゃあ、 蚤 ( のみ )もつぶせねえの」 「そうさ。 へたに 蛍 ( ほたる )やきりぎりすなんぞ飼うと、永牢だろうよ」 江戸の庶民は、法の重圧や、疾苦を、こんな 冗戯 ( じょうだん )や 洒落 ( しゃれ )でまぎらす 術 ( すべ )のみ知って、「なぜ人間が」とは考えなかった。 そして、落首や 戯 ( ざ )れ絵で小さな反逆の中に遊びながら、犬を、犬と呼び捨てにせず、「お犬さま」と敬称するのを忘れなかった。 幕府も、お犬さまは、諸生類の最上級において、禁令条項のうちでも、特別に犬は重視した。 将軍綱吉が、 戌年 ( いぬどし )生れだったからである。 また、綱吉の若年の名は、 右馬頭 ( うまのかみ )といっていたし、 館林 ( たてばやし )侯から出て、将軍家を継いだ天和二年も、戌の年だった。 こんなつまらぬ暗合も、護持院隆光にとっては、大いに用うべき偶然事だった。 かれの献策は、まず迷信家の桂昌院を信じさせ、桂昌院は将軍を 説 ( と )いて、ついに法令化となったのである。 時の人、 太宰春台 ( だざいしゅんだい )は、その著「三王外記」のうちに、 這般 ( しゃはん )の事情を、こう書いている。 僧隆光、進言シテ云フ、人ノ 嗣 ( し )ニ乏シキ者、ミナ生前多ク殺生ノ 報 ( ムク )イナリ。 王(将軍のこと)マコト嗣ヲ欲セバ、ナンゾ殺生ヲ禁ゼザル。 且、王ハ 丙戌 ( ヒノエイヌ )ヲ以テ生ル。 戌ハ犬ニ属ス、最モ犬ヲ愛スルニ宜シト。 王コレヲ然リトス。 太后 ( タイコウ )(桂昌院)マタ隆光ニ 帰依 ( キエ )深シ、共ニコレヲ説ク。 王イハク諾。 スナハチ殺生ノ禁ヲ立テ、即日、 愛狗犬 ( アイクケン )令ヲ、 都鄙 ( トヒ )ニ下ダス。 法令は、人間どもを、驚かせた。 いや、まごつかせた。 しかも、徹底的に厳行され、 寸毫 ( すんごう )も、 仮借 ( かしゃく )されなかった。 違犯第一にあげられたのは、その年の春さき、 持筒頭 ( もちづつがしら )の水野藤右衛門の配下が、門に集まった 鳩 ( はと )を 礫 ( つぶて )で落したという 科 ( とが )を問われ、藤右衛門は免職、与力同心はみな 蟄居 ( ちっきょ )させられた。 同じ年の二月、 御膳番 ( ごぜんばん )の天野五郎太夫は、遠島になった。 これは本丸の御膳井戸へ猫が落ちて死んだのを問われたのである。 また、夏の初めごろ。 秋田淡路守の下屋敷の軽輩が、吹矢で 燕 ( つばめ )を射たことが発覚し、しかも、将軍家の 御忌辰 ( ごきしん )に、法令を犯したとあって、夫婦ふたりとも、斬罪に処せられた。 あとで沙汰にされた噂によると、この軽輩の士には、まだ幼い 愛娘 ( まなむすめ )があり、その娘の重病に、燕の黒焼をあたえればよいと人にきかされて、親心からつい禁を犯し、この酷刑をうけたものということだったので、聞くひとはみな悪法を呪い同情のなみだを禁じ得なかった。 これらの例は、法令が出たばかりの僅々四、五ヵ月のうちに起ったことで、その一年だけでも、江戸市中や諸国であげられた違犯者の数は何千人かわからない。 法令は、年ごとに、 微 ( び )に入り 細 ( さい )に入って、小やかましい箇条を加え、 鷹匠 ( たかじょう )、鳥見組の同心は、ことごとく御犬奉行や犬目付へ転職になり、市中には、犬医者のかんばんが急にふえた。 石を投げた子供が、自身番へ しょッ引かれて、その親が、犬目付の告発にあい、手錠、所払いになるような小事件は、一町内にも、毎日あった。 日常、牛馬をつかう稼業の者からは、特に多くの違犯者があげられた。 牛馬に鞭を振ったとか、病馬を捨てたとかいうだけの理由で、死罪、遠島になった者も少なくない。 犬がうらやましい。 疾苦 ( しっく )の民は、心からいった。 死罪、遠島、重追放などの、家を失った数々の人間の子は、必然、浮浪者のなかまに入り、また、良家の子弟ではあっても、世のばからしさ、 あほらしさから、犬になりたい仲間も 殖 ( ふ )え、両々 相俟 ( あいま )って、 糜爛 ( びらん )した 時粧 ( じしょう )風俗とともに、天下不良化の観をつくった。 中野の原のお犬小屋をうかがい、 揚団子 ( あげだんご )を 撒 ( ま )いて、木の上に夜を明かしていた大亀や阿能十なども、いずれは、こうした時代の子にはちがいない。 お犬小屋は、大久保、四谷、その他、府外数ヵ所にあったが、中野が最も規模が大きかった。 犬は仔を産むし、多産だし、しかも十数年来、太鼓の製皮も禁ぜられてきた程なので、その繁殖率は、たいへんなものになっている。 世上の違犯数も、当然、それに準じて増すばかりなので、さすがの幕府も、犬目付も、法の厳励を期すには、いまや悲鳴をあげないでいられない。 このため、勘定奉行の荻原近江守は、八州の代官に 下知 ( げじ )して、 高 ( たか )百石について一石ずつの 犬扶持 ( いぬぶち )を課し、江戸の町民へは、一町ごとに、 玄米 ( くろごめ )五斗六升の割で、徴発を令した。 だから中野より規模が狭かった大久保小屋の消費高でも、犬に喰わせる一日料の米、三百三十石、味噌十樽、 鰯 ( いわし )十俵、 薪 ( まき )五十六 束 ( そく )という記録がある。 その大久保の所用地面積は、二万五千坪で、中野は十六万坪もあったというから、ここでの犬の消費料は知るべきである。 家なき人間の子は、 市井 ( しせい )にも山野にもみちているが、もし一頭の犬でも病んだらものものしい。 犬医者ト申スハ、御用医者ニテ、 典薬 ( テンヤク )ノゴトク、六人肩ニシテ、若党、草履取、薬箱持チ、召シツレテ来ル。 脈ヲ見、薬ヲ処方シテ帰ル。 マタ 御徒士目付 ( オカチメツケ )、 御小人 ( オコビト )目付、二日オキニ御検分ナリ。 カヤウノ事故、町方モ、ソレニ準ジ、物入リオビタダシケレド、モシ犬ヲ痛メバ、牢ヘマヰル者、縁類ニモ一町内ニモ及ビ、何百人トイフコトヲ知ラズ。 通リスガリニモ、ワント云ヘバ、身ノ毛モヨダチ、食ヒ付カレテモ、叱ルコトナラズ、逃グルホカハナカリケリ。 科人 ( トガニン )、毎日五十人、三十人ヅツアリ、打首ニナルモアリ、血マブレナル首ヲ俵ヘ入レ、三十荷モ持チ出シテ、 大坑 ( オホアナ )ヘ打捨テタリトモ聞エタリ。 悪政にたいする世間沙汰をあげたら限りがない。 意気もない。 (ひとつ、お犬小屋を、ひッくり返すような目にあわせて、 犬公方 ( いぬくぼう )や犬役人どもに、泡をふかせてやろうじゃねえか) と、いうのが、今夜の目的であり、そこらが精いッぱいの義憤だった。 かれの父、阿能静山は、 朱子 ( しゅし )学派の一 儒者 ( じゅしゃ )だったが、あるとき聖堂の石段で、いきなりワンと噛みついてきた赤犬を、意識的にか、思わずか、蹴とばしたので、家に帰るやいな、 捕手 ( とりて )を迎えぬうちに、切腹してしまった。 息子の十蔵は、出先で 捕 ( つか )まり、遠島送りになったが、途中、夜に乗じて、遠島船から海へとびこみ、江戸へ舞いもどって以来、自暴自棄な野性の生活力を 逞 ( たくましゅ )うしている男だった。 親は深川の味噌問屋だったが、古金銀の 隠匿 ( いんとく )で 闕所 ( けっしょ )になり、浮浪の仲間入りしている味噌久を、口のかたい男と見て、鼠捕り薬を入れた 揚団子 ( あげだんご )を背負わせ、人目につかぬ道まで苦労して、はるばるその決行に来たのだった。 ……チチ。 大亀、大亀」 「なんだい、阿能」 「見や。 うッすら、東の方が、明るくなりかけて来たぜ」 「明けたか。 おれはとろりと、寝ていたらしい」 「いい度胸だの。 ……あっ、おい。 出て来た、出て来た」 「えっ、何が」 「何がって、犬の群れがよ」 「おお……。 ふふん、来る来る」 樹上のふたりは、一望に見える囲い内へ、そこから眼をこらしていた。 十六万坪の原には、数多い犬舎も、点々と、朝霧の海の小舟みたいでしかない。 驚くべき犬の大群は、朝の運動に 堰 ( せき )を切ッて流れ出し、やがて 戯 ( たわむ )れ狂いながら、朝霧の土を 嗅 ( か )ぎまわりつつ散らかった。 「あっ、食った。 大亀、見ろ、見ろ」 「 叱 ( し )ッ」 「あ。 ほんとだ。 食ってる。 食ってる」 「阿能、静かにしろよ。 あんまり伸びあがると、おめえの松の木がゆさゆさ揺れて、遠くからでも 気 ( け )どられるぞ」 かれらが夜のうちに撒いた揚団子は、あっちでもこっちでも、犬どもの 嗅覚 ( きゅうかく )に争われ、むさぼり合う闘争の吠え声がつんざいた。 そのうちに、けんッ! と異様な啼き声とともに、二、三頭がくるくると狂い廻って、あらぬ方角へ、矢のようにすッ飛んで行ったかと思うと、バタ、バタとつづいて 仆 ( たお )れた。 「やっ。 やっ?」 犬同心も、何か、絶叫し出した。 「阿能っ。 胸がすうとした。 もうことばを 交 ( か )わしてなどいる暇はない。 どこをどう駈けたかもわからない。 大亀は、 練馬 ( ねりま )へ出てしまっていた。 久しい殺生禁断で、 河岸 ( かし )すじの稼業はあがったりである。 魚鳥の禁令は、犬ほどではないが、川魚までが、美味なのはたいがい禁制項目に入っている。 漁師、漁具屋、釣舟屋など、みな商売にならない。 が、裏には裏があり、闇舟屋も闇漁師もいるらしい。 屋敷すじへもそっと入るし、料亭はみな 精進 ( しょうじん )を看板にしているが、すずき、鯛、ひらめなどの鮮魚を欠かせる家はない。 で、京橋尻の河岸ぞいなどは、一時はさびれ果てたものだが、近頃では、また、たそがれれば裏の 川面 ( かわも )へ、かぼそい 灯 ( あかり )のもる家もぼつぼつふえていた。 「久助さんてば、嘘ばかりおいいだね。 ふたりとも、影も形も見せやしないじゃないか」 お袖は、 行燈 ( あんどん )へ灯を入れながら、ふと、朝からそこにおいてある 蝿除 ( はえよ )けをかけたままの膳を見て、味噌久へ、舌打ちしていった。 味噌久は、三ツになるお袖の子のお 燕 ( えん )をあいてに遊び相手になりながら、物干し台で川風にふかれていた。 「ほんとに、どうしたんだろう。 もう、日が暮れるっていうに」 ゆうべ別れた大亀と阿能のあれからを想像して、味噌久はふと夕雲に、不安な眼をあげた。 「さ、お燕ちゃん、お 行水 ( ぎょうずい )を浴びようね。 いいお子だから。 ……ネ。 おしろいつけてきれいきれいに、お化粧しましょ」 お袖は、子どもを抱きに来た。 そして台所の軒下に、雨戸を横にして囲った 盥 ( たらい )の湯へ、自分も帯を解いて白い肌をかくした。 夕闇にこぼれる、湯の音にまぎらして、 「オオ、きれいにおなりだこと。 こんなよいお子になったのに、お燕ちゃんのお父さまは、なぜこんな可愛いお顔を見に来ないんでしょ、お燕ちゃんも、お父さんに会いたかろうにね」 聞く人もなしと思ってか、若い母親は、無心なこと神のような肉塊をあいてに、心のうちのものを、 戯 ( たわむ )れのようにいいぬいていた。 物干しのてすりに暮れ沈んでいた味噌久は、小耳にはさんで、身につまされ、 「……むりもねえ。 そうだろうなあ」 と、口のうちで呟いた。 「十七で、あの子を産んで、あの子がいま三ツ、お袖さんは、まだ十九歳。 もしや、ゆうべの二人は、やり損なって、捕まったのではないかとおもい、じっとしていられなくなった。 「オヤ、久助さん、どこへ出て行くのさ」 「ちょっと、見て来ようと思って」 「行水が 空 ( あ )いたよ。 ざっと、ひと浴びはいらない?」 「それどころじゃねえ」 久助が出て行ったので、彼女は夕化粧をし、お燕の額にも、 天花粉 ( あせしらず )をたたいてやっていた。 そのとき、門口で、コツコツと、杖の音がした。 お父さん、お帰んなさい」 「帰ったよ。 暑かったのう、きょうも」 導引 ( どういん )の 梅賀 ( ばいが )は、 頭巾 ( ずきん )をとって、お袖にわたした。 六十にはとどくまいが、年のわりに、頑健な骨ぐみをしている。 「お袖さん。 ちょっと、もういちど耳を」 小声だが、あわただしげに、外から戻って来た味噌久が、土間の暗がりに、身をすくめてさし招いていた。 「なにさ。 顔いろを変えて」 「なんとなく、気になるので、その辺まで、ちょっと出てみたら、いやもう町はえらい騒ぎなんで」 「なにがさ。 あのふたりのことかい」 「やったらしいんで。 ……もう町じゃ、その噂やら 落首 ( らくしゅ )やらで、あっちでもこっちでも、近頃にない気味のいいことだ、やったのは、町奴か、旗本か。 イヤ、ふだん空威張りばかりしている奴らにそんな気のきいたまねができるもんか、これは 天狗業 ( てんぐわざ )だろうなんて、町の衆は溜飲をさげてみんなその話で、持ちッきりに 沸 ( わ )いているのさ」 「そうだろうね」と、お袖も、ニコと笑った。 「じゃあ、この春殿中で、浅野様が吉良上野介を 刃傷 ( にんじょう )したときのような騒ぎかえ」 「まさか、それほどでもありませんがね。 しかし、腹ん中じゃ、あの時よりも、こん夜のほうが、誰でも胸をスウとさせていましょうよ。 そのせいか、町はどこの番所も、犬目付や町奉行の手が総出で、往来を睨んでいるし、川口はどこの川筋も、夜明けまで、船止めだといっている。 ……だが、そんなに手配が廻っては、あの人たちも当分、ここへは寄りつけまい」 「梅賀さんにも、耳打ちしておいておくんなさい。 じゃあ、そのうちまた」 いちど飛び出したが、味噌久は、また、あたふた戻って来て、 「お袖さんお袖さん。 なんだか町調べの役人や手先が、こん夜は、川筋の軒並みを洗ってあるいているそうだ。 気をつけねえといけないぜ」 早口に注意して、どこともなく、 宵闇 ( よいやみ )のうちへ掻き消えた。 導引の梅賀は、湯から上がった体を拭き、浴衣、 渋団扇 ( しぶうちわ )のすがたになって、 「お袖、阿能と大亀が、とうとう馬鹿を、やったらしいな」 「いまのを、聞いていたんですか」 「なあに、客先の茶屋で療治をしているうちにもう、噂は聞いていたのよ」 「 捕 ( つか )まったら、獄門でしょうね」 「 油煎 ( あぶらい )りになるかもしれねえ。 金にもならねえことを。 粋狂なやつらだ。 今どきの若いやつらは、お犬様にかぶれて、生ませッ放しをあたり前にしていやがる」 「ま。 そんな、ひどいこといわないでも」 「ふ、ふ、ふ。 ……お袖。 こんなに薄情にされても、てめえはまだ市十郎を待っている気なのかい」 「だって、しようがありませんもの。 あちらはやかましいお屋敷の部屋住みという御身分だし」 「笑わせやがる。 市十郎は養子だぜ。 きまった家つきの娘もある」 「でも、わたしとは子を 生 ( な )した仲。 わたしに誓って下すったことばもあります。 五年でも、十年でも……」 「待つというのかい。 おそれ入った 貞女 ( ていじょ )だなあ」 「大亀さんとは、 従兄 ( いとこ )同士、きっと今に、連れて来てやる、会わせてやるともいってくれていますから」 「そいつあ、当てになるまいよ。 なるほど、大亀と市十郎とは、親戚かもしれねえが、身寄りはおろか、どこへだって、拙者は以前大岡亀次郎と申した者でござるとは、名乗って歩けねえ日蔭者だ。 ……といやあ、お袖もおれも、同じ日蔭の人間だが」 畳に落ちた涙の音が、ふと耳を打ったので、梅賀も、 箸 ( はし )と悪たれを 措 ( お )いてしまった。 ふたりの話しぶりも、どこかほんとの親子らしくない水くささがあった。 これは近所でも感づいているが、養女と聞いているだけで、深い事情を知っている者はない。 お袖のまことの父は、秋田淡路守の家来で、わずか五十石暮らしの軽輩だった。 お袖がまだ五ツの年、大病して、医者にも見離された折、その病の薬には、燕がよく奇効を奏すと人から教えられ、吹矢で燕を射たことが発覚し、あいにくその日が、将軍家の 忌辰 ( きしん )にもあたっていたので、夫婦ともに、斬罪という憂き目にあった人だった。 縁につながる身寄りもみな、それぞれ罪に問われて、世を去り、離散して果てたが、お袖はかえって人の手に病も 癒 ( い )え、その代り、身は転々と 世路 ( せろ )のつらさを 舐 ( な )めて、早くから水茶屋の茶汲み女に売られたりした。 かの女は、恋を知った。 その頃、よく水茶屋へ通って来た、若い武家息子たちのうちの一人に。 赤坂辺にやしきのある大岡市十郎と名も初めてのときから覚えた。 その市十郎を連れて来たのは、従兄の大岡亀次郎で、亀次郎の方が、二つ三つ年上でもあり 遊蕩 ( ゆうとう )も先輩だった。 (とり持ってやる) と、亀次郎が、あの夜ついに、導引の梅賀の家を借りて、灯もない一間へ、若い 男女 ( ふたり )を置き放しにして帰ってしまった。 梅賀は、おもて向きは、 按摩 ( あんま )療治をしているが、実は、したたかな悪党で、世間の信用を利用して、ここかしこの穴を見つけ、悪い仲間にゆすらせたり、泥棒の 上前 ( うわまえ )をハネたりしているような男だった。 が、老賊の老巧で、やりたい 贅沢 ( ぜいたく )は、年に何度か、伊勢詣りの、 検校 ( けんぎょう )の試験に 上洛 ( のぼ )るのだと称して、上方へ行って散財し、江戸では、導引暮らしの分を守り、決して 尻 ( し )ッ 尾 ( ぽ )をあらわさない。 しかしその家は、 自 ( おのず )と、悪い仲間の巣になって、不良の若いのが、彼を頭目のようにしてよく集まった。 亀次郎は、 疾 ( と )くからここの仲間であり、若い命を、女、酒、ばくち、悪事の火遊びにすり 減 ( へ )らしていた。 従弟の市十郎も、うかと、ひッぱりこまれたのである。 気がついたときはもうおそい。 お袖とはできていたし、養子の身なので、養家にたいし、それは怖ろしい弱点であった。 悔いは、かれの良心をさいなんだが、お袖との 逢引 ( あいびき )は、苦しむほど、悪を伴なって 偸 ( ぬす )むほど、楽しさ、甘さを、深くした。 市十郎も、嘘をおぼえ、悪智をしぼり、教養を 麻痺 ( まひ )せしめ、あらゆる 惑溺 ( わくでき )を、急速にして行った。 極道 ( ごくどう )にかけては、ずっと先輩の亀次郎にも舌を巻かせて、かれはお袖との恋一つ抱いて一気に 堕落 ( だらく )のどん底まで行ってしまうかとさえおもわれた。 ところが、幸か不幸か、大岡市十郎がお袖と知りそめた翌年、一族の亀次郎の家庭に、兇事が起った。 いや、同姓の大岡十一家に、みな難のかかって来た事件だった。 それは、亀次郎の父、大岡五郎左衛門 忠英 ( ただひで )が 番頭 ( ばんがしら )の 高力 ( こうりき )伊予守を、その自邸で政治上の争論から打果したのである。 五郎左衛門も、その場で、伊予守の家来に、斬り殺されてしまったが、 不埒 ( ふらち )とあって、家名は断絶を命ぜられた。 親戚の他の大岡十家も、みな 閉門 ( へいもん ) 謹慎 ( きんしん )の 厄 ( やく )に会った。 市十郎の養家、大岡忠右衛門の家も、まぬがれなかった。 家族みなが、共にかたい禁足である。 どんな恋も、この厳戒の眼と、この 鉄扉 ( てっぴ )は破り得なかった。 かれの素質は反省にかえる一面をもっていた。 幽居 ( ゆうきょ )の日を、読書に没し、禅に参入し、若いいのちを、自らたたき 醒 ( さ )ますにつれ、ひとりとめどなく涙した。 かれら骨肉は重追放となり、召使の田舎を頼るやら、遠国のうすい縁者をあてになどして散らかったが、亀次郎はすぐ江戸へ舞いもどった。 もちろん、容貌をすっかり変えて。 かれのあばたは、 灸 ( きゅう )や薬で、自ら焼いてこしらえた作りあばたなのである。 「市十郎さま。 お 薄茶 ( うす )など一ぷくおたていたしましょうか」 家つきのお 縫 ( ぬい )は、きりょうこそ 美 ( よ )くはないが、明るくて純な、そして教養もよく身についている 処女 ( おとめ )だった。 ふたりは、ふたりが 許嫁 ( いいなずけ )であることを、もうもちろん知っている。 お縫は 二十歳 ( はたち )。 市十郎はすでに二十六歳。 「茶ですか。 さあ、よしましょう」 市十郎は、読書からちょっと眼をはなしたが、体は机から向きを変えず、お縫には、すぐ去って欲しいような顔に見えた。 が、彼女は、市十郎が十歳のときから、共にひとつ家に暮らしているので、恋人同士のあいだに触れあうような、細かい神経の 奏 ( かな )では、その性格からも感じなかった。 「おつかれでしょう、そんなに、御本ばかり読んでいらっしって」 「いいんです。 抛 ( ほ )っといて下さい。 秋の晩は、燈下書に親しむとき。 夜が 更 ( ふ )けるのを知りません」 「お父上も、お母様も、市十郎は、まるで変った。 閉門の事などから、どうかしたのではないかなどと……陰で心配していらっしゃいますよ」 「出かければ、出かけるで、やかましいし」 「ほんとにね。 でも、三、四年前は、いくら何でも、あんまりでした。 毎晩のように、夜遊びにばかり出ていらしって」 「…………」 うるさげな彼の顔いろにもかまわず、お縫はひとりで話しかけていた。 「いちどなんか、夜明け近くに、塀をこえて、お帰りになったことなんかあったでしょ」 「縫どの。 市十郎には、感興がない。 きらいではないが、好きでもない。 かれは常に、今でも、その中に潜入していないと、自分の心が、なおどこか危うげでならない。 三年前の閉門は、まこと、自分の危うい青春のわかれ道を、一歩前で救ってくれた事だったとおもう。 古人の書に、素直に 訊 ( き )こう。 子どもになって、大人の体験に 訓 ( おし )えられよう。 要は、生命の問題だ。 人と生れたという意義を、どう 享 ( う )けるべきか。 人間の世。 おもしろいと 観 ( み )るべきか。 憂 ( う )しと観るべきか。 また、くだらぬ 泡沫 ( うたかた )と観るべきか。 「……おや?」 かれは、ふと、 庭面 ( にわも )の秋草へ、ひとみをこらした。 はたと、虫の 音 ( ね )が一ときにやんだからである。 「おい。 ……市の字。 おぼえているかい。 おれを」 袖垣 ( そでがき )のあたりの 萩叢 ( はぎむら )を割って、ぬうッと、誰やら 頬被 ( ほおかむ )りをした男の影が、中腰に立ち、こなたの書院の明りに、顔をさらして見せた。 「た、たれだ、そちは? ……」 息をつめて、 凝視 ( ぎょうし )したが、分らなかった。 「わかるめえ。 わからねえはずだよ、 於市 ( おいち )。 四年ぶりだもの。 ああ、なつかしいなあ、この部屋も」 蟇 ( ひき )のように、のそのそと近づいて、 沓石 ( くつぬぎ )へ腰をすえ、かぶっている布を 脱 ( と )ると、縁に 肱 ( ひじ )をつきこんで、ヘラヘラ笑った。 あばた顔だが、その笑い癖は、市十郎の遠くない記憶を、ギクとよび醒ました。 悪友仲間のきずなほど、宿命的なものはない。 兄弟のきずな、主従のきずなは、なお断ちえても、悪い仲間の籍を抜けて、正しきへ返ろうとする道はむずかしい。 かれらの、仲間心理にいわせれば、 (ナニ、真人間へ。 それやア誰だって、考えねえ馬鹿はあるもんか。 だがいまさら、てめえひとりで、いい子になろうったって、そうはゆかねえ。 虫がよすぎらあな) そういうにちがいないのである。 「ふん、勉強か、於市。 ……ええ、おい。 いやに学者ぶッて、なにを読んでるんだい」 と、亀次郎は、縁がわから 身伸 ( みの )びして、市十郎の 倚 ( よ )っている机の上をのぞきこみ、 「なアんだ、論語か。 いまさら、論語でもあるめえに、 子曰 ( シノタマワ )クなんて寝言をおさらいして、どうする気だい。 自体、 孔子 ( こうし )なんて野郎は、正直者を食いものにする大嘘つきの いかさま師だ。 何より証拠は、世の中を見ろ。 「孔子だの、 釈迦 ( しゃか )だの、 法然 ( ほうねん )だの、どいつもみんな、鹿爪らしい嘘ッ八の問屋じゃねえか。 そのまた受売り屋の講釈を 真 ( ま )にうけて、したいこともせず、窮屈に、一生を棒に振ッちまった 阿呆 ( あほう )がどれほど多いかを、おれなんざ、身に沁みて、知ってるんだ。 正しい政治が立つとか立たぬとかいって、高力伊予守を斬り、自分も殺され、家は断絶、おれという息子にまで、こんな日蔭の一生をのこして死んでしまやがった。 ……し、しずかにしてくれ」 たまりかねて、市十郎は、 哀訴 ( あいそ )の手を振りながら、眼で、奥の部屋をさした。 亀次郎の大亀も、首をすくめて、ペロと、舌のさきを見せ、 「まだ、起きてるのか。 ……奥は」 「寝たが、もし、 養父 ( ちち )が目をさまして来たら、ふたりともただではすまぬ」 「おらあ、いいよ。 気をつかうのもむりはねえ。 しずかにしよう」 「亀次。 いったい、あれから、どうしていたのか」 「長いはなしは、あとでする。 とにかく市の字。 匿 ( かくま )ってくれ、今夜から」 「え? ここへか」 「ほんの当座だ。 二十日もたてば、十手風もきっと 緩 ( ゆる )むとおれは見ている。 どこか、そこらの、押入住居で我慢しよう。 ……たのむぜ、当分、おれのからだを」 かれは、のそのそ上がって来た。 そして書斎のすみの戸棚をあけ、もうわが 住 ( す )み 家 ( か )と、そこへ、尻の方からもぐりこんだ。 大岡家の紋は、 稲穂 ( いなほ )の輪だった。 家祖 ( かそ )が、稲荷の信仰者で、それに 因 ( ちな )んだものという。 そのせいか、赤坂のやしきの地内には、昔から豊川稲荷を 勧請 ( かんじょう )してあった。 秋も末頃となり、木々の落葉がふるい落ちると、小さな 祠 ( ほこら )が、小高い雑木の丘に、 透 ( す )いて見える。 丘の西裏から、一すじ、ほそい道がついていた。 これは、聞きつたえた町の信心家が、いつとはなく踏みならしたお詣りの通い路で、地境の柵のやぶれも、やしきでは、 塞 ( ふさ )ぐことなく、自然の 腐朽 ( ふきゅう )にまかせてある。 「……まあ。 いい気もちそうに、寝てしまって」 稲荷の祠と、背なか合せに、 木洩 ( こも )れ 陽 ( び )を浴び、落葉をしいて、乳ぶさのうちに寝入った子を、 俯 ( ふ )しのぞいている若い母があった。 そっと、乳くびをもぎ離すと、乳のみ子の本能は、かえって、痛いほど吸いついて、音さえたてた。 「……もう、いや、いや。 そんなに」 若すぎる母は、身もだえした。 からだじゅうの異様なうずきが、そのあとを、うッとりさせて、官能のなやましさと、こころに 潜 ( ひそ )む男心への恨みとが、 眸 ( ひとみ )に、ひとつ火となっていた。 「お袖さん。 ……たんと、待ったかい」 ひょっこり、そこへ味噌久がのぼって来た。 きょうは、本屋の手代となりすましていた。 蔦屋 ( つたや )と染め抜いた 書 ( ほん )の包みを、背からおろして、お袖のそばに坐りこんだ。 「見附辺から、くさい奴が、あとを 尾 ( つ )けてくる気がしたので、道を廻って、遅くなったのさ。 やれやれ、逢い曳きのおとりもちも、楽じゃあねえて」 「あんまり待ったので、もう帰ろうかしらと、おもってたところさ」 「ウソ。 嘘いってらあ、お袖さんは。 やり損なったら、あぶないものだ」 「臆病だね、久助さんは」 「その久助に、手をあわせて、後生、たのむ、一生恩にきるからと、あんなに泣いて、かき 口説 ( くど )いたのは、誰だッけ」 「そんなこと、いいからさ」 打つ真似して、追いたてると、久助はやっと腰をあげ、ひと風呂敷の和本を、肩から脇にかかえ、 「じゃあ、ここを 去 ( い )なずに、待っておいでなさいよ。 うまくゆけば、おたのしみだ」 「おねがい……」 お袖は、拝むようにいって、味噌久を見送った。 もとの道からそこを下りて行ったかれは、丘のすそを巡って、やがて大岡家の表門のある赤坂筋の広い通りを歩いていた。 大岡家は、十一家もあり、ここの忠右衛門 忠真 ( ただざね )は、本家格ではないが、お 徒士頭 ( かちがしら )、お先鉄砲組頭、駿府 定番 ( じょうばん )などを歴任し、いまは、閑役にあるといえ、やしきは大きなものだった。 男子がないので、同族の弥右衛門忠高の家から、七男の市十郎(幼名は 求馬 ( もとめ ))を、十歳のとき、もらいうけた。 むすめのお縫にめあわせて、家督をつがせるつもりなのは、いうまでもない。 ところが、養子の市十郎も、年ごろになるにつれ、近頃の若い者の風潮にもれず、おもしろくない素行が見えだした。 で、お縫との結婚を、こころに急いでいるうちに、同族五郎左衛門 忠英 ( ただひで )の刃傷事件で、一門の 蟄居 ( ちっきょ )がつづき、それが解かれた今日でも、なお、公儀への 拝謁 ( はいえつ )を 憚 ( はばか )っている関係から、ふたりの婚儀ものびのびになっていた。 むしろかの女は、雨を待つ春さきの桜のように、 綻 ( ほころ )びたさを、 姿態 ( しな )にも胸にも秘しながら、毎日、午すこし過ぎると、江戸千家へ茶の稽古に、なにがし 検校 ( けんぎょう )のもとへは琴の稽古に、欠かすことなく通っていた。 きょうも。 お縫は、門を出て、 薬研坂 ( やげんざか )の方へ、降りかけてきた。 と、道の木蔭にたたずんでいた味噌久が、 「あ。 お嬢さま。 ……大岡様の御息女さまでいらっしゃいましたな。 どうも、よいところで」 前へまわって、頭を下げた。 「まいど、ごひいきになりまして」 「たれなの。 そなたは」 「 石町 ( こくちょう )の 蔦屋 ( つたや )という 書肆 ( ほんや )でございまする。 おやしきの若旦那さまには、たびたび、御用命をいただいては、よく……」 「お目にかかっているというの」 「はい、はい。 今日も、実はその、かねがねお探しの 稀本 ( きほん )が、売物に出ましたので、お目にかけに、出ましたのですが」 「おかしいこと。 おまえ」 「ええ、それやアもう、お 馴染 ( なじ )み顔。 お会いいたせば、一も二もございませんが……。 こう仰っしゃっていただけば、なお、すぐにお分りでございましょう。 そして、蔦屋へ書物など註文したおぼえもないということです。 おまえ、どこぞのお客さまと、やしき違いしているのじゃありませんか」 いい捨てると、かの女は、おもわぬ暇つぶしを取りもどすべく急ぐように、 薬研坂 ( やげんざか )を小走りに下りて行った。 忠右衛門 忠真 ( ただざね )は、親類じゅうでの、 律義者 ( りちぎもの )で通っていた。 元禄の世の、この変りようにも変らない、典型的な旧態人であった。 が、その忠右衛門も、子のためには、意志を曲げて、きょうは、老中の秋元但馬守の私邸を訪うて来たとかいって、 気 ( け )だるげに、夕方、帰っていた。 多分、あてにして、まちがいあるまい。 ……権門へ頭をさげて通うくらい気のわるい思いはない。 やれやれ、さむらいにも、 世辞 ( せじ )やら 世故 ( せこ )やら、世渡りの 要 ( い )る世になったの」 風呂を出て、 夕餉 ( ゆうげ )の膳にむかいながら、かれは、述懐をまぜて、きょうの出先の結果を、常におなじおもいの、老妻に告げていた。 ききめのあることは、分っているが、かれの気性が、ゆるさないのである。 (おぬしも、浅野 内匠頭 ( たくみのかみ )じゃよ。 いまの世間を知らな過ぎる) 親戚でも、その愚をわらう者が多かった。 秋元但馬守は、去年、老中の欠員に補せられたばかりで、この人へなら近づいても、自分に恥じないような気がした。 そこで、思いきって、出かけたのである。 結果はよかった。 近いうちに、拝謁の機会をつくってやろう、そしてその後に、婚儀のおゆるし願いを出したがよかろう、といってくれた。 では 年暮 ( くれ )のうちに、何かと、支度しておいて」 と、日数をかぞえたり、若夫婦のために、奥の書斎と古い一棟を、 大工 ( だいく )でも入れて、すこし手入れもせねばなどといいはじめた。 夕食のしらせに、お縫も来て、むつまじい膳の一方に加わった。 けれど、お縫には、食事のたびに、近ごろ、物足らないおもいがあった。 十日ほど前から、市十郎が、朝夕とも、食事を、奥の書斎に運ばせて、家族のなかに、顔を見せないことだった。 「どうなすッたんでしょう、市十郎さまは。 ……ねえ、お 母 ( か )あ様。 呼んで来ましょうか。 たまには、御一緒におあがりなさいッて」 「いや。 気ままにさせておけ」 忠右衛門は、顔を振った。 「夜も昼も、読書に没頭しておる様子。 多少、 気鬱 ( きうつ )もあろうが、若い頃には、わしにも覚えがある。 抛 ( ほ )ッとけ、抛ッとけ」 「でもお父さま。 たまに私がのぞいても、とても恐い顔なさるんでございますの」 「よいではないか。 市十郎も、知らぬというので、あんなにニベなく断ってやったのに、夕方、帰宅して召使にきくと、押しづよく、あれからまたもやって来て、「お嬢様にも今そこでお目にかかりまして……」とか何とかいって、小間使いを通じて、とうとう市十郎の書斎に通り、何か、だいぶ話して帰ったというのである。 市十郎にきくと、市十郎は、「会わぬ」と首を振ッたきり、きょうは特に気色がよくない。 こんな時には、琴でもと、部屋にもどって、昼、習った曲をさらいかけたが、それも心に染まず、 絃 ( いと )に触れると、わけもなく泣きたくなった。 窓の外にも、冬ちかい 時雨雲 ( しぐれぐも )が、月の秋の終りを、落葉の梢に 傷 ( いた )んでいる宵だった。 かの女は、燭の下に、琴を残して、庭へ降りた。 この屋敷ができない前からあったという古い池がある。 茂るにまかせた秋草が水辺を 蔽 ( おお )い、その向うに、灯が見える。 かの女は、池をめぐって、知らず知らずその灯の方へ足を向けていたが、ふと、薄月夜のひろい闇いッぱいに、耳をすまして、立ちどまっていた。 「オヤ。 幼な児の泣き声がする……? どこであろ。 たしかに、小さい子が泣いているような?」 それは、遠くして、遠くないような。 夜風に絶え、また夜風に聞こえ、 哀々 ( あいあい )として、この世に持った闇の生命に、泣きつかれたような泣き声だった。 日の短い晩秋といえ、もう昼からのことである。 木々の露もうす寒い宵ともなるのに、丘の稲荷の 祠 ( ほこら )には、まだ子を抱いた若い母が、身うごきもせず、草の中にうずくまっていた。 「どうしたのよ、お袖さん。 ……さ、帰ろう。 帰って、またいつか、出直したらいいじゃねえか。 ……ねえ、おい。 お袖さんたら」 味噌久は、そばに立って、しきりと、なだめたり、 促 ( うなが )したりしているが、お袖は、泣きぬく膝の子と共に、声なく泣いて、立とうともせず、返辞もしない。 泣きベソの久助と、日頃、仲間からいわれている味噌久の方が、今夜はよッぽど、泣きたかった。 「よう、お袖さん。 いい加減にもう、おれを困らせないでくれやい。 きょうは、ありッたけな智恵をしぼって、市の字に、会うことは会ったんだが、どうしても、ここへ出て来ねえんだから仕方がねえ。 いくら、おれが 説 ( と )いても、お袖さんの心をいってみても、奴は、じっと眼をつぶっているだけなんだ。 ……が、もともと、三千石の御養子なんぞに、おまえが、かまわれたのが、悪縁さ」 「なにさッ。 怒ったのかい」 「あたりまえ……」 と、お袖は、泣く子の顔へ顔を伏せて、泣きじゃくった。 「お、おまえなんか……久助さんなんか、知ったことじゃあるものか。 わたしと、市十郎さまとの仲は、そ、そんな水くさいんじゃありませんよ」 「あれ。 まだあんなことをいってらあ。 ……じゃあ、罪だから、いッそ、はっきりいってしまうが、市十郎は、きょうこの久助に、こういったんだぜ」 「あのひとが」 「うむ。 おれにいうのさ。 ふたりの仲に 生 ( な )した子は、どうか、よそへやって、お袖も、他によい男をもってくれ。 市十郎さまが、そんなことを」 「だからもうお袖さんも、あんなやつのことは、思いきって、ここはきれいに、帰るがましだとおらあ思うがネ」 「ほ、ほんとかえ。 久助さん。 市十郎さまが、おまえに、いったということは」 かの女は、にわかに身を起した。 立ちよろめくのを久助があわてて抱き支えると、お袖は、久助の手へ、子を抱かせて、ひとり、よろよろと歩みはじめた。 「あっ、お袖さんっ。 ……どこへゆく。 どこへ?」 追いすがる味噌久へ、 「うるさいね。 もう、おまえなどに、頼んでいられるものじゃない。 自分で、自分の男に会いにゆくのがなぜ悪い。 市十郎さまの心をはッきりときかないうちは、私は死んでも帰らないよ。 あいては、 大身 ( たいしん )の武家やしき」 「その御大身ぶりが、癪にさわる。 御大身なら 女子 ( おなご )をだましてもよいものか」 それはもう久助にいっているのではない。 かの女は、 彼方 ( かなた )の灯にむかって叫んでいた。 この丘から地続きの広い庭園の木の間がくれに、その灯は、冷ややかにまたたいている。 葛 ( くず )、くま笹、萩すすきなど、 絡 ( から )むもの、 阻 ( はば )めるものを、踏みしだいて、かの女は、盲目的に、駈け下りて行こうとした。 けれど、何を見たのか、ギクとして、お袖は急に足をすくめてしまった。 そして傍らの 榛 ( はん )の木の下へ、よろめくように身を 凭 ( もた )せた。 ふと、お袖の見たあいての女性も、 祠 ( ほこら )の横の大きな木の幹に、半ば、すがたを隠して、じっと、射るような眼をしているのであった。 「?」 両女 ( ふたり )は、息をつめて、 黙 ( もだ )しきった。 眸と眸とは、 曼珠沙華 ( まんじゅしゃげ )のように、燃えあった。 「そなたは、どこの、誰ですか。 それはお縫であった。 水と火だった。 お袖は、下町ことばの、つよい響きと、竹を割るような感情で、反撥した。 「大きなお世話、どこへ行こうと、わたしの勝手でしょ」 「そうは、ゆきませぬ」 「なぜさ」 「ここは、お庭外でも、大岡家の 地内 ( じない )です。 ひとのやしきへ、たれに断って」 「市十郎さんに訊くがいい。 市十郎さんのいる所へなら、庭はおろかお部屋へも、わたしは上がって行きますよ。 行ッて悪いわけはないんだから」 「いけない! わたくしが、そんなこと、ゆるしませぬ」 「ゆるすもゆるさないも、ありやしない。 自分の 良人 ( おっと )に、女房のわたしが会いにゆくのに」 「な、なんですッて」 お縫はもう口惜しさに、いい返してやることばも出ない。 「そちらは、家つきのお嬢様か何か知らないが、わたしと市十郎さんとは、可愛い子まで 生 ( な )した仲。 誰であろうと」 「行っては、いけないっ。 用人の 嘉平 ( かへい )という老人。 また若党、 仲間 ( ちゅうげん )たちは、お縫の部屋に、お縫が見えないのに騒ぎ出して、こっちへ向って駈けていた。 屈強な若党のひとりが、それと一足違いに登って来て、いきなり、 「この女め」 と、お袖を 捉 ( とら )えて叩き伏せた。 泣き狂い、泣きさけぶのを、わけも 糺 ( ただ )さず、二つ三つ、 足蹴 ( あしげ )をくれて、 悶絶 ( もんぜつ )させた。 お縫もそこに、泣き伏している。 この 態 ( てい )に、嘉平はしばらく、狐にツマまれたような顔をしたが、若党仲間たちへ、何事かささやいて、かれはお縫ひとりへ、あらゆる 宥 ( いたわ )りをかけた。 そしてお縫は泣く泣く嘉平に伴われ、やしきの方へもどって行った。 その後。 若党と、仲間たちは、気を失ったままのお袖を、粗末な駕籠に押しこんで、丘の裏から夜の町へ担ぎ出した。 何かの 弾 ( はず )みに、駕籠のうちで、ふと、息をふき返したお袖が、くやしげな嗚咽をもらすと、 「よしっ、この辺で」 とたんに、仲間たちは、並木の暗がりへ、駕籠ぐるみ、かの女のからだを 抛 ( ほう )り捨てて、あとも見ずに駈けて返った。 その夜じゅう……。 また、次の日も。 大岡家は、家じゅうが、重くるしい苦悩の沼に沈んでいた。 十日余りも同じ日がつづいた。 ゆうべからの 時雨 ( しぐれ )雲に、きょうは、ひねもす寒々と、雨音に暮れていたが、家の中は、もの音一つしなかった。 折々ふと、奥から洩れてくる声は、忠右衛門の 憤 ( いきどお )ろしい 唸 ( うめ )きに似た声か、さもなくば、かれの妻か、お縫かの、すすり泣く声だけだった。 「おい。 ……おい。 ……市の字」 市十郎の書斎には、机の前の、市十郎以外に人は見えなかったが、どこかで、こう低い低い小声がしていた。 「とうとうばれたな。 どうする気だい」 隅の戸棚の内側から、その戸の裏を、爪でコツコツ叩きながら、外へむかって囁くのである。 「おたがい、足もとの明るいうちに、逃げ出そうぜ。 なあ市の字。 世間はひろいよ。 しかも、こんな狭ッこくて面白くもねえ世間とはちがう。 おれも、二十日はここに辛抱してと思ったが、おめえの尻が割れて来ちゃあ、いたくもいられなくなった。 ……お袖の身になってみれやあ、こう出てきたのもむりはねえ」 もちろんそれは市十郎に話しかけているのだが、市十郎は、机へ 倚 ( よ )り、両手で頭をかかえたきり、返辞もしなければ、ふり向きもしない、背中で聞いているだけである。 眼は、書物へ落していても、もとより市十郎の心は、どこにあるやら、乱れに乱れ、生きているそらもないにちがいない。 夜来、家族も、召使も、かれの部屋を、覗きもしなかった。 が、一切はかれにも分っていた。 かれは、自ら作った牢獄の中に、自ら最大な 苦刑 ( くけい )にかかっていた。 「おれも悪かったのさ」 返辞はなくても、戸棚の中の小声は外の雨のように、独りぽそぽそと話しかけてやまなかった。 「お袖には、前々から、おめえに会わせてくれ、連れて来てくれと、おれもどんなに、せがまれたかしれなかった。 ところが、この間も話したようなお犬小屋一件からは、こッちの身一つも、危くなり、梅賀の家へも寄りつかねえので、女心の やきもちから、お人よしの久助をくどいて、とうとうやッて来ちまったにちげえねえ」 戸棚の声がとぎれると、雨の音が、耳につく。 雨は、日暮れに近づくほど、いとど 蕭条 ( しょうじょう )のわびしさを加えていた。 「……なあ、 於市 ( おいち )、おめえは、あんなに実意のある女を、かわいそうと思わねえのか。 子どもなんざ、ままになれだが、ああまで 情 ( じょう )の深い女はめずらしい。 不憫 ( ふびん )とも、 可憐 ( いじら )しいとも、いいようのねえやつサ。 お袖が、うんというならば、おれがおめえになり代ってやりてえくらいなもんだ。 ……ええ、おい。 何とかいえやい」 焦 ( じ )れッたそうに、またコツコツと、 啄木鳥 ( きつつき )のような音をさせ、 「あと、十日も経てば、お犬小屋の一件の 詮議 ( せんぎ )も、きっと 緩 ( ゆる )むにちげえねえと、おれには考えられる筋があるんだが、もう、ここにはあと一日といられまい。 おめえも、元の古巣へ一緒に帰れよ。 あそこの巣には、お袖もいるぜ、梅賀もいるぜ、阿能十もやがてどこからか現われて来るだろう。 もとの仲間と、またおもしろく、仕たいことをして、遊ぼうじゃねえか」 「しッ……しっ」 市十郎は、うしろ向きのまま、机の下で手を振った。 「おるか」 男の声だ。 ふすまの音あらく、入って来たのは、忠右衛門とおもいのほか、市十郎にとっては、その養父より恐い実家の兄の大岡 主殿 ( とのも )だった。 坐るか坐らぬ、うちにである。 主殿はやにわに、机の上の書物をひッ 奪 ( た )くッて、 「えい、おのれが。 なんの為に、こんなものを読みおって」 と、障子へ向って、 抛 ( ほう )り捨てた。 「弟っ。 これっ、 面 ( つら )を見せい、その面を」 主殿は、昂奮している。 その眼からは、市十郎の沈黙が、いかにも冷然たる姿に見え、主殿の激越な心の波を、いやが上にも 昂 ( たか )めるのだった。 「 忠右 ( ちゅうえ )どのからのお使いに、何事かと来てみれば、あきれ返った仔細。 いやもう、言語道断。 ……わ、わしは、御夫婦へも、お縫どのへも余りのことに、いつまでも、この面を上げ得なんだわいっ」 畳を打って、膝を、つめ寄せながら、 「家祖、 忠教 ( ただのり )、忠政様このかた、まだかつて、おのれのような無恥、 腑抜 ( ふぬ )け、不所存者は、ひとりも出したことのない家だ。 どうして、貴様のような極道者が、大岡家の血から出たことやらと、この兄は、無念でならぬ。 ……が、いかに大たわけでも、よもやなお恋々と、水茶屋の 売女 ( ばいた )風情に、心を奪われておるわけではあるまい」 声を 嚥 ( の )み……声を落して……。 「さ、そこじゃ。 そこのところは、この兄も、刀にかけておちかいする。 ……さ、察してもくれやい、弟。 そう申すしか、この兄の立場があろうか。 たとえここに、亡きお父上が御存命でおわそうともじゃ」 市十郎は、首を垂れ、 潸 ( さん )として、涙の流るるにまかせたまま、両手をかたく膝についていた。 「のう、弟。 真実また、貴様の心もそうであろ。 ……ここに両三年、閉門以後の 慎 ( つつし )みと勉学ぶりは、兄もひそかに、よろこんでいたことだ。 ……もう、多くはいうまい。 三年前のたまたまの一過失、 咎 ( とが )めもすまい。 ……ただ、兄に一札書いて預けてくれい。 まかせろ、おれにまかしておけ。 たとえ伝来の家宝を売っても、女に手切れの金をつかわし、子どもの始末もつけてやる」 「そ、それがです、兄上」 「なんとした。 まだ、未練か」 「未練は、ございませぬが……女が、承知してくれませぬ」 「ばか者っ」と、一 喝 ( かつ )して、 「だから書けというのじゃ、あいそづかしの切れ状を。 もし、わからぬことを、 女々 ( めめ )しゅう申して、 埒 ( らち )があかねば、最後の手もある」 「最後の手……と、仰っしゃるのは」 「貴様の一生には代えられぬ。 ひいては、おととし、叔父五郎左衛門の不首尾にかさねて、またも、公儀の耳にまずい噂が聞えては、大岡十家の 安危 ( あんき )にもかかわろう。 ……女ひとりの生命くらいは」 「げッ。 ……手にかけてもと、おいいですか」 「何をおどろく。 さてはなお、未練をもつか」 「ふ、ふびんです、兄上。 罪はまったく、この市十郎にあるのですから」 「いいや、貴様は、女を知らんのだ。 なんで、水茶屋の女などが」 「そ、それが、お袖ばかりは、ありふれた世間の女とは」 「どうちがう」 「気だても……」 いいかける弟へ、主殿は、いきなり手をのばして、その襟もとをひッつかみ、 「うぬ、のめのめと、まだ眼がさめぬか」 と、満身の力で小突いた。 肉親への、愛情の怒りには、どんな他人の仇に怒るよりも、烈しい本能が加わるのだった。 まッ青になった市十郎の顔は、 死首 ( しにくび )のように、ガクガクうごいた。 閉じている眼から涙のすじを描き、兄の力に、何の抵抗もしなかった。 「切れ状を、書くか書かぬか。 さ、いえっ。 いわぬか」 「……書きます」 「なに、書くと」 「け、けれど、兄上。 おねがいです。 万一 彼女 ( あれ )が、切れぬといっても、刀にものをいわすような、罪なまねはよして下さい。 決して、そんなことはなさらないと、私へも、兄上から一札書いてお渡しください」 「そんな、ばかな約束を、貴様に与えられるか。 忠右どのや、お縫どのにたいしても」 「では……嫌です」 「なにっ。 嫌だ?」 「お袖がほんとに 倖 ( しあわ )せになるのでなければ、切れ状は書けません。 因 ( もと )はといえば、罪はまったく、この市十郎にあることで、水茶屋奉公はしていましたが、それまでの、お袖は、真白い絹のような 処女 ( おとめ )だったのですから」 「この、大たわけ!」 離した手は、あっというまに、市十郎の横顔を、ぴしゃッと打った。 顔をかかえて、 仆 ( たお )れた弟へ、主殿の手は、追うように、またその襟くびをつかんで押した。 怒りにまかせて、市十郎の顔を、畳へごしごしこすりつけた。 「養家のてまえもあるに、よくもよくも、そのようなことがいえたものだ。 この体を、たれのものと思いおるか。 さむらいの家に生れながら、祖先にたいし、御公儀にたいし、身のほどもわきまえぬ奴。 こ、この、生れぞこないめが!」 撲られている弟よりも、 拳 ( こぶし )をかためて、 打擲 ( ちょうちゃく )している兄のほうが、果ては、泣き顔を 皺 ( しわ )め、ぽろぽろ涙をながし、疲れきった血相となっていた。 「こう撲るのは、おれではないぞ。 貴様ごとき馬鹿者を、おれには、撲るまでの大きな愛は持てぬわい。 おれの身をかりて、貴様を打ったのは、亡き父上だ。 父上とおもえ、この拳を」 と、突ッ放して、 「もう一ぺん、考えろっ。 ようく心を落着けて、考えてみい」 主殿は、いいすてて、室外へ、立ち去った。 廊下の外へ、用人の嘉平が来て、大岡兵九郎が来た旨を告げたからである。 兵九郎というのは、やはり大岡十家の一軒で、市十郎兄弟の叔父にあたり、市十郎の養子縁組は、この兵九郎の口ききだった。 日が暮れた。 ……雨はやまない。 たれも彼の部屋へ、燭を運ばなかった。 夜ごとの 燈火 ( ともし )も、彼自身で 点 ( とも )すのが、この書斎の習慣であったから。 机のまわりも、かれの心も、墨のような夕闇が深まってゆく。 「すみませぬっ。 ……兄上。 亡き父上。 ……また養家の御両親さまにも」 かれは、独りして、手をつかえた。 鬢 ( びん )の毛が、みな泣いているように、そそけ立って見えた。 ただ、お縫どのに、この上の 傷 ( いた )みをかけずに、ゆく末、きょうを忘れて、よい人妻となるように、祈って 逝 ( ゆ )かれるのが、唯一のお詫びです。 ……おゆるしください」 むくと、かれは 面 ( おもて )を上げた。 そして静かに、短刀の鞘を払った。 かれの 面 ( おもて )はすでに死に澄んでいた。 死んで詫びようと決意したのだった。 「あッ。 あぶねえ。 「行こう! 死ぬくれえなら、町へ飛び出そう。 どッちみち、おれも、今夜がおさらばだ。 いちど、短刀を取り落した市十郎の手には、従兄のそういう力に、抗し得ない魅力をおぼえた。 その力にまかせて行けば、そこには、お袖がいるのだ。 気まま仕たいままな、享楽の灯があるし、苦悩を知らない 泡沫 ( ほうまつ )のような悪の仲間がおもしろそうにウヨウヨしている。 「おっ、たれか来るっ。 早くしろ」 「兄だっ。 ああ、兄上……」 「ええ、もう。 何を、ベソ掻いて、うろうろするんだ。 おれの腕に、つかまって来い。 「ややっ。 待てッ弟。 すかさず、かれも直ちに雨の中へ飛び降り、ふたりの影の行くてに廻って立ちふさがった。 「主殿、ぬかるな。 ひとりじゃないぞ」 兵九郎も、ばッと降りて、一方へ槍をつけた。 叔父の声に応じて、主殿も、刀へ手をかけ、雨に 咽 ( むせ )びつついった。 「オオ、何やつか知らぬが、弟を 拉 ( らっ )して、どこへ行こうとするか、 解 ( げ )せぬ曲者。 名を名のれっ。 大亀は、自分たちの住む世界とくらべて、いまのふたりの意気ごみ方が、おかしくて 堪 ( たま )らなくなったのだった。 かれは、白い歯をむき、肩を揺すッて、なお独り笑った。 「おいおい、叔父貴たち、あんまり騒がない方がお身のためだぜ。 いや、こんだあそんなお沙汰じゃすむまい。 おれにつながる身寄りの奴らは、三軒や四ん軒はぶッ潰れるぞ。 わははは」 「身寄りの? ……。 と申すそちは」 「知りたいか。 知って、腰をぬかすなよ。 同族五郎左衛門のせがれ、亀次郎だ」 「げえッ。 か、かめ次郎じゃと」 「聞かない方がよかったろう。 だが、なにもヘボ親類へ あだしたり、同族どもの細扶持を喰って歩こうなんて 肚 ( はら )ではねえから安心してもらいたい。 ちょッと、 悪戯 ( わるさ )をやったお犬小屋一件が 祟 ( たた )ッて、ここ百日は足もとが危ねえので、実あ、市の字の部屋を隠れ家に、十日ほど、戸棚住居を辛抱していたまでのことなんだ」 かれは、市十郎の腕を、いよいよ強く脇の下へ抱きこんで、 「なあ、市の字」 と、すぐ側の顔を見た。 市十郎の手は、無意識に、またも自分の腰の 刀 ( もの )をさぐりかけていた。 雨は、彼ひとりを、無残に打ちたたくように降った。 「いけねえよ、いけねえよ。 死のうなんて、ケチな量見。 このおれを、見るがいいや」 傲然 ( ごうぜん )と、かれの生命は市十郎の生命を誘った。 「ううむ……世をおそれぬ、不敵なやつ。 親類でも手にかけて、そのそッ首を公儀にさし出さねば」 兵九郎の槍が、殺意を示し、こう憎み、罵ると、 「よせやい、叔父貴。 おれを殺して、 各 ( めいめい )が、お家の無事を計ろうとしても、おれにはおれの仲間がある。 そいつらが、きっとしゃべるぜ。 中野お犬小屋の犬を、一夜に何十匹も殺した天下の 悪戯者 ( いたずらもの )は、大岡十家が、知っていながら 匿 ( かくま )いおいた同族五郎左衛門のせがれ亀次郎だと」 そのとき、ふッと、忠右衛門が、手燭の明りをふき消した。 風かのようであったが、次のことばによっても、忠右衛門が意識的に、消したにちがいなかった。 「行け。 行くがいい。 ……もう止めぬ。 ふたりとも、迷うだけ迷って来い。 若いのだ。 「おれには、ないっ。 だから広い 巷 ( ちまた )であばれてやるのだ」 「いいや、ある。 忠右衛門の手もとへ来い」 「そして、縄付きにして、公儀へのいいわけに突き出すか」 「そんなことをするほどなら、ここを去らせず、汝の首ぐらいは、ひん抜いてみせられぬことはない。 老いたりといえ、忠右衛門だぞ。 そちにもいっておく。 帰りとうなったらいつでも帰れよ。 帰ってくれよ。 ……さあ行け。 あまり 更 ( ふ )けぬうちに」 と、自身、戸ぶくろから雨戸を繰り出し、一枚一枚、敷居のうえを送り出しながらまたいった。 「さあさあ。 兵九郎どのも、主殿どのも、風呂場へまわって、浴衣に 更 ( か )えて来たがいい。 一杯 酌 ( く )もう。 「お目ざめ?」 と、女は、 寝唾 ( ねつば )に乾いた 唇 ( くち )をすりよせていう。 その口臭、 安 ( やす ) 鬢 ( びん )ツケのにおい、白粉剥げの下から見える 粗 ( あら )い皮膚。 市十郎は、女の呼吸から、 面 ( おもて )を 外 ( そ )らさずにいられない。 夜具の襟には、自分でないべつな男のにおいすら、あきらかにする。 「ううウむ……」 と、かれは伸びをして、何か堪えきれぬ心のものを誤魔化しながら、 むくと、起きかけると、 「ま。 ……なぜだろ、この人は」 と、女は寝たまま、 双手 ( もろて )を彼の首すじへからませ、いきなり下へ抱き 仆 ( たお )した。 すると、蒲団の横に立ててある小 屏風 ( びょうぶ )の上から、連れの亀次郎が、ぬウと首をのばして、 「おや、お隣りは?」 「あら、覗いちゃいけないよ。 それでなくても、この坊やは……」 と、女はその恰好のまま、ことさら、市十郎の首のねを、ぎゅうぎゅう、息づまるほど抱きしめて、 「 初心 ( うぶ )ッていうのか、臆病なのか、それともわたしが嫌いなのか、ゆうべから、わたしを振ッて。 ……これこのとおり、このひとは、縮まってばかりいて」 「どれどれ。 どんなふうに」 ゆうべからの悪遊びだが、大亀はまだ気分を 醒 ( さ )ましていない。 屏風越しに、肱をのばして、蒲団をめくりかけた。 女も市十郎も、とび起きた。 とたんにまた、大亀も、屏風と一しょにぶっ仆れて、二人の上へ折り重なった。 ひどい……」 屏風の蔭だった所からも、またべつな女が飛び起きた。 小屏風一つを境にして、そこにも二つの枕がころがっている。 ここは神田辺の汚ない風呂屋の裏二階なのである。 ふたりは、今朝でもう三日も、自堕落をやっていた。 さきおとといの雨の闇夜、大岡家を飛び出して、二人とも、濡れ鼠の姿で、 懐中 ( ふところ )のあてもなく、ここへ 揚 ( あ )がッてしまってからの、続きであった。 「おい、市の字。 何をぼんやりしてるんだ。 階下 ( した )へ行って、ひと風呂サッと入って来ようぜ。 ……これこれ、女房たち、おぬし達はその間に、湯豆腐か何かで、熱いとこを一本 燗 ( つ )けておくんだよ。 よいかネ。 そしてきょうも、きのうの小唄の稽古でもやろう」 大亀は、寝ても醒めても、 くッたく知らずだ。 天性、遊蕩児にできているのか、女たちを、怒らせたり、笑わせたり、嬉しがらせることに、妙を得ていて、しかも、 大風 ( おおふう )な贅沢をいいちらし、ふところに一文なしとは影にも見せない。 それにひきかえ、市十郎は、ここへ来ても、養父の最後のことばがなお耳から去らなかった。 従兄の大亀の徹底ぶりに、ハラハラしているだけだった。 「短い命で、この世を、楽しみきろうッていうのに、そんな気の小ッせいことでどうするか。 お袖にも、今にきッと逢わせてやらあな」 風呂場の流しで、市十郎に背中を洗わせながら、大亀は、傲然と、説教した。 その背中には、刀傷が幾ヵ所もあった。 「…… 於市 ( おいち )。 「金さ。 金だよ。 何とか、金を手に入れて来なくッちゃあ、この先、どこを泳ぎまわるにも、おもしろくも何ともねえやな」 大亀は、ニヤと凄味を見せて笑った。 湯から上がったばかりなのに、市十郎は、 鳥肌 ( とりはだ )になった。 行えばその兇猛をかえりみぬ彼の性情を知っているし、かれの行為は、 直 ( ただ )ちに、自分の連帯行為となるからだった。 屠所 ( としょ )の羊みたいな恰好で、市十郎は、 傲岸 ( ごうがん )なかれの姿に 従 ( つ )いて薄暗い梯子段を、元の裏二階へのぼりかけた。 すると、下座敷の 内緒暖簾 ( ないしょのれん )のかげから、見るからに 威嚇 ( いかく )的な 長刀 ( ながもの )を腰にたばさみ、けわしい 眼 ( まな )ざしをし、 月代 ( さかやき )を厚く伸ばした四十がらみの武家 ごろが、 「おい。 雛鳥 ( ひよ )ッ子たち。 ちょっと待ちな」 と、 初手 ( しょて )からひとを子ども扱いにしてよびとめた。 「雛鳥ッ子たあ、何だ。 ばかにするな」 大亀は、梯子の中途から云って、 怯 ( ひる )みは見せじと降りて来た。 歪 ( ゆが )めた唇に銀歯が見えた。 悪旗本のあつまりと聞く銀歯組。 こいつあ相手が悪い、と大亀もやや鼻 たじろがせた。 「おれは、ここの亭主の友達で、風呂屋町の 喧嘩買 ( けんかがい )、 赤螺 ( あかにし )三平という男だ。 聞きゃあ、おめえ達は、三日も駄々ら遊びのやり通しだそうだが、たいそうなもンだの。 金はあるのか。 あったら一度、払いをしてみせろ」 「払うとも、払うさ。 なんだ三日や四日の 端 ( はし )た勘定」 「ふん、そうか。 さ、払え」 「だが、今は。 今に払ってやる」 「なにを」 三平は、右の手に、大亀の胸ぐらをつかみ、左の手に市十郎の腕くびを 把 ( と )った。 「このチンピラ 奴 ( め )が。 濡れ鼠で舞いこんで来やがって、いうことは大きいが、どうも 容子 ( ようす )がおかしいと、今、亭主と女たちで、着物持ち物を調べてみたら、ビタ一文、鼻紙一帖、持ち合せてもいねえという。 ふてえ奴らだ」 「いや、きょうは屋敷から取りよせるつもりだったのだ」 「屋敷? どこだ、てめえ達の巣は」 「それだけは、訊かないでくれ。 きっと、持ってくる。 ……市の字。 すまないが、おまえだけ、残っていてくれ。 おれはちょっと、屋敷へ行って、用人に金を 工面 ( くめん )させてくる。 午 ( ひる )までには、きっと帰るからな。 どうぞ、この方の身を質として、わしを出してくれないか」 「きっと、午までには、持ってくるか」 「必ず、持参します。 「こう天気はいいし、朝ッぱらからでは、何とも、金に巡り会いようがねえ」 悪心も、途方にくれた。 十月末の清澄な昼。 くまなき太陽。 かれの悪智も、働き出るすきがない。 「そうだ、 梅賀 ( ばいが )の家へ行って、お袖の 小費 ( こづかい )をゆたぶッてやろう。 子どもの泣き声が聞える。 「おや、味噌久じゃねえか」 「オオ、大亀か」 「どうしたい。 子どもを背負って、台所なんぞしやがって、不景気な」 「だって、この子を、 干乾 ( ひぼ )しにするわけにもゆくまい」 久助は、背なかで泣きぬくお燕をあやしながら、箸や茶碗を洗っていた。 「ところで、お袖は……?」 「あの晩きりさ。 …… 行方 ( ゆくえ )知れずだ」 「え。 あの晩きりだって」 「どうしても、市の字に会わせろというので、大岡家へ連れて行ったさきおとといの晩からさ。 ……ここへも、どこへも、帰って来ねえ」 「はてな。 ……まさか、身投げをしたわけでも、あるめえが」 「それとも、屋敷の奴らにでも殺されたかと、心配で堪らねえから、実あ、きのう思いきッて、大岡家の 仲間 ( ちゅうげん )にきいてみたのよ。 そしたら、何でもあの晩、召使たちが三、四人でお袖を駕籠に押しこんで担ぎ出し、番町辺の濠際へ、その駕籠ぐるみ、 抛 ( ほう )り捨てて帰ったなんていやがるんだ。 飯を食っての、思案としよう」 大亀はすぐ寝そべッた。 頬杖ついて、家の中を見まわしていたが、やがて、飯ができると、悠々と 掻 ( か )ッこんで、 「久助、こんな物はもう洗わなくッてもいいや。 それより夜逃げ屋を呼んで来い」 「何だい、夜逃げ屋というなあ」 「道具屋だよ。 どこかそこらに、古道具屋があるだろう。 ぐずぐずしてると、てめえも、お犬小屋一件の御用風に抱きこむぞ」 味噌久を 脅 ( おどか )して、古道具屋を呼ばせ、世帯一式、付け値の七両二分で、売り払ってしまった。 そのうち、二両を、味噌久へ渡して、 「これだけやるから、てめえはこれを持って、市の字の体を、遊び風呂の 丁字屋 ( ちょうじや )から 請 ( う )け出して、どこへでも潜りこめ。 何しろ、まだまだ、お犬小屋一件の下手人が出ねえてンで、町奉行は血眼らしい。 たのむぜ、久の字」 風の如く、大亀は、町の辻に、彼を捨てて、その姿を消してしまった。 久助はすぐ丁字屋をたずねた。 市十郎は、裏二階から首をのばして待っていた。 大亀とおもいのほか、久助が来て、しかもその背に、わが子が負われているのを見て、 ぞくと全身の血を凍らせたふうである。 女たちは、ここの内緒へ、久助が勘定を払ったのを見て、 「オオ。 可愛い子だ」 と、お燕を抱きとって、あばき合ったが、やがてそれが市十郎の子だと知ると、俄然、邪けんに突ッ返して、 「まあ、憎らしいね」 と、こんどは、市十郎をとり巻き、どうしても、返さないと、 執 ( しつ )こくひきとめた。 女たちをもぎ離して、市十郎は逃げるように 戸外 ( そと )へ出た。 うしろで、キャッキャッと、笑い声がしたが、道も見えない心地で、鎌倉河岸まで馳け出した。 「市の字。 ひどいよ。 逃げちゃあ、ひどいや。 自分の子だぜ、この 餓鬼 ( がき )は。 お燕のくびが、宙へ向いて、がくがく揺られぬいて来る。 市十郎は、振り向いて、棒のように立ちすくんだ。 「亀次は? そして、お袖は?」 もう散り初めてきた柳並木を、市十郎は、 人魂 ( ひとだま )のように、力なく歩きながら、早口に訊ねた。 「どうする? ……。 市の字」 お人よしの久助も、背中の子どもは、持て余し気味だ。 市十郎の眼へ、つきつけるように、お燕の顔を見せた。 市十郎は、腕ぐみを解いた。 そして素直に、自分の背なかを向けていった。 「わしの子だ。 わしが負う。 ……久助、こっちへ背負わせてくれ」 十一月にはいった。 寒さは心へもくいついてくる。 木賃を泊りあるいているうち、ふところの金もなくなってきた。 味噌久は、冬空を仰いで、しょんぼり、嘆くようにいった。 「ねえ市の字。 どこかで、何かやらなきゃだめだよ。 泥棒はできねえの、 たかりはいけねえのと、臆病なことばかりいッてたんじゃ、この子が、 凍 ( こご )え死んでしまうぜ」 お燕を、 交 ( かわ )る交るに負って、きょうもあてなく、盛り場の裏町をうつろに歩いている二人だった。 寒さと、空き腹は、悪への盲目を駆り立てるが、大亀や阿能十のような先輩がいなくては、味噌久も、 掻 ( か )ッ 攫 ( さら )い一つできない男なのである。 まして、市十郎には、その方面の才覚はない。 いや、市十郎は、こうして毎日、泣く子を負って、町をうらぶれ歩くのも、今では何か、楽しみになりかけていた。 心は、常にそぞろだった。 かの女の行方をさがすための、恋の苦労と思うと、 飢寒 ( きかん )も、ものの数ではない。 恥をつつむ 破 ( や )れ編笠も、自分だけには、恥でない気がした。 すれ草履の足もとを、 霰 ( あられ )もつ風に吹きなぐられても、お袖に似たうしろ姿を、ふと人なかに見つけたときは、胸のうちが花火のように どきと鳴った。 走り寄って、人違いと知った後にも、甘い感傷がかなしくのこり、人知れず、自分を、恋の詩人にしていた。 心あたりをそれとなく問い歩いても、生死すら知れないのである。 そして現実は、ふたりの前に、今夜の 糧 ( かて )と寝床をどうするか。 がんぜないお燕を飢え死なすか、捨て児か。 冷酷な決意をたえず 強 ( し )いてやまない。 「アア、良い 印籠 ( いんろう )だなあ。 長身で色白な人だった。 粗服だが、どこか 気稟 ( きひん )の高い風が見える。 髪から顎へ、紫の布を頭巾結びに たらりとつつみ、革袴、新しい草履、ゆったりした 歩様 ( ほよう )で行く。 曲がり角まで出るに手間どるほど、そこらからもう 雑鬧 ( ざっとう )の雑音につつまれ初める。 幼な子の悲鳴もつんざき、市十郎の胸をぎょッと 衝 ( う )ッた。 お燕は、久助の背なかだった。 子どもを背負っているくせに、久助は、ふらふらと、美少年のうしろを 窺 ( うかが )い、その腰にある印籠を、 掏 ( す )り取ったのだ。 ところが、美少年は、一人ではなかった。 数歩離れて、そのうしろから、同じように、黒布で、頭巾結びに顔をつつんだ侍が、ひそかに随行していたのである。 「何とした? 半之丞」 「お腰の印籠がございますまい」 「ほ。 ……ないわ。 盗まれたか」 「こやつめです」 半之丞とよばれた随行の武士は、久助の手から印籠を引ッ 奪 ( た )くって、 「お気をつけ遊ばしませ」 と、主人らしい美少年の手へもどした。 たちまち周りは人間の黒山をつくりかけた。 口々に、 掏摸 ( すり )だ、盗ッ人だと、罵り騒ぐ。 そのとき美少年の 明眸 ( めいぼう )も、久助の姿へそそがれた。 十八、九歳の豊麗な容貌が、頭巾のうちで微笑していた。 何か、おかしくてならないようである。 そして、いま手にもどった印籠を、 「これか。 ゆうべは、寺の縁へ寝た。 こん夜はお竹蔵の竹置場に、むしろを 被 ( かぶ )って、夜霜をしのぐ父と子だった。 久助は夕方からあの印籠を売りにゆき、人目もないので市十郎は、抱いているお燕の顔に頬ずりした。 どこかに、お袖の肌を思わせてくれる。 「お母あちゃまは、どうしたろうな。 おまえも母をさがして泣くか。 おお、よしよし。 飢 ( ひ )もじいか。 いまに久助が、何か買って来よう。 泣くな。 泣くな」 折々、立って歩いたり、小声で子守唄をうたってやったり……そしてそのわが子守唄に、若い父は、感傷になって、独り涙をたれていた。 なんのために屋敷を出てしまったか。 あやしい自分の気もちを今さら疑わずにはいられない。 従兄の誘惑に負けたのか。 家つきのお縫とつれ添う将来が 厭 ( いと )わしいのか。 屋敷生活や武家階級のいつわりと空虚にいたたまれない気持からか。 やはり最大の原因は、自分の内にあった。 最初の小さい一つの過失が、次第に、罪から罪を生み、果てなく 罪業 ( ざいごう )をつんでゆく。 それにも似た青春の野火だ。 この 火悪戯 ( ひいたずら )は、元より自分の好奇心にもあったことだが、火つけ友達は、まぎれなくあの従兄だ。 従兄の亀次郎さえいなかったら、この運命もなかった気がする。 だが、この境遇を、自分はほんとに悔いているだろうか。 そして目が醒めたらいつでも帰れよ)と。 ……今からでも前非をわびて帰れないやしきでもない。 にも関わらず、自分はこの子を捨て児にもしきれないのだ。 こうしていれば可愛さはますのみである。 本能というか、愛というか、われながら分らない 妄執 ( もうしゅう )がつのっている。 あらゆる理由はあるに似て、実は何もないのである。 あるのはただお袖だけだ。 もしお袖との相愛に祝福される境遇を得たら、ほかの理由はことごとく 泡沫 ( ほうまつ )のようなものだったことを悟ろう。 青春の問題の多くがこれだ。 「オオ寒。 くたびれ儲けさ。 どうしても買手がねえよ。 宝の持ちぐされとはこのことだ」 やがて久助が帰って来た。 売りあるいた印籠は、どこへ見せても売れないという。 理由は、 蒔絵 ( まきえ )の構図が、 葵 ( あおい )の紋ぢらしになっているせいだった。 葵の紋は、お犬様と同じだ。 さわらぬ神に祟りなし、誰も嫌うのが常識である。 まして久助の身なりとそれを見較べては、買手がないのは当然といえる。 「……だがネ市の字。 こんな物を、ちッとばかり買って来たから、お燕坊に、やってくんな。 この子に罪はねえものを。 なあお燕坊。 ……オヤ、笑ったよ、おれを見て」 飴 ( あめ )の袋と、まんじゅうの包みを出し、久助はお燕にそれを喰べさせた。 あの垢じみた一 張羅 ( ちょうら )をどこかで脱ぎ、そして、わずかに買ってきたおみやげにちがいない。 市十郎は眼が熱くなった。 そこへ、夜鷹 蕎麦 ( そば )の 担荷 ( にない )が通った。 温かそうな 葱 ( ねぎ )の香と、汁のにおいが、ふたりの空腹をもだえさせた。 胃の 疼 ( うず )きが唾液をわかせて抑止しようもない浅ましい意欲に駆られた。 ふたりは、やがて、かじかんだ手に、夜鷹蕎麦の 丼 ( どんぶり )をかかえ、ふウふウいって、喰べあった。 五体の血は生命の火を点じられたように活気づいて指の先まであたためた。 箸の先に 水洟 ( みずばな )がたれるのも思わなかった。 浅ましいというなかれ。 無上大歓喜即 菩提 ( ぼだい )。 人間とは、こんな 小 ( ささ )やかな瞬間の物にもまったく満足しきるものだった。 痛い、 痒 ( かゆ )いも覚えない。 名誉、功利、闘争、廉恥、そんなものもなかった。 「アア、 美味 ( うま )かった……」と、久助は箸と丼を蕎麦屋へ返すと、天にむかって 浩嘆 ( こうたん )した。 市十郎は、丼の底に余した汁を、お燕の口に与えていた。 「お代りは? ……」と、蕎麦屋がいった。 久助は、よほど、もう一杯といいたそうだったが、心のうちで、闘っているらしい顔をした。 そしていいにくそうに、蕎麦屋の屋台 行燈 ( あんどん )の下へ、例の 印籠 ( いんろう )をひょいと出した。 「蕎麦屋さん。 実あ、金はないんだよ。 これを 抵当 ( かた )に、もう一杯喰べさせてくれるかい」 「え、何です、これやあ……」蕎麦屋は、じっと、手にも取らず見ていたが、 「これやあ、紀州様の御紋章つきの印籠じゃございませんか」 「そうだよ。 盗んだ物じゃあない。 堺町の抜け裏で、紫頭巾をなすった立派なお若衆からいただいたんだ」 「へえ、なるほど、それじゃあ嘘ではありますまい。 あのお若衆は、赤坂のおやしきからよくお 微行 ( しのび )で町へお 出 ( い )でなさる紀州様のお三男、徳川新之助様だってえ噂ですからね。 ……が、どうして印籠なぞを、お前さんたちにくれなすッたろ」 「この子のおもちゃに 抛 ( ほう )って下すったんだ」 「そうですかねえ。 そんな気まぐれもなさるかもしれない。 何しろ変った 御曹司 ( おんぞうし )ですよ。 やはり 柳沢閥 ( やなぎさわばつ )の、さる老中の息子らしく、これも 微行 ( しのび )姿で、よく堺町へ来るが、いつも大自慢の土佐犬を、銀の鎖でつなぎ、わざと、盛り場の人混みを引きあるいていた。 そして、この 獰猛 ( どうもう )なお犬様に、 雑鬧 ( ざっとう )の露ばらいをさせて、人々が恐れまわるのを、愉快としていた。 かれが、芝居を見物中は、これを小屋の木戸番へ預けて入る。 木戸番は、お犬様のために、特に、入口に別席をもうけ、地上に 緋氈 ( ひせん )を敷いて、青竹につないでおいた。 すると、ある日、賎しからぬ若衆が、その前に 佇 ( たたず )んだ。 そしてふと足の先で、お犬様を愛撫した。 権門の猛犬は、常に人間を猫、鼠以下に見馴れているせいか、この人間の無礼にたいし、土佐犬特有の 牙 ( きば )をいからして、猛然と、その若衆の出した足くびへ食いついた。 さだめし、足を引くのも間にあうまいと思ったからだ。 さしもの猛犬も、これには牙を立ついとまもなかったとみえ、ぐわッと五臓を吐くような 唸 ( うめ )きと共にぶっ仆れ、死ぬまでには至らなかったが、けたたましい吠え声をたてて、まったく尻ッ尾を垂れてしまった。 犬の声よりも、見ていた群集の歓声が、小屋の前を揺すったのである。 老中の息子と、その家来たちは、血相を変えて、小屋の内から出て来た。 さきの若衆はそのときまだ悠然と去りもやらずにいた。 木戸番は責任上、すぐすッ飛んで行って町役人をよんできた。 もちろんこんな盛り場にも、お犬目付は随所にいる。 しかもなお、若衆は沈着を極めていた。 役人捕手が取り囲んだ。 が、風采を見て、犬目付が何かふた言三言、訊問した。 と思うと、役人たちがみな犬の如く初めの気勢を失ってしまい、老中の息子等と共に、こそこそ協議の上、何事もなく退散してしまった。 その事があって以来、若衆の 素性 ( すじょう )は、この界隈でかくれないものとなった。 願い下げだよ、これは。 ……だが、見れやあいい若い者のくせに、幼な子を抱いて、この霜夜に、どうしたってえことだ。 お 嬶 ( かか )に間男でもされて逃げられなすったかね。 蕎麦代はその子に 奢 ( おご )っておこう。 夜が明け、夜を迎え、それでも何とか、人間は喰べつないでゆく。 久助が、食物を 漁 ( あさ )りまわっては持って来るのだった。 そのうちに、銭など持っていることもあり、それのある時は、木賃の 薄 ( うす )蒲団に寝た。 葵ぢらしの印籠は、お燕のよい 玩具 ( おもちゃ )になったが、市十郎が、そのお方の好意にたいしても、 勿体 ( もったい )ないといって、以来、お燕の腰紐に、守り袋と一しょに提げさせていた。 「あっ、泥棒ッ。 追いかける方は二、三人。 ひとりは 暖簾棒 ( のれんぼう )など持っている。 町中はちょうど 夕餉 ( ゆうげ )の 炊 ( かし )ぎ時、 靄 ( もや )みたいに煙っていた。 それと 黄昏 ( たそがれ )を窺って、すぐ見つかるようなのでは、いずれはコソ泥にちがいあるまい。 「曲がッた。 泥棒だ泥棒だ」 コソ泥は必死に逃げ、 石町 ( こくちょう )の鐘つき堂をぐるぐる廻り、また追いつめられて、瀬戸物町の方へ馳けたが、折ふし通りかかった二人づれの同心に、番所に居合せた捕方の三、四人も加わり、逃げれば逃げるほど、追えば追うほど、 由々 ( ゆゆ )しい大物でも 懸 ( か )かるような騒ぎを伝えた。 京橋尻の、もと梅賀がいた家の近くに、河に添って広い空地があり、 伐 ( き )り残された 団栗林 ( どんぐりばやし )のわきに、軒傾いた木賃宿が二、三軒ある。 市十郎は、そこの 破 ( や )れ 窓 ( まど )から、何気なく首を出した。 「おやっ?」 捕手らしい人影に囲まれて、ひとりの男が、むごく引ッ張られて来るのが見える。 撲られるたびに、泣くような 喚 ( わめ )くような声も聞こえ、その一群れは、この木賃長屋と 船玉 ( ふなだま )神社のあいだを通って、往来へ出て行った。 夕闇せまる往来には、黒々と人立ちがして、縄付を指さしあっていた。 南無三、何とか救う手段はないか。 罪はかれが犯しても、罪の責任は、自分にある。 だが、あきらかに彼は、泥棒を働いた。 いかなる罪をもって律せられても苦情のいえない縄付にちがいない。 市十郎は、 苛責 ( かしゃく )された。 もし気がつく者があれば、怪しまれるほど、苦悶の状を、その 面 ( おもて )に深く描いた。 ふと、足をすくめて 佇 ( たたず )みかけたが、歩けッと、たちまち縄尻で打ちすえられ、ふし眼がちに、市十郎の方を見ながら、すごすご宵の辻を曲がって行った。 出来心の軽い罪。 長い牢舎でもあるまい。 それが彼の今では第一の目的だったが、日毎の木賃の払いにも金がいる。 かれは、背にお燕を負い、 面 ( おもて )を破れ編笠にふかく隠して、 素謡 ( すうたい )をうたいながら、恥かしそうに人の軒端に立った。 「なんだなんだ。 何が行くんだ」 「さらし者だ。 罪人だ。 江戸中引きまわしの上、小塚ッ原へ引ッ立てられてゆく途中だ」 「え。 中野のお犬小屋荒しだって。 そいつあ、拝んでおかなくッちゃ、申し訳ねえ」 口々にいい交わしては、争い走ってゆく人々の足に、乾ききった十二月の昼は、馬糞色に 埃立 ( ほこりだ )ッて、もう両側はたいへんな見物人であった。 この日、江戸町奉行は、懸案の難問題を解決して、百数十日ぶりの明るさを取りもどしていた。 おそらく、現江戸町奉行 丹羽 ( にわ )遠江守は、年内に切腹するだろうと、取沙汰されていたくらいだからである。 かかる者は、草の根を分けてもひッ捕え、世人の見せしめに、極刑に処しおかねば、次々、いかなる不心得者が現われるやもしれますまい) と、例のごとき献言まで行った。 さなきだに、激怒していた綱吉は、老中を通じ、町奉行丹羽遠江守へ、犯人の逮捕を、 日限 ( にちげん )きッて、きびしく催促した。 しかし、容易にその検挙は実現しなかった。 理由は、事件がまったく無欲の行為に依るからだといわれた。 そのために、ほとんど、足どりとか 贓品 ( ぞうひん )の経路とかいう常套的な捜査法はまったく用をなさなかった。 期限の百日が、老中の説明で、やっと猶予され、さらに犯人逮捕の日限は、五十日延期された。 それ以上は、奉行の無能を謝して、切腹でもするしか、丹羽遠江守の立場はないまで、さし迫っていたところなのである。 町の情報通は、虚と実のけじめもなく、そんなことをガヤガヤ話しあいながら、裸馬の 三途 ( さんず )行列を、首を長くして、待っていた。 裸馬、三頭。 その一頭一頭に、囚衣の罪人が、 縛 ( くく )りつけられている。 みな、きりぎりすのように痩せ細り、眼をくぼませ、髪も 髯 ( ひげ )も、ぼうぼうと 生 ( お )いはやして。 白い弔旗のような 幟 ( のぼり )ばたにも、何か、かれらの罪悪がくろぐろ書かれ、一番あとから、数珠をもった坊主が二人、何のつもりか、足駄ばきで 従 ( つ )いてくる。 市十郎は、眼を疑った。 なんとそれは、姿こそ変れ、ひと月ほど前に、微罪で捕まった味噌屋の久助ではないか。 「……久助だ! おお、何として?」 何か、わけのわからない疑念で、頭がぐらぐらした。 阿能十なら知らぬこと。 大亀なら知らぬこと。 久助とは? ……信じられないのである。 その上の者は、まったく見も知らない人間だ。 更に、三番目の裸馬が通った。 その上の者も見覚えがない。 久助のみが、彼のあたまの中を、いつまでもいつまでも、果てなき死出の道へ通って行く。 打消そうとしても、そのあわれなる姿は、もう一生消えまい。 だが、見物人の声の中には、よくある強盗、放火、殺人などを犯した者にたいするような悪罵も怒りも聞かれなかった。 むしろ、かれらは暗黙のうちに、裸馬の背に同情していた。 ある者は、お念仏をとなえたりした。 ある者は、ひそかに 合掌 ( がっしょう )していた。 またある者は、よくやッてくれたと、いわぬばかりな眼をもって見送っていた。 それらの人影も、 師走 ( しわす )らしく、たちまち 蝟集 ( いしゅう )して、たちまち散った。 あとには、路傍の枯れ柳と、大岡市十郎だけが残っていた。 「めずらしいじゃねえか。 市十郎。 おめえはたしか、 於市 ( おいち )だろうが」 思いきや、まだ柳の木蔭に、もひとり人影が 佇 ( たたず )んでいた。 長刀 ( ながもの )をぶっこんで、 熊谷 ( くまがい )笠とよぶ荒編みの物を、 がさつに顔へひッ 被 ( かぶ )った浪人である。 「えっ。 ……ど、どなたでござったろうか」 「ござったろうかもねえもんだ。 おれを忘れちゃ困る。 その子を生んだお袖なざあ、おめえよりは、この 阿能 ( あの )十蔵の方が、早くから目をつけていたもんだぜ」 「おう、阿能十か」 「於市。 ちか頃、お袖に会ったかい?」 夜になるとよくこの辺の売笑婦たちが集まってくる茶めし屋の 葭簀 ( よしず )囲い。 お 厩 ( うまや )河岸にはこれが多い。 「お祝いだ。 きょうはおれにも祝っていいことがある。 そして何か 美味 ( うま )い 肴 ( さかな )をな」 かれも、床几に 片胡坐 ( かたあぐら )をかきこんで、 前屈 ( まえかが )みの小声になり、半分口を抑えながら語った。 「かわいそうなのは、お人好しの味噌久だが、これで一件は、めでたく落着だ。 奉行なんてやつあ、自分が切腹とでもなると、何をやるか分らねえ。 あの三人の下手人のうち、久助は、半分下手人といってもいいだろうが、後の二人は、奉行の身代りだよ。 どこかの唖乞食か、半馬鹿の罪人をつかまえて、お犬殺しに仕立てたにちげえねえ。 ふふふふ、こッちにとっちゃあ 勿怪 ( もっけ )のしあわせ。 いずれ 根 ( こん )よく潜っていたら、大概、こんな片付きかたをするんじゃねえかと思っていたのさ」 そしてまた、不敵に、こうもいった。 「なあに、老中だって、将軍だって、柳沢次第の世の中だアな。 奉行も、切腹と来ちゃあ堪らねえから、そこはそれ、柳沢の 御簾中筋 ( ごれんちゅうすじ )へ、廻すものを廻しさえすれやあ、どんなにでもなることさ。 世の中は、面白かろう。 わけて、裏街道をあるいてみると」 酒が来たので、ちょっと、黙ったが、またすぐ小声と、前屈みになり、こんどは、お袖のことをいい初めた。 阿能十にいわせれば、 「お袖にゃあおれはちょいちょい会ってるんだ。 「会わせてやるぜ。 いつでも」 阿能十は、ぐっと一杯ほして、その杯を、市十郎に持たせ、 「はやくおれにぶつかれば、いつでも連れて行ってやったものを……」 と、まだ明らかには、居場所を口に出そうとしない。 市十郎は、てもなく 焦 ( じ )らされた。 「よし、きっと、会わせてやろう。 おれは、大亀のような、 ずぼらは嫌いだ。 約束する、かたい約束を」 「この通りです。 何とぞ」 「そう、いんぎんになるなよ於市。 こっちも武家出、つい固くならあ。 自分に持って来いというものは」 「おめえの親戚に、たしか大岡兵九郎とかいうのがあったなあ。 屋敷は牛込だ。

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松平維秋の仕事

市川いっかさつがい 犯人

一九六九年、事情あって「渋谷DIG」が別の経営者による店「ブラック・ホーク」となってからもそのまま残り、レコード係をつとめた。 その頃には、単なるレコード係ではなく、レコードの買い入れから日常どんな音楽を主体に流すかといった企画までを担当するようになっていた。 このエッセイは、彼が「ブラック・ホーク」の職を辞してから長い時を経て後、百軒店とその周辺の再訪記として書かれた。 遺品には生原稿のコピーとして遺されていて、そのために未発表原稿とばかり思いこんでいたが、このほど初出雑誌が判明した。 (編者) 先週は一〇数坪の土だったさら地が、今日は繁雑な工事現場になっている。 この場所にビルが建ち、元の入居者が新装の店を営むという。 ブラック・ホークはこの一階にかつてあり、またここへ入るらしい。 店名が残るかどうかは知らない。 この時代に、それは誰も望まないことだからだ。 いずれにしても、渋谷百軒店(だな)の二月の工事現場は、小規模なただの現場にすぎず、そこで一〇年余を過ごしたぼくの眼にも、別段の感慨は呼ばなかった。 だが六九年からの一〇年ほど、このスペースには特別な空気が満ちていた。 世間的な分類では、ブラック・ホークはロック喫茶である。 ところがその空気は、ロック喫茶らしさ[#「らしさ」に傍点]からは外れていて、プレイされる音楽が、席を埋める客たちの体に染み込んでいく光景は、いつも静謐といってよかった。 そしてその音楽を他所で、たとえばラジオから聴く、ということはまずないのだった。 なぜかというと、ブラック・ホークの音楽は、世間の流行に同調することがなかったからだ。 ロック=音量主義の七〇年代初頭には、個人レベルのコミュニケイションを重視してアコウスティック路線をとった。 西海岸の音楽が一般化するころには、ゴスペル色の濃い南部のロックに力を入れ、シンガー&ソングライターにブームが兆せばイギリスの古謡をうたう人達に光をあてた。 ヘソまがりではなく、わずか五〇人で満席のスペースは、つねに専門店的な使命を帯びるべき、という考えからだった。 「すいません、ちょっと出てきます」 ここでも常連は多少図々しくなり、よくこんなことをぼくに言い置いて外出する。 煙草屋への往復よりは永い。 だが一五分以内で戻ってくる。 来れば三時間は粘る彼らは腹がへるのだ。 その行った先も明瞭で、帰りに香辛料の匂いをプンプンさせていればカレー屋の ムルギー。 それより所持金の少なかった奴は中華屋の 喜楽に行ったのに違いなく、席に帰ってからマッチを楊枝がわりにしていれば、食べたものはモヤシソバだ。 どちらも歩いて一分以内。 ブラック・ホークが工事現場となっているいまも、一五年前と変わらぬ営業方針で、変わらぬ賑わいを示している。 八五年の若者にとって、渋谷とはパルコ方面を意味する。 この道玄坂界隈で、一〇年以上繁昌をつづけている店は多くない。 だがそういう例外的な店には、きっとそれだけのポリシーがあろう。 そう思い込んでぼくは、ブラック・ホーク時代に馴染んだ店々を再訪したのだった。 揚げたワケギ入りの醤油をかけただけで、喜楽の親爺さんが自分の麺[#「自分の麺」に傍点]を食べていた。 これはぼくも見慣れた、この店全員の変わらぬ食事風景である。 質素倹約の気風、という印象をまず抱くが、そればかりではない。 こうして食べることで各々が毎日、麺とスープのマッチングを研究しているのだ。 店主自らがこれだから、ここでの従業員に要求される厳しさは並ではない。 まず動きの機敏さと的確さ。 ラッシュ時のカウンター内の流動は、眼に見えない統御装置でつねに律せられているみたいだ。 スポーツ新聞の求人欄を見て来た新人はたいてい、この精確さに溶け込むまえに、親爺さんの職人気質と先輩たちのストイシズムに絶望していなくなるのだ。 彼らは「喜楽の味は変わらない」と口を揃えるが、じつは違う。 大鍋のスープには毎年改良が加えられている、と最古参店員の金ちゃんが言った。 喜楽の向いの路地を東に入ると、道は階段状になって道玄坂小路に下り立つ。 左折してすこし行った右側、ジャズ喫茶の ジニアスは、東京でも残された数少ない本格派の店といわれる。 オーナーの鈴木さんは、ジャズ喫茶の老舗だった〈DIG〉の出身。 じつは一〇代のぼくはそこで彼の後輩だったのだ。 「変わってないでしょ!」 第一声、店が変わってないことを笑顔で自慢できるのがうらやましい。 ジャズ喫茶が変わっていないことは、バーが変わっていないこととは意味が違う。 バーでは隣りの客が何を飲もうと構わない。 だが、一枚のレコードを全員が聴くジャズ喫茶では、そのプレイはつねにオフィシャルなものなのだ。 そう意識してレコードを選択する店が、本格のジャズ喫茶である。 基本はオーナーの趣味であろうと、そのコレクションこそ、変幻のジャズ・シーンに対する店の回答であると客はみる。 ジニアスがオープンして一五年。 ジャズの衰退、ロックの興隆、フュージョンの登場。 多くの店が目標を見失い「明日のジャズは?」と呟きながら、現実には若者の尻を追いかけたまま消えていった。 鈴木さんとの話題は、どうも六〇年代の奥深くへとさかのぼりがちになる。 そこを抑えて七〇年前後。 当時は若者が各々に個性的であろうとしていた、と鈴木さんはいう。 音楽を聴くことも自分の存在証明と考え、昼間から店にやってきた。 変な奴、暗い奴、危険な奴がいっぱいいた。 そしていま。 これは喜楽の金ちゃんも言ったが、行儀がいい。 厄介な奴はいず、面倒がない。 だが表情もないから、どこまで音楽に感応しているのかもわからない。 「一歩表へ出たら、もうジャズは持ち歩いていないね。 昔は引きずって歩いてたけど」 ジニアスの並びをもう少し、東急本店方向へ行ったところに、ぼくの中学時代からのひいきのパン屋、 フレッシュマン・ベーカリーが健在だ。 創業は昭和二十四年だから、この店名には相当なモダニズムを感じる。 むろん自家製であり、オリジナルのランチパン、オムレツパン、シナモンロールなどは、店名とともに戦後のモダニズムをいまの世に伝えているわけだ。 そして七〇年代、巷のパン屋は次々とガラスの陳列棚を廃し、例のピックアップ方式を採用していく。 おかげでいま、この店の表は古めかしく見えるが、たとえ改装しても現行のウインド型式は変えないという。 いまここのパンと店の雰囲気とを喜ぶのは、奥様方よりも若い人だ、ともいう。 〈109〉の根方に、まるでコラージュのようにバラック建ての呑み屋がうずくまっている。 どこかの漁師町から運ばれてきたのではなく、三六年前からここにこうしてあったのだ。 玉久と染め抜かれた白暖簾(のれん)が夏の風に揺れ、開け放しの引き戸の奥に満員の客と魚介の山を見た夕方、中学生だったぼくは「このなかに大人の世界がある」と思って憧れた。 ついにその夢の暖簾をくぐったのは二〇代半ばだったが、ここの魚のうまいことは、外からの景色だけで疑う余地はなかったのだ。 〈109〉と玉久。 それを常連と雰囲気のために拒絶し、家族一丸、必死の決意でいるのだ。 若者のグルメ熱はいま、西洋に飽きて日本回帰の兆候を見せている。 そのうち少し利口なのは玉久にも顔を出す。 そしてここの女主人は、とても丁寧な口調で彼らについて語るのだ。 言われたとおりに食べてばかりいず、わからないことは魚の顔を指さしてでも尋ねてほしい、と。 そうすれば、座ったとたんに献立を説明する手当ては不要になるだろう。 とまれ、情報で舌は肥えない。 あとこの界隈でうまい店といえば、恋文横町全焼の大火から蘇った台湾料理の 麗郷だろう。 場所はさきの道玄坂小路、ジニアスの斜向い。 連日夕刻からは待ち人の列ができ、そこに若者の多さを発見するとき、なんとなしに安堵する。 散歩は再び百軒店にかえる。 六九〜七九の若者の古戦場はここだ。 道玄坂から入って直進のまま路幅が狭くなった左側、アメリカ音楽の BYGを訪ねた。 それは文字通り訪ねたのであって、ブラック・ホークにいたぼくがここの客だったわけはない。 なぜ訪ねたかといえば、ブラック・ホークは七七年にぼくが辞めて以降、ニューウェイヴ、レゲエへと音楽を変化させた。 しかるにこのBYGは、後発ながらいまだに米国音楽を標榜している。 どんな人がどんな心根で? そしてどんな客が? という興味があった。 驚きもあった。 坪田氏はなんと高校の先輩だった。 そしてBYGの店長になったのは、奇しくもぼくが百軒店を去った年である。 あの西海岸ブームほど苦々しい流行はなかった。 A君はボズ・スキャッグスをかけてベッドに座る。 「ココチ良いね」とB子ちゃんが微笑む。 「明日、ジャクスン・ブラウン聴きにブラック・ホーク行こう?」とA君。 ある音楽はこうしてメジャーになっていく。 というわけで、メジャーになった音楽をかけるために、ぼくがブラック・ホークにいる必要はもうなくなったのだった。 だがBYGの坪田氏は、そんな意固地な人間ではなかった。 大学時代にジャズをプレイしていた彼には、まずロックに対する深情けはない。 自分とロックとのその距離を、情況に照らして理性的にコントロールしている。 この店での前任者は、彼に「趣味に走ってはいけない」と言ったそうだが、実際の彼は他人に個人的な趣味を知られることすら恥しがるタイプの人だ。 もし「家では何を聴いてますか?」と誰かに問われれば、パイプをくわえてニコやかに「モーツァルトです」と答える。 ロック喫茶の店長が客にそう答えるとすれば、それは一種の韜晦(とうかい)である。 だが、知識比べを吹っかけてくるマニアも多いなかで、その競技に参加しない彼は、同時に虚勢を張ることも決してしない。 ではBYGがいま孤島の楽園のように、米国音楽の花を咲かせているかといえば、それはやはりそうではない。 米国音楽が古くなったというより、選び、聴くことで存在証明になるような音楽など既にないのだ。 あるのはただ、多種多様な音楽である。 あとはどれにどう乗るかだ。 坪田氏はニコやかに言った。 「ハラに一物据えて地方から来た人は、音楽かファッションに執着するでしょ。 流行から外れないその努力は偉い、凄いと思います。 ぼくは執着や努力がダメな性質で、だんだん滅んでいく人間です」 滅んでいくのも悪くない。 この界隈はぼくの記憶のなかで、現実よりも輝いている。 ただ過去の地図は必ず暗号で記されるから、それを解読できる人にしか意味がないのだ。 また、初出時の標題「ブラックホーク時代、'69—'79 at百軒店」を変更した。 裁判官があの恐ろしい言葉を述べた時 私は想像しただろうか 再びババクームの地に生きて立ち 寒風を感じることができると… 私は悲しみの人生を送るべく生れついた 友人達が恥辱で頭を垂れるのを見てきた 日ごと疲労と倦怠が増してくる 一九世紀末、女主人殺害の咎で絞首刑に処されようとした、無実の男の奇蹟の物語。 フェアポート・コンベンションはその史実を、自らの手で長い長いバラッドに変え、一九七一年に唄うのです。 「男達は皆働くものだ、お前にもその時がやって来た」。 女主人は、彼を息子であるが如く親身に扱いましたが、在郷の水兵達が彼に聞かせる海の話の誘惑は、若い彼にはいかにも打ち勝ち難く、一八か月の後、父親の反対を押して、彼は海軍に志願したのです。 彼はそこに天職を見つけた想いで軍務に服し、フェアポートはその有様を、このアルバム唯一の古謡「セイラーズ・アルファベット」に託して歌っています。 ところがある時彼は肺炎に倒れ、生死の境をさ迷った挙句、命は取り止めたものの、その身体はもはや海軍には不用の物と宣告されたのです。 既に一九才だった彼は、キングズウェアのさるホテルに職を見つけはしましたが、其処で彼を呼ぶベルは汽笛ではなく、マホガニーのカウンターが甲板の手摺に似ている筈もなく、自分の心が海に残されている事を想い知るばかりでした。 そうしたある日、彼を運命の地へ呼び戻す一通の手紙が届いたのです。 それはかのキース婦人からの物で、彼が再び彼女の館で働く事を暖かく迎える旨が認めてありました。 石積みの門を抜け、久し振りに見上げるキース婦人の館。 庭から一段高い花壇に、もう一段高くポーチが重なって、そのまま建物の裾一杯に延びています。 幾本もの柱が廂(ひさし)を支え、その合間の奧で盲格子を放たれた窓々が、尚も暗く並んでいます。 向い合う二人の衛兵の様に、四角い煙筒が両端に立っている上階の茅ぶき屋根。 館の背後でもっと高く茂る黒い木々。 来客を招じ入れる玄関脇の薔薇垣のくぐり。 そして、其処から奥深く入った食堂で、程なく起こる事件こそ、ジョン・リーに殺人者の名を与える事となるのです。 殺人は折しも生じた火事に乗じて行なわれたとされるものの、信頼厚い下男が、その敬愛する女主人を何故殺害したかの動機が判然とせぬまま、彼の寝所から発見された血曇りのナイフや血痕の在るシャツ等の物的証拠に依って、その罪は動かぬ物とされたのです。 弁護士は彼に全てを任せろと言い、ローヴをまとった判事は高い所で温和そうに見え、審理は彼自身の介在する所なく、彼の心を痛ませながら迅速に進みました。 彼には、神が彼の潔白を御存知だと信じて、処刑の日迄の幾夜かの眠りが安らかである事を祈る他に、出来る事は無かったのです。 これが此の世の最後の夜と知って就いた眠りの中で、彼は夢をみます。 彼は絞首台に居り、絞め金が外され、けれどそれは不動のまま動かず、試みは三たび繰返されて失敗に終るのです。 六時半。 彼が飛び起きたのは、現実の独房の中。 やがて八時。 彼が歩み出た刑場の中庭は、なんと、彼が昨晩の夢に見た庭と寸分違わぬ事に彼は気付きます。 でも彼は、自分に奇蹟が起きつつあるとの意を得た訳でなく、彼の死に様を見届けようと待ち受ける記者達を無感動に見やり、鳥達の声に耳傾け、故郷の村に想いを馳せ、暖炉に群れる父母や旧友達の姿を、閉じた目に描くのでした。 が、奇蹟は起こり、刑の最初の執行が原因不明の失敗に終った時も、二度目の失敗の時も、そして三度目は更に、絞首台のその不思議な故障は、恐らくはその成功以上の苦痛で彼をさいなみました。 「なんと言う事だ。 死ぬ方が楽だ。 待つのはたまらない」 ところが、目に涙を浮べた執行官は、三たび失敗を重ねた刑は、法により、もはや執行されない事を告げるのでした。 奇蹟は、彼の潔白の証し迄を立てはしなかったのです。 彼が縛(いましめ)を解かれたのは一九〇七年、老いた母親とクリスマスを過ごすための仮出所が許された時でした。 それまでの二〇年余を彼は、法が果たせなかった刑の代償として、理不尽な獄中生活を送ったのです。 とはいえ、フェアポートの歩みを振り返るだけでも、イアン・マシューズやサンディー・デニー、スティールアイ・スパンといった名は誰の頭にもすぐ浮かび、次にその人が、各々の個性を考えに入れながらそれらの音楽を総称しようとしても、ニュー・フォークとでも呼ぶ他は無いでしょう。 それほど、彼等の守備範囲は拡大しています。 でもそこは良くしたもので、昨今の音楽雑誌には彼等について語る記事も多く、フェアポート一族の系譜を見掛ける事も再三なので此処でそのお復習(さら)いをするのは控えますが、一つ念頭に入れて置くべき事が有ります。 それは、早い時期にフェアポートを離れて行った人程、アメリカのカントリー・ミュージックに近いコンセプションを持ち、フェアポートの名の許に残る人達は、アルバムの度に英国の土に帰って行ったという、大まかな道筋です。 別れて生まれたグループを辿ると、トレイダー・ホーン、マシューズ・サザン・コムフォート、フォザリンゲイ、スティールアイ・スパンの順でイギリス的になって行く訳で、これは別れて行った順番と一致します。 当のフェアポートについて言うと、最初のアルバムではエミット・ローズやジョニ・ミッチェル等の曲を取り上げ、今なら平均的であろうようなニュー・フォーク・グループの姿をしていました。 それは四年前の事です。 そして二枚目のアルバムで初めて二つのトラッド曲を演奏して以来、それが次第に彼等の大切な仕事になって行き、その変化に伴ってメンバー・チェンジが繰り返された事は前述の通りです。 只、その過程で最も重要なのは、『リージ・アンド・リーフ』からフィドル奏者のデイヴ・スワーブリックが加わった事で、この事は、彼等がトラッドに取り組む上の大きな力となったし、次の『フル・ハウス』は、フェアポートに彼が在ってこそ初めて生まれた物。 そしてそこには、彼等が今在る姿を志す、決心のポイントが隠されていたと思います。 そしてこの辺りから、英国トラッドが肌に合わない人達からは全く敬遠され、それを大好きというぼくの様な人達からは、聖者の集まりみたいに思われるという、両極端の反応に、彼等は迎えられる事となったのです。 そしてここでは、その二つの反応の真の対象、つまり、彼等の音楽の何が、あんなに激しい好き嫌いを呼び起こしたのかを、考えようと思います。 これはスコットランドの高地に伝わる舞踊曲で、歌詞はなく、16分音符が延々と続くのですが、このスタイルはアメリカに渡っても、スクエア・ダンスの形で生きています。 ディラーズや、近くはディラード・アンド・クラークの演奏の中にも、その伝統の一端を聴く事が出来ますが、それ等はフェアポートのジグ程には、この日本で忌み嫌われる事はない様です。 サンディーの唄は声その物に少々モダンさが在って、アメリカのカントリー・フィーリングをも、適度に漂わす事が出来るのです。 そこで問題になるのが、彼女の抜けた『フル・ハウス』。 第一に声が違っています。 サンディーは居ないのです。 今にして思うとそれは、バート・ヤンシュやジョン・レンボーンにも通ずる、トラッド・フォークを唄うための、最も素朴な声だったのです。 歌に関して、彼等は『エンジェル・ディライト』から『ババクーム・リー』へと、更にその完成度を高めて来たと思います。 でも、リチャード・トムプソンとサイモン・ニコルのギター、デイヴ・スワーブリックのフィドルがからみ合うインストルメンタル・パートは、この時が一番充実していました。 とりわけデイヴのフィドルは、楽器が唄う歌として、ロックやフォークの中でぼくが出合った最高の歌を唄いました。 それも、イギリスの土の匂い。 ザ・バンドが、デラニー&ボニーが漂わせるアメリカのそれとは違う、イギリスの土の匂いなのです。 そして、この匂いこそ、良くも悪しくもぼく達の耳に届いて来て、大勢の人をウンザリさせ、少しの人を狂喜させた物なのです。 この好き嫌いばかりは、食べ物と同じで、ある物を嫌いな人に、どんなにその美味を説明しても始まりません。 でもここで更に、アメリカとイギリスの土の匂いの相違について言うなら、それは最も深い所で、文字通りの土、気候風土に依っていると思います。 そしてもう少し浅い所では、風俗習慣がそれを音に換えているようです。 例えば、ザ・バンドの音楽の奧に見えて来るのは、無頓着から人間を棲まわせてはいても、永遠に人間の挑戦の対象であり続けるだろう、強者たる自然の荒くれた土なのです。 そして、街道脇の酒場で呷(あお)るバーボンや、トラックに寄りかかって葉巻きを喰いちぎる様な事の全てが、出て来る音を選ばせたのです。 一方、フェアポート・コンベンションの音楽の奧に在る土は、太古より人間と交わり、その営みを無言の優しさで認めて来た土です。 英国古謡に歌われる荒野は、赤い岩肌をさらすアメリカのそれには似ない、ヒースの生い繁る丘が連なる高原なのです。 そして陽光は明るく、空気はひんやりと落ち着き、その中に棲む人間一人一人の則(のり)を、自(おの)ずから定めているが如くです。 フェアポートの音楽が、アメリカのウエスト・コーストのフィーリングから出発して、一歩一歩イギリスのトラッドへと遡って行った変化とは、一体何だったのでしょう? それは、六六年にエレキ・ギターを抱え、バーズの音を出そうとしていた三人の同級生達が、やがて、干し草の中に沈む暖かさを貴く思い、スタウトの苦みに笑(えみ)を洩らすようになる。 そんな変化の全てが、音楽に映されたのだとぼくは思うのです。 さて、英国人であるフェアポートの面々が、英国の土から立ち登る物を捕らえて、自分達の音楽の寄辺とする事は自然だとしても、では一体、日本人のぼく、ひょっとしてあなたが、その音楽に心酔し聴き惚れるのは一体何故なのでしょう? アメリカの音楽に対してもそうです。 その奧に南部の土が在ると言われるザ・バンドの音楽を良いと感じるのは何故でしょう? それは、その演奏者達が、自分の心の、どれ程の真実の声に駈られて、その音楽を演奏するに至ったかに懸(かか)っています。 音楽に聴く感動とは、熟達した奏者が聴く者の為に用意する物ではなく、音楽とその奏者との、偽りの無い関わりの中からこそ、生まれて来る物なのです。 その関わりが真実であれば、その音楽は、言葉さえ解らないぼく達をも、感動させる力を持つのです。 ザ・バンドもフェアポートも、奏者と音楽との関わりが達した、稀れに見る高みで演奏しているのです。 二つの音楽の音その物は、正反対な程違うのに、彼等が米・英の好対照として語られるのも、そのせいだと思います。 ザ・バンドの音楽の底に眠る土は、永遠に挑戦の対象であり続ける土です。 そして、彼等の音楽に土を感じるのは、彼等が、正に挑んでいる相手としてなのです。 酒場で呷(あお)るバーボンに挑み、葉巻きを喰いちぎる事に挑み、そうした事の全てに挑むのが彼等の音楽です。 ところが、挑み続けるという事は、決して勝てないという事です。 勝てないからこそ、彼等の音楽には、あの哀感が滲むのです。 勝てないからこそ、彼等はあの音楽を演るのです。 其処には、力を称え合う敵味方の勇者の間に生まれるような、塩からい愛が在ります。 フェアポート・コンベンションの音楽にたちこめるあの匂いをはぐくんだ土は、人間の営みを無言の優しさで認めて来た土です。 それは、雨や雪と共に、人間の喜怒哀楽も歴史も、夢も祈りも、それ等全てを、その墓場として受け入れて来た土なのです。 だから、あの肥えた英国の土の匂いとは、その上に生きて死んだ物全ての死臭という訳です。 そしてその匂いは、それを呼吸して生きる誰かに、その生活はもはや新しくなく、新たに考えるべき事は何も残っていないという秘密を、教えてしまう事があるのです。 その人間が賢い時にのみ。 フェアポート・コンベンションはアルバム毎に、この土の匂いが意味する事に気付いて行った様子です。 そして、理不尽な罪に落とされながら抗弁さえしなかったジョン・リーの様に、彼等も又、英国の土に挑む事をしませんでした。 土は、賢い彼等を呼び招いたのです。 彼等は土を、あらゆる生活とあらゆる思想が死んで眠っているその土を愛し、そこに彼等の音楽を委ねて行ったのです。 ぼくにとって、彼等のその音楽は、ザ・バンドと同じ位切迫した響きを持って聴こえて来ました。 彼等には、土の匂いを聞きつける知恵が有り、もしその神託を受けなければ、他のミュージシャン達のように、希望を持って創って行ったろう音楽を、見限って来た痛みが在った筈です。 彼等のその苦難は、『フル・ハウス』以来、アルバムの中のオリジナル作品に滲み出ています。 デイヴのフィドルの素晴らしさは、その胸を詰まらせる訴えなのです。 そしてこの後、オリジナル・メンバーだったリチャード・トムプソンも去って行き、サイモン・ニコル、デイヴ・スワーブリック、デイヴ・ペグ、デイヴ・マタックスの四人で、『エンジェル・ディライト』に臨みます。 デイヴ・マタックスは努めて陽気に、歯切れの良いリズムを送り、神々しい程に切ない四人のヴォーカルを、いやがうえにも引き立たせています。 そして、彼等やスティールアイ・スパン等の場合、ロックのビートとは、自分達がトラッドへ歩み寄って行くための、大切な手段(てだて)として用いる物であって、トラッドを現代的な音楽に変えるための薬ではありません。 又、健気な程結束した心は、「浮世の戯事(ざれごと)の悪魔」という、ニコルとスワーブリックの曲に著しく、アルバム全体には、隠しきれない憂愁の漂う、それは敬愛すべき作品なのです。 そのアルバムは、二〇年余の刑期を終えて、村の生家に帰った彼が、老いた母親と並ぶ写真がジャケットです。 そして、LP両面のバラッドでは語りきれない事件の詳細と、ジョン・リーの心とを、彼自身がつづったノートが付いています。 その手記の最後に、奇蹟が彼を救った後の、故郷に帰る迄の期間について彼はこう書いています。 生きながらの死を耐える事が、どんな墓の恐ろしさよりも、恐ろしいという事を知らなかったのです。 それ等の日々の内で、徐々に大きくなる山は何かという事、私の肩で重さを増して行く、心痛と辱しめの荷の事を解らずにいたのです。 私は男として、男たろうと考えました。 人生を考える事、その時だけが、私にとっての良い人生だったのです。 ヴォーカルはいよいよ冴え返り、古めかしい手製のメロディーを、一層古めかしく、尚且つ想い切々と唄います。 とりわけ裏面で、ジョン・リーがお告げの夢を見る前に、たった一曲だけ、フェアポートが語り手の立場からの四行を唄う下りは見事です。 唄も、デイヴのフィドルも、彼等以外には絶対に創れない種類の緊張を創っています。 フェアポート・コンベンションは、今、立ち停って、険しかった道のりを振り返って見ているのでしょう。 自分達の曲で故事を語ってみたいという願いと、その奇蹟の物語に自分達をシンボライズさせようという気持ちから、このアルバムは生まれたのだと思います。 彼等が今日まで来た道を、明日からも行くなら、苦難は何処迄も続くでしょう。 メンバーの変動も起こるでしょう。 グラム・ロックもパンク・ロックも、ティーンの雑誌のグラビアの景物でしかなく、その事自体に時代が反映されている、と言えば言える。 この程度の認識でした。 そのぼくにしても、最初のロックへの開眼はビートルズでした。 このビートルズの出現が、ロンドンではなくリヴァプールであった事へも、昔から様々な考察が加えられてきましたが、「リヴァプールであったからビートルズが生まれた」と言うためには、彼等の初期の音楽に対する従来の定説を、少々ずらせてみたい気がします。 それは、彼等の音楽のそもそもが、テディー・ボーイの社会への反抗から発していた、というあの説です。 それは六〇年代初期のアメリカン・ポップスよりも、もっと古いテイストを持つもので、ロンドンではもう風化しつつあったものです。 それがなぜリヴァプールから蘇生し得たかと言えば、あの有名なスキフル・ブームの残影が、ロンドンではブルースを中心として分化し、地方ほど古い視点が保たれてきた、という背景があったのではないかと推測します。 ビートルズそのものはその後、誰もが知る通りのふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]を獲得して行ったけれど、それはもう、都市だの地方といった概念を溶解すべき音楽としてでした。 アメリカ勢はカントリー、フォーク、ブルース、ゴスペルといった、そのルーツに立脚したロックの創造を志し(ここからしばらくが、アメリカン・ロックの黄金期であったと思います)、他方イギリスのロックは、よりルーツから解放された、無国籍かつ宇宙的な何かをロックに求めようとしました。 この時点から、ぼくの英国に対する興味は、フェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパンといった、トラッドにアプローチするロックに偏って行ったのです。 一体、宇宙的な音楽というものは存在し得るのでしょうか? 宇宙空間に音は無いはずです。 あったとしても、誰もそれを聴いた経験はありません。 こうした音楽を真剣に聴くことはできません。 当時、ストーンズが来日するのしないのという騒ぎの内で、彼等に関する当誌のアンケートに答えて、ぼくはおおよそ次のように言った記憶があります。 「グラム・ロックが主張する文明の終末は、単に英国のロックの終末に過ぎず、真に終焉への恐怖と憧憬を持って音楽するロック・バンドは、ひとりローリング・ストーンズのみです。 言い換えると、エキセントリックな化粧も衣裳も、同じくファッション化したジーンズ、Tシャツ以上の意味は持ち得なかったのです。 英・米の場合は、異人種の文化も混在します。 都市に集った若者達には、既にして現代的でありたい希求があるでしょう。 それも当然といえば当然ですが、ただ、その「新しい物」に対して、情報を流す側も受ける側も、共に一種の強迫観念に駆られている点が問題でしょう。 一体、音楽はなぜ新しくなければならないのでしょうか? 都市が音楽を製造し、都市が音楽を消費する現在において、ロックは車輪であり、若者はその内側に乗って走る二十日鼠のように見えます。 話をいまのイギリスに移しましょう。 もう少し名の知れたところで、ブリンズレイ・シュワルツ。 彼等の初期はウェスト・コースト志向のカントリー・ロックでしたが、『ナーヴァス・オン・ザ・ロード』、『プリーズ・ドント・エヴァー・チェンジ』の後期になると、六〇年代初期のアメリカン・ポップスをパロディックに表現し、解散後はいま話題のグレアム・パーカーをプッシュしています。 グリース・バンド、ヘンリー・マクロー、ゲイリー・ロックラン、ブライン・ハワース、フランキー・ミラー、ジェス・ローデンといった人達のロックは、街の騒音とは混じり合わない街の音楽でしょう。 ただし、ざっと並べたこれ等の人達は、初めにお断りしたように公平ではなく、ぼくの聴いてきた人達の内からかい摘みました。 更に酔狂な方は、アルビオン・カントリー・バンド、アルビオン・ダンス・バンド等にも耳を通してみて下さい。 もし日本にたとえるなら、東京は東京のロック、大阪は大阪のロックといった風に、音楽はその地域性を保ってこそ、逆に普遍性が得られると信じるからです。 〔『ニューミュージック・マガジン』1977年8月号〕 トラッドの受け入れられ方 —ロック・ファンにむけられた伝統音楽の新しい道 トラッドという言葉に初めて出会う人はいるだろうか? いるかも知れない。 ただし、ここで言うトラッドとは、スコットランド、イングランド、ウェールズ、アイルランドを含めたブリティッシュのトラッドである。 トラッドという語は単にトラディショナル(伝承の)の短縮型だから、どの民族もそのトラッドを持っていることになる。 もちろん英国に起源を持つ曲も少なくない。 しかし、表現の成り立ちが決定的に違っていると思う。 カリフォルニアのパサディナに、J&Fというマイナー・レーベル専門のレコード問屋があって、ここではブリティッシュ・トラッドも重要な商品だ。 そこで出すカタログは懇切丁寧で、その道の人の重宝な手引きとなっているが、このリストのアーティスト名の次には、トラディショナル・シンガー、またはリヴァイヴァル・シンガーという表記が必ずある。 このトラディストとは在郷のヴェテラン・アマチュアを指し、彼等は土地の歌だけを歌う。 一方リヴァイヴァリストは、文字通りフォーク・リヴァイヴァル以降にこの道に入った人で、キャリアはまちまちながら現在もその数を増しつつあり、多くは長髪のトラッド演奏家達だ。 この両者間に交流が保たれてきたのはもちろんで、トラッド・アルバムのライナーによく「この曲はどこの誰さんに習いました」といったクレジットが見えるのがその証しといえる。 トラディストとリヴァイヴァリスト、このアマとプロとの境界線を引けない関係が、各地の数多いフォーク・クラブで一〇年以上継承されてきた実績、それを支えた民衆意識の堅固さ、そうした総力が今日のブリティッシュ・トラッドの興隆を生んだのだろう。 イングリッシュ・フォーク・ダンス&ソング・ソサエティーという、多少アカデミックな、そして奇特な団体もロンドンにある。 しかし、それらはあくまで、アコウスティックなトラッドの世界でのことだった。 ロックから出発してエレクトリック・トラッドに進んだ若者達、更にはそれさえも物珍しく聴く作業から始まった日本の聴き手達にとって、ここ数年、トラッドへの道は決して平坦ではなかったのである。 英国ではいまも、オーセンティック・サイドからいわば公認されたエレクトリック・バンドは、アシュリー・ハッチングスを中心としたアルビオン・ダンス・バンドくらいということだ。 しかしここでは、両者の葛藤及び融合の歴史を語るつもりはない。 いま、この文章はロック誌の場で書かれている。 ぼくがトラッドを広めようとしてきたのも、ロックの店であるブラック・ホークにおいてだった。 ある程度それが報われつつあるいま、そこを自分が去るというのも皮肉な巡り合せだが、ただ、トラッドが登場すべきより相応しい舞台が、別のどこかに在り得ただろうか? そうは思えない。 なぜなら、現在トラッドに親しむ人の殆どは、ロックをも聴く人か、或いはかつて聴いた人であろうから。 つまり、ぼく達はペンタングル、フェアポートから出発したのである。 以後の数年間を、ぼく及びぼくの身辺を通過した若者達を通して、年代記風に辿ってみたい。 まず、ぼくは仕事の上で音楽を掛けていたのだから、自分の好きなものばかりを聴かせるつもりは無かった。 同時に、認め難いものも決してコレクトしなかった。 その意味では偏ってもいたが、どちらも仕事としてやったのである。 自ずとそこにはある幅が在った。 ジャズからいきなりロックに首を突っ込んだぼくは、六九年以来、掴み切れないその音楽を聴き漁った。 彼等は伝承音楽を土台にしているのだという。 しかし、前者の演奏のソフィスティケイションと、後者の土臭さとの差異に戸惑ったりしていた。 「クルウェル・シスター」や「マティー・グローヴス」が古謡なら、その原型を演じる人間もいるのではないか? とも思った。 そんな結び付きが、何かへのめり込む原因になり得る年頃だったのだ。 しかし、真にオーセンティックなトラッドには出会えぬまま、やがて登場したスティーライ・スパン(二作目が先)が、先述の二グループに勝る土臭い演奏で、ぼくに新しいショックを与えた。 「これこそが自分にとっての英国だ」と思ったのだ。 時の若者達はどうだったろう? 彼等に対して最も大きな力を持っていたのはウェスト・コースト・サウンドであり、ブリティッシュといえば、好き嫌いには関係なくハードとプログレッシヴ・ロックだった。 彼等はそれを、ウェスト・コーストのイギリス版と捉えていたようだ。 一般の若者はといえば、フェアポートだのスティーライが掛かると、店の出口に列を作った。 現在では考えられない光景である。 つまり、まだロックという言葉の意味が、六九年の頃と変らない型で、彼等の心に宿っていたのだろう。 七一年だったろうか? 当時はそこだけが頼りだったヤマハのイギリス盤コーナーで、初めてぼくはトレイラー・レーベルのレコードを見つけた。 ニック・ジョーンズの『バラッド&ソングス』。 古風で質素なデザインのジャケットにそう書いてあったのだ。 クラシックのコーナーを捜していたのではない。 アーティストの小さな顔写真は、やや長髪の主人公が三〇歳そこそこであるのを物語っていた。 裏返して曲名を見ると識っているのがあった。 「サー・パトリック・スペンス」。 ——フェアポートが演っている! こんな風に、レコードを通じてトラッドの世界へと溯る旅は始ったのだ。 恐らく、この頃からトラッドを聴きだした人達はみな同様だったと思う。 やがて、少ない情報を頼りに、このトラッド専門のトレイラーのレコードを特注するようになった。 トピック・レーベルが入るようになったのは、一年ほど遅れていたと思う。 こうして少しずつ集められていったのが、トニー・ローズ『ヤング・ハンティング』、ロイ・ベイリー、デイヴ・バーランド『ア・デイルズマンズ・リテイニー』、マーティン・ウィンダム・リード等のアルバムだったが、入手順序と発売順序は無関係だった。 さて、これ等をぼくがどう聴いたかだが、元より言葉は解らない。 予想してはいたが、伴奏は極端にシンプルだ(もちろん無伴奏もある)。 しかし、そんなことより、まず発声が違うのである。 これまでに聴いてきたどんな種類の歌とも、それは違った発声で歌われていた。 エレクトリック・グループによって識っていた歌も同様である。 ある未知の型にはまった、別世界から流れてくる歌。 この事実に最も驚かされたのであった。 そこでぼくは、きれいなメロディーの、人間味のあるものを多く聴いた。 その意味では、ニック・ジョーンズとデイヴ・バーランドが好きになった。 これ等のシンガーは、もちろん全員がリヴァイヴァリストである。 しかし、それでも彼等とぼくの間には、目に見えない一枚の幕があったと告白しよう。 同時に、ぼくに聴き続ける決心をさせる何かが、その向こう側には在った事も。 初めてブラック・ホークでトラッドを掛けたとき、客は嫌がるというより、唖然とした。 いきなり男が女湯へ入ってきたようなものだ。 無理もない。 そしてやがて、それがトラッドという物であることを識り、次第に驚かなくなり、そうなるに従って、かつてフェアポートやスティーライに対したのと同じ遇し方をする様になった。 こうなると、仕事としてレコードを掛けているぼくの立場は、あまりうまくないのである。 以来この方、ぼくはトラッドと商業上の要求との板ばさみとなった。 それはもちろん、コンテンポラリー・フォークを底辺としての拡がりだったが、その内で、エレクトリック・トラッド・バンドの地位は浮上した。 分けても、この動きから生まれた最大の遺産は、シャーリー・コリンズとアルビオン・カントリー・バンドの『ノー・ローゼズ』だろう。 これほど立派なものが現われると、「このもう一歩先には、あのトラッドが在るのだ!」、そうぼくは叫ばないわけにいかなかった。 もちろん、自分のためにも。 しかし若者達にとって、エレクトリック(というよりロック・ビートの付いた)と、そうでないトラッドとの間に存在していた物は、幕ではなく、壁だったらしい。 それはごく少数の人が突破したに過ぎなかった。 ブリティッシュ・フォーク・ブームは程なく、幼児の吹く風船のように、脹らむ半ばで萎んで行ったのだ。 ぼくの監修したフォノグラムのレコード・シリーズも、発売予定の半分で中断された。 切り捨て組には、先の『ノー・ローゼズ』や、ティム・ハート&マディー・プライアの『サマー・ソルスティス』が在った。 これ以降、ブリティッシュ・フォークは、少なくともレコードに関する限り、暗い冬眠期に入って行ったのだ。 七三年の事である。 以来ぼくは、雑誌等で発言の機会のある度に、ブリティッシュ・シーンの腑甲斐なさを嘆き、かつなじり続けた。 ところが、個人的にはそうではなかった。 初めて聞いたのは七二年だったろう。 ディック・ゴーガンの『ノー・モア・フォーレヴァー』が、トラッドとぼくとの間の幕を取り払ってくれていたのだ。 世間の事はどうでもいい。 わけの解らないスコティッシュの、重く暗い彼のシンギングは、地の底から湧き出てぼくをトラッドの世界へと引きずり込んだのだ。 それからは無抵抗だった。 『フェイト・オ・チャーリー』のアーチー・フィッシャー、『ボニー・バーディー』のレイ・フィッシャー(アーチーの妹)、『フィノミナル』のバーナード・リグリー、そして『ラヴリー・オン・ザ・ウォーター』のフランキー・アームストロング等(この時にはトピック盤も入ってきていた)、その世界の住人達は、抗い難い歌の力で、ぼくの周りを囲み始めた。 その力は、夢から醒ますまいとする、夢のなかの力の様でもあった。 あれは一体何だったのだろう? そこには、いわゆる喜怒哀楽の表出は無い。 表出はないが、閉じ込められ、圧縮された重みがある。 彼等は歌を歌っているが、それは自己表現ではないのだ。 生きているのは歌そのものである。 何百年間と民衆の心が込められてきたその歌に、彼等もいま語り部となって献身している。 これがトラッド・シンギングの型であり、そのための発声なのだ。 外国人にとって、英国トラッドの臭みはこうして生まれ、このシンギングをしないエレクトリック・トラッドとの壁も、こうして生まれたに違いない。 しかし、ナチュラルな歌い方では、トラッドの本当の味は出ないだろう。 ぼくは何人かのトラッド好きの客の顔を、憶え始めていた。 しかし依然として、トラッドは重箱の隅の存在であり、先述したレコードも、三年程の間にポツリポツリと、やはり発売順序と関係なく入ってきたに過ぎない。 一般的関心からは、切り離されていた。 七五年になると、トレイラー、トピックからさえ、大した新譜は来なくなった。 「トラッドはどうなったのかね?」「ありゃもう駄目だよ」なぞと、顔を合わせばぼやいていたトラッド・ファンが、再び気色ばんだのは七六年に入ってだ。 まず七三年以来お蔵入りになっていた、アルビオン・カントリー・バンド『バトル・オブ・ザ・フィールド』の出現に勇気付けられた。 続いてマディー・プライアとジューン・テイバー『シリー・シスターズ』、マーティン・カーシー、アーチー・フィッシャー各々の新作登場と、たわんだバネが戻る様な勢いで、質も高く量も増え始めた。 こうなると、「英国で何か起こっているのだろうか?」という想いに駆られだすが、実際に起こってきたのだ。 これまでには存在すら識らなかった地方のアーティストや、新人達が続々と姿を現わし始め、それに伴い、地方的特色も明確化された。 この傾向は今年にも及び、分けてもアイルランドの活況が著しい。 ヴェテランのクリスティー・ムーアを始め、ボスィー・バンド、トリオナ、キングス・ギャリアード等はゲーリックの民族意識を明るく鼓舞し、ライアン・ウェルドンの歌唱は超アイルランド的だ。 北アイルランドではヴィン・ガーバットの功績が大きい。 スコットランドでは、フィッシャー・ファミリーのプリシラ・フィッシャー&アーティー・トレザイス『バルカンクォール』が、重厚にして明確なシンギングの伝統をよく捉え、かのディック・ゴーガン率いるエレクトリック・バンド、ファイヴ・ハンド・リールは、メロディー・メイカーのフォーク・ポールを得て既に全英的スターだ。 ウェールズ出身のビッグ・ネーム、ニック・ジョーンズの『ノアズ・アーク・トゥラップ』は、トラッドとして革新的な演奏を展開する。 イングランドで目立ったのがピート&クリス・コウの『アウト・オブ・シーズン/アウト・オブ・ライム』で、ここにもプロデュースの革新性がみられ、この点での最大の成果は、新人ジューン・テイバー『エアーズ・アンド・グレイシズ』だろう。 この他、フェアポートのフィドラー、デイヴ・スウォーブリックも、彼本来の立場に帰ったインストゥルメンタル・ソロを二作発表した。 こうして挙げてみると、トラッド・シーンは活発であるばかりでなく、質も新しくなろうとしている事に気付く。 エレクトリック楽器を使用する、しないの問題を超えて、レコード創りそのものに対する意識が変った。 シンギングの鉄則は変らない。 しかし楽器の配置や録音方法によって、アルバムにリアリティーを生む事に成功し始めている。 そのせいか、トラッドを女湯の男と感じる人は稀になった。 リクエストも日常的だ。 その背景には、米国音楽の現状に対する不満があるのかも知れない。 ともかくぼくは嬉しかった。 しかし、いまトラッドを聴く若者達の殆んどは、かつてトラッドに踵を返して帰って行った、あの若者達ではないのだ。 ぼくの仕事は本質的に、時の若者を相手にするものだった。 だが彼等はいずれ、各々どこかへ行ってしまい、ぼくだけ残るのが常である。 フェアポートやスティーライの好きな連中もずい分いたが、彼等はいま、どこかでトラッドを聴いているのだろうか? 最近ぼくが一番よく聴くのは、アーチー・フィッシャーの『ウィル・イェー・ギャング・ラヴ』である。 もちろん家でだ。 フェアポートがトラッドにアプローチしたということは、あるグループはジャズに、又あるグループは現代音楽に接近したという類の別な一例ではないのだから。 楽器と声とが織り成す時間に覚える味わいとは、すべてその音楽と聴き手の過去との触れ合いにすぎないからです。 さてここでなお音楽家が、あのドラッグ・ミュージック式の、肉体への企てを潔しとしないフォーク・アーティストであれば、彼は、感性の呪縛から羽ばたき出ようとする音楽的な試みのすべてをはしたない悪あがきと黙殺する筈だし、又彼の正しい努力は、限られた、しかし思考を超えた感性の闇深く降りて行く方向にしか有り得ないでしょう。 百万の人間の血に流れているに違いない、過去という無二の財産のエッセンスを求めて——。 この時のナショナリズムの高揚の名残りはやがて、アイルランドに脈々と生きている人と歌との運命的結びつきに触発されて、民謡の復興を志す幾人もの研究家や歌い手を生んだのでした。 四〇年代末期から五〇年代に至るこの復興運動では、各地に細々と伝わる歌や舞踏曲が採取され、それを発表登録する機関紙も設けられ、フランシス・チャイドルやセシル・シャープといった前世紀の学者の業績以後の無関心の闇へ、久々に知的な光が当てられたことになります。 又この時以来の運動家で、現在のフォーク界に重きを為す人も多く、ビル・リーダーやA・L・ロイド、歌手のイワン・マッコールやイアン・キャンベルなぞは、現在活躍する若手達の育ての親とも言えるでしょう。 しかし、髪の長い、ガソリン・アレイ育ちのトラディスト達は、祖国の民謡復興という運動を継承するために歌っているのではありません。 彼等が今トラディストであるためには、もうワン・クッションが必要だったのです。 六〇年代、ギターを伴奏に自分の歌いたいことを歌う、という米国のフォーク・ムーヴメントは英国にも波及し、多くのボブ・ディランやジョーン・バエズのフォロアー達が誕生したのは、あのロック革命の数年以前でした。 その幾人かはロックへと浮上して行き、又幾人かは自国のフォークロアのより深くへと沈んで行ったのです。 彼等がトラッドに出合い、それを唄うに及んで先の先輩達から学ぶ所の大きかったのは勿論ですが、しかし彼等の出発点でもあったボブ・ディランを認めないイワン・マッコールとの間には、ある世代的なギャップも又存在していました。 それでもなお、トラディストへの道を進んだ者達の心を支えたのはうつつのナショナリズムではなく、あの潔い諦念と、自己を超えた過去に身を委ねて行く気概であったろうと思います。 六二年の渡英でディランは、マーティン・カーシィの唱う「ロード・フランクリン」に啓発されて「ボブ・ディランズ・ドゥリーム」を書き、ポール・サイモンが「スカーボロ・フェア」を唄ったことも、英国のトラッドの蘇りを物語る別なエピソードではあります。 さて、時は更に下り、スキフル・ブームを土壤に無数のロック・グループが現われ始めて、それらが現在の英国のポップ・シーンを形成するに至ったわけですが、その千差万別の分化の過程でここに問題となるのが、米国は西海岸のフォーク・ロックに啓発されて発足したフェアポート・コンヴェンションの発展なのです。 更に、この流れのなかで初めて、ロックから出発した若者達とフォーク・リヴァイヴァル以来のトラディストとの出合いが実現したことこそ重要です。 分けてもアシュレイ・ハッチングスは、マーティン・カーシィの協力を得たスティーライ・スパンの二作でエレクトリック・トラッドに金字塔を打樹て、現在は、妻であり女性トラディストのシャーリーと共にアルビオン・カントリー・バンドを主宰しています。 又今回来日するフィドラーのディヴ・スウォーブリックもフェアポート加入以前には、マーティン・カーシィやイアン・キャンベルの許でプレイして来たトラディストであり、ベーシストのデイヴ・ペッグも又イアン・キャンベル・フォーク・グループからこのフェアポートに投じたのでした。 〔フェアポート・コンヴェンション来日公演プログラム1974年1月〕 始めに歌ありき 「新年の祝いの日、ダーネル卿の夫人は教会に聖歌を聴きに出掛けました。 そのお開きの人混みのなかで、彼女は美少年のマーティー・グローヴスに見惚れたのです。 『うちにいらっしゃい、可愛いマーティー・グローヴス。 そして朝まで一緒に寝ましょう』『いえ、そんな事はできませんし、行きたくないし、一緒に寝たくもありません。 手のその指輪で、あなたがダーネル卿の奥方だと判ります』『そうだとしても、ダーネル卿は留守なのよ。 遠くの荘園に年貢を取りたてに行っていて』」 こんなにストレートなやりとりは現代の歌には存在しない。 これは「マーティー・グローヴス」という一九番まである英国バラッド(物語歌)のさわりの部分で、六九年に、フェアポート・コンヴェンションというバンドがロックのフォームで演奏して有名になった。 以来、このトラッドにこだわり、遙かロックの彼方に潜むらしいもっとピュアなものを求める少数派が生まれ、その関心はロック・シーンの華麗な変遷の陰で今日まで保たれてきた。 レコードを探し、買って聴くという常道にとどまらず、フィドル、ダルシマー、コンツェルティーナ(小さなアコーディオン)、ティン・ウィッスル(ブリキ製の安い縦笛)等、トラッド演奏で使用される楽器に自ら取り組む機運も見え始めている。 いま流行?の音楽状況に対するグチも、トラッド・ファンには適用しないのだ。 ぼくは民族音楽の研究家ではない。 ある音楽を単に好きなだけだ。 だからこそ、ここで英国のトラッドを語ることは、その道の専門家がジプシーの音楽を、あるいはピグミーの音楽を語るのとは意味が異なる。 いま英国で、そのトラッドが盛んな事実は、また日本にもファンが増えている状態は、ロックのポップ化を嘆くのと同じ地平で捉えられるべきだ。 トラッド・ファンは殆んど総て、ロックを通じてそれを知ったのだし、巷に溢れる様々な音楽を、普通の人と同じように呼吸してもいる。 本場のトラッド・プレイヤーにしてもそうだ。 彼等はロックを聴いているし、米国の状況も見ている。 彼等の営みは、民謡保存が目的ではない。 ここ一〇年来のロックの歩みを振り返ると、七〇年代に入ってからの英、米の質的分化が、最もアクティヴな印象として残っている。 つまり、米国勢はカントリー、ブルーグラス、ブルースといったベーシックな要素を取り込んだアメリカン・ロックを目指し、他方英国勢は、ファッション性を伴ってよりハードに、プログレッシヴになろうとしたことだ。 当時、男が化粧をしたり、映像を加味したステージを演出したり、ジャーナリズムが飛び着きそうな新奇なことは総て英国から生まれた。 この段階では、ぼくは文句なくアメリカ派だった。 それが例えば先述したフェアポート・コンヴェンションであり、そこから派生したスティーライ・スパンであり、別の系統のペンタングルだった。 彼等はロックの語法でトラッドを演じ、それはエレクトリック・トラッドと呼ばれた。 エレクトリック・トラッドはある程度のファンを獲得したが、その人達が全部、よりオーセンティックでアコウスティックなトラッドのファンになったわけではない。 ロックを通じてトラッドを知った者にとって、本格のトラッドはシンギングそのものが大きな抵抗となった。 およそ現代の歌唱においては、感情は高いボルテージで表現される程よく、同時にそれは歌い手自身のものであることが良しとされる。 ところが英国トラッドではそうではない。 喜怒哀楽はある発声の型のなかに封じ込められるのだ。 したがってそれは、歌い手の現状を表現するための歌唱ではない。 始めに歌ありき。 良きトラッド・シンガーは、幾世紀をも歌い継がれてきたその歌に、語り部となって身を献じる。 歌に生命を与えるのだ。 だから、そうして歌われた歌を聴いて感動した者は、歌い手個人の有り様に触れたのではなく、歌のなかに堆積し、普遍化した民族の喜怒哀楽に出合ったのである。 歌と人とのこうした関係は、同じトラッドがアメリカに渡ると消えてしまう。 この関係はむしろ、日本の民謡と唱法に見ることができる。 この、本格のトラッドを聴く若者が増えつつある。 前々号、前号とこの欄で続いたロック・シーンへの批判の意識が、彼等の土台としてもあるかも知れない。 ロックが健全にその生命を燃焼させていたころ、トラッドは好事家の愛玩物の立場に雌伏していた。 例えば、シンセサイザーを使用したレコーディングさえ行われているが、その場合、シンセサイザーは決してシンセサイザーとしての自己主張はしない。 あくまでそれは、トラッド世界の景物としての役割に限定されていて、多くはバグ・パイプ的な効果に用いられる。 最後に、「トラッドを聴いてみようか」と思う方へ、次のレコードを推薦しておく。 ロックやフォークを語るどんな文章も、偉人としての彼の扱いは守って来ました。 お陰で僕達は、彼の足跡とその意味については、手近な雑誌やライナーノーツから、不自由なく知ることが出来るし、それを教えようと待ち構えている人に出会う事だって珍しくはないのです。 彼に関する場合は。 そんな時、ボブ・ディラン自身が、彼の評価や名声に対してとてもシニカルだという事も、決まって聞かされますけれど、その話は彼を一層神格化するのに役立っているようです。 彼について語られた沢山の言葉は、そっくりディラン城の城壁となり、音楽を通じて彼に近づこうとする誰かから、その城主を護っているみたいです。 彼のアルバムが発売されると、一年に一度だけ開かれる城門の奥に、王様の素顔を垣間見ようとでもする様に聴衆は殺到します。 新しい膨大な量の言葉が立派だった門を塗り込めて、非の打ち所無い城壁が再びそびえているという次第です。 それでは、その城壁の上塗りをする事無く、彼について語る言葉は無いものでしょうか? その城壁の何処かに、人一人通れる通用門等は無いものでしょうか? 其処で、彼がどんなに偉大で、現在の歌全体にどんな測り知れない影響を及ぼしたか、という知らぬ者の無い事実はさて置き、見知らぬ歌手の聞き慣れぬ歌として、歌詞カード片手に彼のアルバムを聞いてみてはどうでしょう? そうすると僕には、あの古びた賛辞の城壁とは別の、新しい高い壁が見えて来てしまいます。 所がいやはや、それも言葉の壁なのです。 でも今度は誰が造ったのでもない、彼自身の手造りに成る、言葉の煉瓦で組まれた、意味有り気な壁なのです。 尤も、誰の歌だろうと、それが外国語で歌われる以上ぼくには越え難い壁なのですが、彼の場合は更に深刻なのです。 なぜってボブ・ディランは、自分がたまたまアメリカ人だったから、詩を書く時に英語を用いたのではなく、彼がアメリカ人で、英語で話し英語で考えてきたからこそ、生まれて来た様なのが彼の詩だからです。 彼の発想、感覚その物が正に英語の質に依っているのです。 もう少し言うと、英語の単語は、日本語の一つの言葉の様には、それ自身の生命を持っていないと思います。 つまり、日本語程、扱い次第であやふやな、余裕の有る物ではなく、それは、明確な記号としての役目を負っている無機的な物だと思うのです。 ディランの詩では、その英語の特質が逆用されて活きていて、それはまるで、記号と記号が習慣とは違ったやり方で結びつけられたシュールな鎖、個人的な暗号文なのです。 それは本場の英語国民にとってこそ、より切実でディラン当人を幽閉してしまう程の解釈の城壁が築かれてしまったのも、そのせいだと思うのです。 棺を封じる葬儀屋は嘆く/孤独なオルガン弾きは泣く/ 銀色のサキソフォンは君を拒めと言う/ギンゴンと云う鐘と 出鱈目(でたらめ)な角笛とがぼくの顔に嘲りを吹きまくる/ そんな風に、君を失う様にしか生まれなかったぼくだけど/ 君が欲しい/どうあろうと、君が、君が欲しい(大意) これは"I Want You"の始まりの一節ですが、比較的ポピュラーになったこの曲にして、かくの如しです。 恋がかなわぬ事を知っている自分を葬儀屋にたとえて、愛の埋葬にため息をつかせたり、その恋をさまそうとする理性の声を、銀のサキソフォンの音にたとえたりする歌が、これまでのポップスにあったでしょうか? そして望みを絶つ他は無い自分を、シニカルな調子で唄い終えた次の瞬間、最もシンプルなその言葉"I want you"が繰り返されてしまう時、この歌に生々しい現実がいきなり姿を現わして感動的です。 ディランの詩の成り立ちを、ボッシュの絵(ディープ・パープルの三枚目のアルバムのジャケット等)にたとえた批評家もいましたが、それは彼の詩のイメージは、行から行へ、節から節へと流れ続ける事が少なく、切れ切れのままコラージュされて、多くは暗い一つの歌になっているのが多かったからだと思います。 彼の詩にこの傾向がハッキリし始めたのは"Another Side" 以後、つまりプロテストの歌を見限った時からと言われます。 そして、"Bringin' It All Back Home"、 "Hi-way 61 Revisited"へと、ロックのサウンドを持つに連れ、それ等の歌には難解なフレーズの重苦しいイメージが色濃く立ち込めて行くのです。 でもその難解さ、抽象的な言葉よりも卑近な言葉や名前が非習慣的に並べられた難解さは、ディランが一〇代の頃に盛んだった、ビートニクの詩に似ている様に思います。 そしてその事は、ディランがどんな人かを語る大切なキッカケにもなる気がするのです。 彼等の創る詩は、経験から拾い上げた具体的な物や土地の名が奇妙に生のまま現れながら、夢のような無秩序を型造っている、全くアメリカ的なシュール・リアリズムでした。 ボブ・ディランはこうした人々の血を受け継いでいると思うのです。 グリニッジ・ヴィレッジで評判になり始めた頃の彼を、最初に賞め上げたニューヨーク・タイムスの記者は彼の事を「聖歌隊の少年とビートニク族の合いの子みたいなディラン君は童顔で、黒のコール天のハック・フィン帽子からはモジャモジャの髪が飛び出てる。 彼は喜劇役者で悲劇役者だ。 どさ廻りのヴォードヴィリアンみたいにおどけながら、音楽の独白をあれこれご披露する。 気の利いた言葉はよく種が尽きないものだと思う位、自由自在に沸き出し、頭をふり、身体をゆすり、眼を閉じて想いをはせ、言葉と雰囲気をまさぐりながら、目指す言葉と気分を探り当て、その場をいい気分で満たして行く。 」と書いています。 こんな姿は、現在の落ち着いた彼からは想像しにくい役者振りと思える人もいましょうが、これは当時からシニカルな彼が、自分でも気に入っていた珍しい記事なのだそうです。 そして、ここに書かれた二〇歳のディランこそ選ばれて険しい道に旅立とうと勇みながら自信に溢れている若い孤独な野心家の姿をしているではありませんか。 なぜって、味方のいない時こそ生き生きとヒロイックにその場に賭けて演技し切る事。 それは、今の若者の世代の習慣からは失われた、あのビートニクの若者だけが出来た事なのです。 彼が人を笑わす事は、人に甘える事ではないのです。 道化となる事は彼のひねったヒロイズムのスリル溢れる活躍なのです。 肝心な事は、ヒッピー・ムーブメントから生まれて来たロック・ミュージシャン達とボブ・ディランとは、いわば血筋が違うのです。 「僕はいつも厳しい道を選んで来たんだ。 今後もグループで失敗するよりは自分独りで失敗する方がいい。 何で僕がそんな物になれよう。 僕はもう、その年代じゃないんだ!」と言ったものです。 最初に彼を有名にしたあの公民権運動にしてもそうです。 彼が運動の側の考えを持っていた事は確かだし、彼の歌が運動のシンボルとして唄われても、彼は皆のしたい様にさせて置いたけれど、でも自分が、正にそのために歌を作り唄う歌手なのだと思われるなんて、本当にそういう歌手にされてしまうなんて、彼には我慢がならなかったのです。 一度だって、彼は皆のために歌を作った事は無かったのです。 あの"Blowin' In The Wind"だって、彼は自分の歌として作ったのです。 彼は、人種差別反対運動への献金はしても自分には歌うべき自分の歌がある事を、"Another Side Of Bob Dylan"で示したのです。 それは少々無理をした作品でもあったけれど。 その中の有名な一曲"My Back Pages"は、彼をプロテストのリーダーにさせて置きたかった人々を失望させるに充分でした。 (大意) さて、若返ったと自ら言うディランそれから歌い始めたのは、独り道を求める人間の苦難の歌でした。 六一年のグリニッジ・ヴィレッジをハック・フィン帽子で旅立った彼の、本当に厳しい道はここから始まったという訳です。 その時彼は、少年時代からの彼の神様だったウディ・ガスリーの事をも、現実の一人の人間としてしか考えていなかったし、自分が常に、自分の問題の外、唄う歌の外に身を置き続ける事を旨としていました。 つまり、彼は選んで独りぼっちだったのです。 早くから彼はこう言っていました。 「偉大なるフォーク・ミュージックの中には、神職や魔法、真理、聖書と呼べる物がある。 僕の音楽の中にもそれを持ちたいと努力している。 」 彼の音楽が、例外的に黒人をも感動さす事が出来るのは、そうした彼の言葉が、本当に歌の中で実現されているからかもしれません。 しばらく彼はニューヨークに憑かれ、ニューヨーク・ガールを愛し、シティからの歌を唄い続けました。 それがエレキ・ギターを持ち、声高にシュールな詩を唄い、ザ・バンドにめぐりあった三年間だったのです。 ビートルズの "Sgt. Peppers-"が、人間を全員善人にしてしまう様な音楽のユートピアを作っていたのと同じ時、ボブ・ディランはあの息詰る "Blonde On Blonde"を吹き込んでいたのです。 ロビー・ロバートソンは当時の彼について、「もう止めさせなきゃ危険な位、緊張し、疲労した毎日を送っていた」と言っています。 そして幸か不幸か、ディランは交通事故で背骨を折り、一年近くも寝て暮らす事になったのです。 さて、復帰後の第一作、 "John Wesley Harding"が、カントリー・ミュージックに歩み寄っていた事は、又しても世間を騒がせました。 けれど、ディランにとっては、エレキ・ギターを手にした時も、このカントリーの場合も、あるサウンドを作るという事に興味の中心がある訳ではないのです。 その録音の後のあるインタビューで彼は言っています。 「ぼくは、新しいサウンド作りの様な事については何も知らない。 ぼくは只唄うだけだ。 」それから、「歌はいつも、何か昔の事について書かれるものだ。 ぼくは今、知っている事すべてを歌う事に満足している。 」そして、「人々の幻影、それは否定はし難い物だけど、それと関わり続けなければならないとは、ぼんやりとしか考えられない。 ぼくに出来る最善の事は、ぼくを満足させる事だ。 そうすれば思い悩む必要はなくなる。 」「自分のためにではなく、他人のために音楽をつくってみたところで、それは多分、その人達と関る事にはならないだろう。 」これが、ボブ・ディランの行き着いた心境だったのです。 ジョニー・キャッシュとデュエットした "Nashville Skyline"。 かねての願い通りに女声コーラスやストリングスをバックに唄った"Self Portrait"へと、彼の心は安らいで行く様に見えます。 挫けたという印象では無く、茶化したという風でもなく、安らいで行く様子なのです。 本当にそうなのでしょうか? 彼は語ります。 「ぼくは今、これ迄にやったあらゆる曲を聴くとすべて解る。 どうすればそれが完璧な物になるかは解らないが、自分が何をやったのかが解る。 昨日までは考えから考えへと追って行った事を、今はメロディー・ラインからメロディー・ラインへと辿る事が出来る。 」 彼の新しいアルバムは、来年になりそうです。 今年のアルバム "New Morining" の中の"Time Passes Slowly"の一筋を、最後に書いて置く事にしましょう。 時がゆっくりと過ぎる/この山の中/ ぼく達は橋のねかたに腰をかけ/泉の片辺を行く/ 魚をとろう/流れに浮かぶ/時はゆっくりと過ぎる/ 君が夢見心地でいる時に/昔、恋した人がいた/ 彼女は良い人で美しかった/二人は台所に腰かけていた/ 彼女のママがお料理の間/窓の外/ 空高い星を見やり/時はゆっくりと過ぎる/君が愛を求める時に。 その、当のボブ・ディランの名を、二〇人の人気者の中に見つける事が出来ません。 当代の人気アーティスト達から一目置かれ、各々の音楽への影響を口々に認めさせる彼が、少なくともこの日本ではそれ等後輩達の半分の人気も無いのです。 彼の音楽は難しいのでしょうか? 難しいとしたら、その何が難しいのでしょう? 「感じない」音楽というのは、誰にとっても有るものです。 その全てを「難しい音楽」と呼ぶとしたら、どんな音楽も誰かしらに「難しい」と呼ばれるわけで、その言葉の意味は、曖昧なまま定まる所がありません。 でも、ボブ・ディランの音楽は多くの読者にとって「難しい」かどうかは別としても、「感じない音楽」の一つなのだろうと思います。 そして、多くのアーティストやロック・ライターによる、彼への賛辞に出会うたびに、気に掛りながらもやっぱり「感じない」のだろうと思うのです。 例えば、ぼくは「プログレッシヴ・ロック」と呼ばれる類の音楽に、なんの感動も覚えない者ですが、それに関して気に掛かる事も有りません。 つまり「嫌いだ」の一言で安心して居られるのです。 何故かと言うと、その音楽の中に、ぼくの聴き取れない物が残っているとは思わないからです。 所で、「新ロック」のファンが、ボブ・ディランに感動しないとしても、実は、ぼくは不思議に思わないのです。 なぜなら、ロックに対する最もオーソドックスな反応のし方である「乗る」という体験にとって、ボブ・ディランに感動する様な感受性は、全く不必要だったからです。 いわゆるニュー・ロックと、ボブ・ディランの音楽とは、殆ど反対の方向を目指してやって来たと思います。 所が、昨年頃からこの日本に於いても、ロックの聴かれ方が変わって来ました。 いわゆるシンガー=ソングライター達が受け入れられ始め、ロックはフォークとの境界を、すすんで放棄したのです。 そして、いくらか移動したスポット・ライトの下に照らし出された人達、ニール・ヤング、レオン・ラッセル、ロッド・スチュワート、サンディ・デニー等、新しい彼等の音楽の奥に、いつも浮かび上がって来るのが、他ならぬディランの影という訳です。 だから、七二年三月号のこの雑誌へ、ボブ・ディラン名を記入せずに投票した読者のうちにも、「ディランなんか嫌い」で安心している人は、余り居ないと思うのです。 それならば、あなたが投票したアーティストが、一体ディランからどんな影響を受けたのかを、考えて見るのはどうでしょう? よく、影響というと、ギターのスタイルとか、リズムの感覚とか、サウンドの作り方について語られるけど、そのどれについても、ニール・ヤング、レオン・ラッセル、ロッド・スチュワート、サンディ・デニーの音楽の中に、ディランの模倣を聴く事はありません。 第一、彼等各々が皆、似ていない音を持っているのです。 ヴォーカルスタイルだって、誰がディランを真似ている訳でもなし。 では、最近のアーティスト達が口を揃える「ディランの影響」とは、一体何に表われているのでしょう? インタビュー等で、彼等がその点に触れるには、詩に関しての事が多い様です。 つまり、人としてのディランを尊敬していると言うのです。 詩とは、勿論言葉です。 だからそれは、その様な言葉を生む、ディランの精神的な体質が、彼等の範となっている、という事だと思います。 ディランの影響は、彼等の音楽が演奏されている音と成る以前、彼等の心構えに対してこそ、及んでいるという訳です。 とりわけ、フォーク・ミュージックの新しいメロディー・ラインは彼が創った様なものです。 まず詩が在り、その命令に従う様にそのメロディーは、時には詩を引きずったり、又詩の力で押し上げられたりして、唄う声になるのです。 およそ、「メロディー」という、改まった印象を与えないそのラインは「唄う」と「言う」の中間の道を、ギクシャクと進みました。 その有様は、「歌」というイメージからさえ離れてゆきそうに感じられたものです。 所が、その、詩とメロディーの奇妙な関係は、フォーク・ミュージックに現代の生命を与える、「新しい歌」としての地位を獲得したのです。 以後、曲の拍子の頭にアクセントが置かれる、噛みつく様なイントネーションは、彼以外のフォーク・アーティストの歌の中にも、しばしば聞かれる様になり、今やそれは、ロックやフォークのヴォーカルに於ける、ひとつの普遍的なパターンとして引継がれています。 例えば、常に生々しいミック・ジャガーの唄い振りは、最もロックらしいロックの中でも、アフター・ビートに身を任せる事をしない、ディラン的アプローチだと思います。 それは表現しようとする時の焦躁自体を含めた表現であり、自分自身の音楽としてさえ、期待どおりに完結することを拒否する、反抗的な表現であると言えます。 もうひとつ、ディランが彼のメロディー・ラインを得た必要上の理由は、出来る限りの多くの言葉を、歌らしいまとまりの中に、埋没させない様に聞かそうとした事です。 その気持ちが、あの連なる字余りと、日常「喋る」以上に切迫して、それを「喋る」ための音楽上の表現手段を、必要としたのです。 そして彼が得たそのメロディー・ラインこそは、彼の詩、ひいては彼の思考その物が、トイレット・ペーパーの解ける様なし方で、生まれて来た物だと言えます。 そのメロディーとヴォーカル・イントネーションの生々しさは、日本語で唄う日本のシンガー=ソングライター達にまで影響を与え、最近米・英では余り聴けなくなった、ディランの生の影響を、彼等の新しいフォーク・ミュージックの中に、著しく聴く事が出来ます。 そして、米・英のロック・シーンに於いては「ボブ・ディランという存在」の意味が、今こそ明らかになろうとしているのです。 目指す所を変えたロックの、新しい担い手達の音楽の向うに……。 では、彼等が音楽を創ろうとする時の心構えに対して、ボブ・ディランが与えた影響とは何だったのかを、考えてみる事にしましょう。 それは多分、今あなたがロック・ファンで居る事の、キッカケとなった音楽でしょうから。 音楽史上、ロックが初めて持ち得た物。 それに依ってこそ、ロックが他の音楽から区別される物。 それは、あの「ラブの精神」だと言われます。 所がこの言葉は例によって、広まりこそすれ、その本当の意味が、突き詰められた事はありませんでした。 まごまごしていると、ロックの本質を解き明かす鍵であるその言葉も、音楽の推移とと共に語られなくなってしまうでしょう。 そこで「ニュー・ロック」という音楽の名前が意味を失おうとしている今、その音楽を「ニュー」たらしめていた「ラブ」とは何だったのかを、ハッキリさせようと思います。 その「ラブ」が、恋人同志の間に在る様な、ケチで欲張りな物でない事は、誰でも知っているらしいです。 でも一体、大勢の人達の間に等しく存在し、いつもその人達を包み込んでいる様な、愛がどうやって成り立つのでしょうか? それは、お互い同志が、他人の思考、創造、生活といった物を、価値ある素晴らしい物として認め合う事で成り立っているのです。 人間の不安の源であるそれ等の問題の、行方も知れぬ迷路に、誰もが迷い込む事なく毎日を暮そうとして、その入り口を閉ざした「村の門」が「ラブ」であり、それこそが「ロック世代」の象徴なのです。 ニュー・ロックとは、その精神にのっとった、世代のテーマ・ミュージックだった訳です。 その音楽が、本当に「ニュー」であったのは、「村の門」を出て行かない人も創造者に成り得る、という事を始めて証明した点です。 なぜなら、音楽に限らず、創造という仕事は、そのために独りで、村の門を出て行った人のする事だったからです。 そしてロックは、村人達の祭ばやしの性格を持って行ったのです。 さて、ボブ・ディランは、そのスタートから、自分の音楽を祭りばやしにする事など考えても見ませんでした。 もっとも、彼が唄い始めた当時、祭ばやしの世代は小学校に通っていました。 けれど、彼の出発とはまさしく創造しない人達の村を離れて、独り苦難の迷路に旅立つ事だったのです。 それは、創造者としての、伝統的な姿勢であると言えます。 何故なら、村の門を抜けると、その人の進むべき一筋の道が、足許から見晴るかす沃野の彼方へ延びている訳ではなく、其処から始まるのは自分自身の迷宮に至る道。 創造とは、その本来の意味に於いて、個人的な仕業だからです。 ボブ・ディランの努力は、自分自身を、より迷路深く追立てるために払われて来ました。 それも又、創造者としての、オーソドックスな姿勢であると言えます。 彼の音楽が最初に有名になった時、それは公民権運動のシンボルとしてでした。 その成功は、彼自身にとって、満足すべき第一段階ではあったけれど、同時に、彼の良心にとっては、自分が祭ばやしの音楽家にされかねない、危険な事態でもあった訳です。 そこで彼は苦慮の末、『ボブ・ディランの別な一面』と題したアルバムを発表し、彼の信仰者達の教祖の座に納っていた自分を嘲る歌を唄って、彼等を突放すと同時に、自分をより険しい場所へと向わせたのです。 それはつまり、シンガー=ソングライター、ボブ・ディランとして、彼個人の迷宮に、一歩を踏み入れる事でした。 六五年、エレキ・ギターに持ち換えた彼に対する非難の渦は、今思うと、彼の音楽の更なる緊張を生み出すための、大きな力だったと言えます。 かと言って、それがディランの策謀だったと迄は言い兼ねますが、彼は創造者の習性として、緊張を持続させる方法を心得ていたのだと思うのです。 そしてつけ加えたいのは、当時、ロックが村祭りのおはやしとしての自覚をまだ持っていなかったという事です。 もしロックが、六九年のロックであったら、ディランは決して、その方向へは進まなかったでしょう。 確かにディランは自信家です。 でもそれは、自分が強者であるという自信ではなく、たとえ行き倒れるとしても、その時の自分は独りであろうという自信なのです。 ラブの名の下の新しいロック、それは、彼にとって無縁の物でした。 その嵐が世間に吹き荒れていた間も、彼は彼の世界を旅し続けて来たのです。 ボブ・ディランの音楽が難しいとしたら、それは彼自身にとっての、音楽と関る事の困難が、そのまま滲み出ていたからでしょう。 「嫌い」という一言で、忘れられない難しさが有るとすれば、そういう音楽にだけです。 "Blonde On Blonde"には、ロックという音楽をもって、創造の正道を行こうとする彼の、苦難の頂点が収められています。 そして、交通事故に依る一年の休養。 復帰第一作の"John Wesley Harding"は奇しくも、現在のロックがカントリーへ傾斜して来た事の、前兆であったかの様です。 カントリー・ミュージックへの回帰それは勿論、エレキ・ギターを持った時と同様、ニュー・サウンドのクリエイトを企んだ訳ではなかったのです。 音楽に於ける彼の努力は、いつも、実際に聞こえる音より、一段奥のレベルで尽くされて来ました。 ひとたび音となり、アルバムとなった彼の音楽の中に、生の苦心工夫が残っている事はありません。 自分が何をやったかを聴く人に知らせるヒントをチラつかせる様な事は、彼の最も好まないやり方です。 彼は、彼の問題として、音楽を創っているのですから。 そして、彼と、その音楽との関りは、次第に、古い友人達同志のそれに似て来ました。 その関りの中になった緊張と苦悩とが、余裕と愛情に変わり始めたのです。 今、土の匂いを漂わせる新しいロックや、シンガー=ソングライター達各々の音楽の向うに見える、ボブ・ディランの影とは一人の音楽家として、自分の迷路を旅して来た精神、いわば「ディラン・スピリット」としての物です。 ラブの村の祭りは、そう長くは続きませんでした。 今ロックは、それぞれが、個人の世界と向き合う時に来ています。 今度祭りを復活出来るのは、ディラン・スピリットを持ちながら、ラブのリーダー役も勤まる、レオン・ラッセルの様な人に依ってでしょう。 もしあなたが、ロックに「乗る」という事につかれ、病上がりの様にうつろな自分を意識したら、それがボブ・ディランに耳を傾ける機会です。 人は皆、祭りに同化出来ない世界を、心に持っています。 素直であればある程。 幸いこの事は、エルトン・ジョンが来た時、ナイジェル・オルスンに人気が集まったり、ショーン・フィリップス先生の神秘性が尊重されている事なんかに比べると、決して不可解ではない、女の子ならずとも納得の行く事なのです。 所でぼくが今、彼について抱いているイメージは、この一週間というもの、ぼくを辞書の下僕にさせた彼の詩の中から、その代償として引き出した物であるよりは彼の音楽から聴き取って来た物なのです。 その事はきっと、彼を愛する多くの女の子達においても同様でしょう。 彼の唄と演奏、彼の音楽は、その言葉の意味を解らぬ人に向かってさえ、一人の人間としての彼自身をさらけ出して来る、まれに見る力を持っているからです。 そして、そのさらけ出された物が、女の子をして彼を愛させるに恰好な物だと思うわけです。 それにもう一つ、彼位、自分の音楽を代表する様な顔付きで写真に写るミュージシャンも珍しいのです。 つまり、彼の顔には彼の個性が残らず出ていて、彼の音楽にも個性がそっくり表われているという次第です。 だから、ニール・ヤングに関する限り、彼に向けられた女の子達の愛も、ちゃんと彼の音楽故の物だと思えるのです。 一見当然の様な事だけど、「一人の人間」がこんなにも表現されている例はロックと言う音楽においては、実は珍しい、いわば画期的な事だったのです。 とりわけそのアーティストが女の子達に愛されている場合には。 さて、訳詞を待つまでもない程強烈なニール・ヤングのその個性の女の子に訴える力について、先ずお話ししましょう。 例えば "Tell Me Why"と彼が唄う時、一体彼が何を告げてもらいたくて"Tell Me Why"と繰返すのかは解らなくても、彼のその気持ちの切実さたるや、痛ましい程に伝わって来ます。 さて、其処で問題なのが、その「痛ましい程」という点なのです。 一人の歌手が"Tell Me Why"と唄っただけでこんなに痛ましいなんて、やたらにある事じゃないのです。 ニール・ヤングと来たらまるで、自分のこめかみにピストルを当てて、「答えてくれないなら引き金を引くよ」と言っているみたいです。 それは、それ程緊迫しているという意味ばかりでなく、彼には、「当然自分は答えを与えられるべきだ」という、執念にも似た意識が在るという事です。 だから彼が、"Tell Me Why" と唄う時、その言葉は、被害者の立場からの訴えの響きを持つのです。 又興味深い事は、彼のピストルは決して相手にではなく、自分の頭に向けられているという事です。 ここで、彼の顔を想い浮かべて下さい。 悩み過ぎた子供の顔。 目は、強大な無言の迫害者を見つめ、口は「何故ぼくをこんな目に合わせるの?」と言おうとしています。 恐怖を前に、彼はその質問を放棄して廻れ右する事をせず、手の中の武器を自分の顔に当てて答えを得ようとする。 それが彼のやり方なのです。 彼のこのイメージは、"Tell Me Why" に限らず、彼独特の緊張感を持つ作品の中には必ず見る事が出来ます。 それは、女の子にとっては、胸を締めつけられる様な、悲劇のヒーローの姿だろうと思います。 でも、もし彼がこのやり方しか知らない男なら、同じく男であるぼくから見れば、その人が現実に側にいても深くは係りを持ちたくない様な、厄介で危険な人間であるだろうし、更にもし、彼が自分の頭にピストルを当てて唄うのが恋の歌で、あの痛ましさが相手の愛をせがみ取らんが為の物なら、彼の歌はウンザリする程甘ったれた性質(たち)の悪い物になるでしょう。 所が彼のアルバムには、小さなコミカルな曲も、のどかで美しい曲もちゃんとあって、それ等とあの息詰まる曲とが上手い具合にお互いを引き立て合っている事は、皆さんご存知の通り。 そして、彼が実際に恋を歌うのは軽い曲での事が多く"Cowgirl In Sand"の様にギターが凄まじく緊張する曲でも、唄われる詞は余裕たっぷりな物だったりします。 さてそれでは、あの切実な"Tell Me Why"が、一体何を尋ねる言葉か考えなくてはいけません。 航路取る心の船は廃港を抜け/夜の波間を漂い舞う/ 物言わぬ探索者は黒馬に股がり/己の驚きの内、独り競う他は無し/ 何故なのか、何故なのか(大意) 二行目の探索者は船を捜すそれではなく、一行目の心の船と同じ主体の別な表現です。 この歌は、「与えられるべき答えが在る」と信じる彼が引受けぬ訳には行かない、彼の人生のテーマ・ソングとも言うべき物。 ニール・ヤングは、彼を捕らえる恐れと驚きの中で敵も味方もなく、黒馬を蹴立てて人生の答えを捜す探究者という訳です。 でも、続く節に2人称で呼ばれる相手が登場し "Tell Me Why"という言葉がその相手に向けられている様な印象を与えるのが、ぼくに疑問なのですが、勿論彼は、其処で答えを期待しているわけではありません。 君独りで事物を秩序立てるのは難しかろうね/借りを返せる齢ではあるけど/ 身を売るも良いその若さには嘘でもつきに、いつかおいで/ ぼくは変わり映えもせずいる筈だ/ぼくが寂しさに暮れていても/ 君にはその戒が解ける/笑ってでも、何でもね(大意) 彼がその女性に望んだのは、やはり答えの切れ端ですらなく、いわば暫くの休息なのです。 そして唄われる詞は、航路を取る心の舟という初めの節に戻って行きます。 そんな彼を代表する様なもう一つの歌に"Helpless"があります。 北オンタリオに一つの町/家路へと散る人々を慰めるのは誰の夢?/ ぼくの心には、今尚行くべき場所/それを求めた、ぼくの変化のすべてよ 星々を背に、登りかけの月が黄色い、青い青い窓/巨大な鳥が、ぼく達の目に 影を落として空をよぎる/救い無きままぼく達を置いて/ 救い無きままの、救い無きままの……(大意) この歌で注目に値するのは救いの無い状態に置かれているのが彼個人ではなく、「ぼく達」になっている点です。 それから彼は、自分と人々との係りを唄います。 彼等がまだ、唄うぼくを聴ける今/鎖は結び目固く、ドアを封じているけれど/ 彼等はどうにか、ぼくと共に唄う。 心には行くべき場所を持つ彼も、救い無く散って行く人々のために、コミュニケーションの困難を知りながら唄う、そして其処に、一抹の希望を消せずにいる所が、ロックの世代に生まれ、音楽的にはウエスト・コーストの血を受け継ぐ彼の、彼らしく苦難する姿なのです。 かつてのバッファローの分裂を振り返って、スティーヴンは語ったそうです。 「僕はビートルズになろうとし、ニールはボブ・ディランになろうとしたんだ」。 ぼくはこの話の中に、今につながる彼の出発を見つけました。 ボブ・ディランは誰のためにも唄わず、孤独な探索者に徹し、今や白い馬の上で競う事も無いかの様だけれど、ニール・ヤングがその道を歩もうとする時、彼の心は深遠なジレンマに落ち込むのです。 "Helpless"も結局は、シュールなイメージを持つあの二節目に戻り、「救い無きままに」が繰返されてフェィド・アウトして行きます。 それでも彼は、苦悩する人々のために唄う事を止めずに"Don't Let It Bring You Down"ではこう言っています。 老人はトラックの揺れて行く道端に横たわり/青い月が荷の重みに沈んで行く/ ビルディングは空をそぎ取り/冷たい風が夜明けの通りを吹き抜ける/ 朝刊は舞い、死人が道端に横たわる/その目に日射しをたたえて/ 挫ける事はないのです/それは城が燃えるというだけの事/ まるで心変わりした誰かの様に/やがてあなたは立ち戻る/ 盲の男が、夜の光を走り抜ける/一つの答えをその手に持って/ 「眼差の河辺に降り来たれ」/そしてあなたは本当に解るのです/赤い灯のまたたく雨の窓/ 半島の女神のむせび泣きが聞けますか?/白い杏は、雨の溝に棄てられるでしょう/ あなたが独りで家路に着くなら/挫ける事はないのです/ それは城が燃えるというだけの事/まるで心変わりした誰かの様に/ やがてあなたに立ち戻る。 その中でもどうやら、彼の恋に対する普遍的な態度が表われていそうなのは、あの静かな"Birds"です。 恋人、それは空翔るもう一人の誰か/頭上遥かに、太陽近く飛ぶ/ そこは明日/二度とは訪れぬ物を見る/それは今日/ あなたを置いて飛び行くぼくをあなたが見上げる時/あなたの知る物すべてに影が落ち/ 羽根はあなたに降りかかる/ならばあなたの、行く道示そう/ それは空 この詩は具体的なエピソードが語られていない点で、外国の歌としては珍しいのですが、その代わりに、ニール・ヤングの考える一つの愛のパターンが、二羽の鳥の姿に借りて語られています。 人生を歌う時とは打って変わった、安らかで優しい気持ちが表われていると思います。 さて今度は、女の子の心をつかもうとする彼が、決して自分の頭にピストルを当てたりはしない事を、あの凄まじいギター・プレイで聴かせる"Cowgirl In The Sand"の詞で証明しましょう。 それはとってもシャレた台詞なのです。 ハロー、砂まみれのカウガール/ここは君の牧場かい?/しばらくここに居てもいい?/ほんの今だけ/ぼくのために装っておくれ/誰かが君を愛している時を/ それはつまり/君にそんなゲームをしたくさせる、あの御周知の婦人になる事さ(大意) この歌ではこの後、二人がありったけの罪を犯した挙げ句、カウガールのバンドが錆ついたりするのですが、もう少しシリアスな恋を"Dance Dance Dance"で聞く事にします。 考える事のないは、恋その恋に虹をかける/雲が夜の魔女だという考えは/ あなたに初めて会った時に消えた今は、あなたが気にかけてくれる事ばかり想いめぐらす。 踊れ、踊れ、踊れ/ 日の光に戯れる人生を愛すより、もっと彼女を愛さなくちゃ/ある早い朝に、ぼくは彼女の恋人になるぞ。 (大意) 残念な事に、この曲はクレイジー・ホースが唄うのしか、ぼくは聴いた事がないのだけれど、ぼくはこの詩については、現実に彼が恋する時はこんな風だろうと想像しているのです。 そして最後に、これからのミュージッシャン達が恋以上に歌う事になるかも知れない、失われて行く自然への愛を彼が歌った"After The Gold Rush"を訳そうと思います。 そしてこの言葉は、バッファロー・スプリングフィールドとして、ロック・シーンへのスタート・ラインに立った時点での、自分とニール・ヤングとを評したものでした。 無論、様々なタイプのグループが、これからも誕生し続ける事は当然だとしても、現在彼等が集めている程の支持を集めるグループは、もう登場しないのではないか? という気がするのです。 具体的に例を上げると、バーズやジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド達から生まれて来た物が、レオン・ラッセルやマーク・ベノ、ドン・ニックス達の音楽の中にも流れ続けているという事は、CSN&Yの音楽を通してこそ、皆の耳に明らかになって行ったわけです。 そして、彼等の音楽がそんな大役を果すことが出来たのは、四人の音楽的コンセプションの微妙な兼合いに依っています。 その際、クロスビーとナッシュを、ビートルズとディランの例えに当てはめるなら、ザ・バーズの血を引き、最も非コマーシャルなアルバムを作ったクロスビーがディラン派。 元ホリーズの、英国人で、ソロ・アルバムをポール・マッカートニーに誉められたナッシュがビートルズ派、という事になるでしょう。 所が、ジェリー・ルービンの様な政治的急進主義者に話が及ぶと、彼はキッパリと拒否反応を示します。 なぜなら、その考え方は、ある人間が牧場付きの別荘に籠り、サラブレッドの背中で新曲のメロディーを練る様な生き方を許さないからです。 つまり彼は、自分達の生み出した精神が、やがてその世代に依る政治が行なわれる時に、その根本的イディオムに成るだろう、と考えているのです。 この考え方こそ、彼が現在の音楽を生むための礎石だったと思えるのです。 彼の二枚のソロ・アルバムは、CSN&Yの誰のアルバムよりも、スワンプ・ミュージックの影響を受けています。 肝心なのはこの点です。 総勢二〇人もの人が集まりコーラス隊は遠慮なしの大声で唄い、ホーン・セクションは王様の凱旋を讃えるみたいにおおらかに吹きまくり、演奏中の殆んどの時間というものは、全員が各々の音を出している、彼は、そんな中で歌を唄いたかったのです。 デラニー&ボニーの演奏を目の当たりにする時、彼は、飛び出して行って一緒に唄いたくなるに違いありません。 そして、グリニッジ・ヴィレッジでジョン・セバスチャンに出会ったのは、南部の名門大学をドロップ・アウトした挙句でした。 そう言えば『デジャ・ヴ』のジャケット写真では彼独りが、南軍の青年将校といった雰囲気を湛えていましたけれど、そんな事より興味深いのは、一〇代の数年間を、南部より更に南部、中米のコスタリカで過ごした事です。 ウェスト・コースターである筈のスティーヴン・スティルスの音楽の中に、どうしてラテン風な陽気さが混っているのだろう? と、ずうっと不思議に思っていたからです。 例えば、彼が唄の合い間に時々挟(はさ)むあの掛け声などは、何処か、カリブ海の彼方から聞こえて来る様に感じられていた訳です。 彼が、音楽的にも実際にも英国をあとにしたのは、デラニー&ボニーのフレンズに加わった事に依ってでした。 彼は、デラニー&ボニーとの演奏の中にそれを見つけたからこそ、英国を離れ、トラフィックから考えも及ばない、素晴らしいアルバムを残しもしたのです。 それはスティルス自身にとっても大変な事に相違ありません。 事実、彼はジョージ・ハリソンのそのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』が、何年も自分の心に残るだろうと言っています。 そして又、そのアルバム全体のコンセプションは、『サージェント・ペパーズ』の中の「ウィズィン・ユー、ウィズアウト・ユー」の詞に、既に集約されていて、彼はその言葉を、石碑に刻んで公園に置きたいとも言うのです。 〔『ミュージック・ライフ』1972年5月号〕 レオン・ラッセルの『カーニー』 『カーニー』のベスト・セールス。 『カーニー』の彼がスーパーなのは、ひっくり返した意味に於いてです。 これが彼に献じられた、皆様御存知の称号でした。 しかし、レコード会社の企画室でこのセリフがひねり出されていた頃、当のレオン・ラッセルの録音スタジオでは、そのもはや強調する必要も無いイメージを逆手に取ったアルバムが出来上っていた、という訳です。 それ等の曲には一聴、甘く、やるせなく、古めかしい気分が流れていますが、それはレオン・ラッセルが自分を語る時の趣味に違いなく、そのいかにも流行歌然とした意識的な陳腐さにこそ、ロックン・ローラーとしての自分の感性の故郷である、アメリカン・ミュージックの愛情と皮肉とのあらわれだと言えます。 しかるにレオン・ラッセルの仕業たるや、その海も岩もが虚構の産物である事をタネにしたチラリズムのストリップティーズだから、固唾を飲んで結末を待つのは野暮の骨頂。 ショールやストッキングである一曲一曲が床に舞う度、ニヤニヤして手を叩くのが通というもので、どうせ最後に現れる姿は、顔半分で笑いもう半分で泣いて唄うピエロなのです。 しかしそのピエロは、どこまでも観客は自分の演技に馴れ合う、という自信を持っているものだから、時にリミット以上に脱ぐ事があって、あのヒット曲「タイト・ロープ」では、ピエロのヒロイズムが昂じて観客に舌を出しています。 「俺は張られた綱の上/片側は氷、片側は火/君等と俺のサーカスごっこだ」 と唄い始めやがて、 「君等の理解の一切は、俺の頭のシルク・ハットで/ピンと張られた綱だけが、俺の持ち場と信じてる。 /そこで墜落の茶番劇、俺の身体は真っ逆さま。 知りたがり屋のキリンさながら/君等は落下の軌跡をのぞく。 /それで結構、その筋書きを悟る程、君等の目が利く筈もなし」 ——といった具合。 これはレオン・ラッセルというスターが、スターで在るとはどういう事なのかを語ったいわば全ストで、聴く方はと言えばこんなにも馬鹿にしてくれた事を喜ぶ、つまりこれこそが今や、レオン・ラッセルとぼく達とのソフィスティケイティッドな関係なのです。 と言うのも、今後の彼がどんな音楽を創って行くかは別として、このアルバムには、ボブ・ディラン以降のアメリカン・ロックの一つの尤もな帰結が示されているからです。 一方、ハリウッド音楽界の腕利き演出家としての彼の耳目は、早くからビートルズの不思議に奪われていたのです。 そして、その水平なコミュニケーションの力は恐らく、過去人間が体験した最高の物だったでしょう。 後に輩出したニュー・ロックとはおしなべて(ハード・ロックもプログレッシヴ・ロックも)、この水平なコミュニケーションという事を、ビートルズとは違った手段で実現させようとする物だったと言えます。 レオン・ラッセルは六八年、アサイラム・クワイアに依ってその戦列に加わりました。 彼とマーク・ベノが選んだ方法は、かの『サージェント・ペッパーズ』を解析し、それをアメリカ的な音楽に再構成する事でしたが、ここで彼等の用いた職業的技術の総ては、ウェスト・コースト流なそれであった事が特筆されます。 とまれ、このアサイラム・クワイアを含めて、種々の要素を駆使して音楽の新しい世界を創り上げるという試みのことごとくは、ビートルズに匹敵する現実感をその音の内に宿す事は無かったのです。 レオン・ラッセルは直ちにこの不可能を悟り、心に期する所あって『第二集』の発表を取止め、新しいサウンドを探す彼の視線は南部へと移って行きました。 南部人の音楽的感性は、濃く宗教的色彩を帯びていて、共に唄い共に聴くという営みは彼等を一つの完結した世界に包み込み、その内で彼等は水平に結ばれて行くのです。 この事は音楽という物が普遍的に持っている作用だけれども、南部の音楽、特にゴスペルの要素を強く留めたそれは現代に於いてさえ、白人をも含めた素朴な人々から強く求められ、その精神生活の支えになっています。 レオン・ラッセルはこの事実に、かつて自分がハリウッド流のやり方で果せなかった水平なコミュニケーションの手段を見たのです。 そこで、ディレニー&ボニーをプロデュースする彼は、そのサウンドをウェスト・コースト的な物から次第にゴスペル的な物に変えて行き、いつか自分の音楽に採用する時のための実験を繰返しました。 『ソング・フォー・ユー』や『バングラデシュ』でのその立場に象徴される様に、彼は自分を現代のロック・シーンの中心に置こうとしました。 レオン・ラッセルとはその事のために、偏執的自己顕示欲を垂直なコミュニケーションの起点に据え、同時に、聴く者総てを等しく歓喜させ得る水平なコミュニケーションの術を求めた音楽家だったのです。 かくて、一大事業を為し終えてしまった彼は今、未だ消え去った訳ではない自己顕示欲の所在無さのために、自分をピエロに見立てながら、偽らぬ音楽的感性のストリップティーズを演じているのです。 〔初出誌不明。 するとぼくには、ロック・シーンの大方のスーパー・スター達が、その称号の割には無個性に思えてなりません。 つまりは、音楽の向こう側から聴き手を睥睨(へいげい)するだけの、執拗な自我を聞かせる人が居ないのです。 ニュー・ロック以前には、ビートルズとボブ・ディランとが、人々の感受性に新たな分野を開拓し、普遍化しました。 しかし、ビートルズは今は無く、ボブ・ディランはもはや、自分の聴衆に何の関心も持ってはいません。 又、ニュー・ロックの旗の下に登場した幾多のアーティスツは、総じて、人の感受性よりも肉体に奉仕する音響技師達でした。 彼が人々の嗜好を征服出来たのは、ポップ音楽の過去を熟知し、状況の洞察に長け、自らの行動の機をみるに敏だったからですが、それ等の基に在る物は、自分を中心にしてポップ・シーン全体の構図を変えずには満足しない、彼のダイナモの様な自我なのです。 ともあれ、レオン・ラッセルの音楽の魅力は、明確に彼自身の自我であり、それが聴衆の嗜好を征服した点において、彼こそ稀有のスーパー・スターなのです。 では、その彼の自我がいかに執拗なものであっても、決して一辺倒なものではなく、極めて頭脳的な展開を示して来た事を、そのキャリアからたどってみましょう。 そして、何を演奏する時も唄う時も、同時に外側から自分を見る眼を持っています。 その眼は又、ポップ・シーンにおける自分の音楽の位置を、他との比較から測定する事も出来ます。 そこで彼の音楽の変容は常に、プロデューサーとしての彼のプログラミングに従って来たのです。 勿論、その最終目標は自分がスーパー・スターになる事でしたが、そのために、識者ラッセルが注意を向けた存在は、やはりボブ・ディランとビートルズでした。 彼は、この二つの対照的な音楽が持つ力を、自分の音楽の中で統合しようとしたのです。 つまり、ボブ・ディランの力とは、個人たる彼から個人たる聴き手の心肝(しんかん)へと達する、厳しく垂直なコミュニケーションであり、ビートルズの力とは、聴く者総てを同一の地平で歓喜させる、優しく水平なコミュニケーションです。 そし、ポピュラー音楽の二大遺産であるこの二つの力を、一人で操る事こそ、自分が稀代(きだい)のスーパー・スターになる道だと、レオン・ラッセルは考えたのです。 バングラデシュ・コンサートに象徴される様に、彼の野心が自分を合格とみなすラインは、ディランやビートルズと肩を並べる所にあったわけです。 さて、彼の自我の執拗さとナルシシズムとは、充分に垂直なコミュニケーションに足るだけのアク[#「アク」に傍点]を、当初からヴォーカルに滲ませていました。 それに自信を持つ彼の努力は、ビートルズ的な力を得ることに向けられましたが、彼の戦略といえども、初めから功を奏するわけには行きませんでした。 と言うのは、第一作の『ルック・インサイド/アサイラム・クワイア』で彼は、『サージェント・ペッパーズ』風なイメージのカレイドスコープを繰広げんとしましたが、そこには、偽(いつわ)れぬ彼の素地と苦心の装いとの距離が歴然としていたからです。 しかし、それが当時の世評だったのではなく、彼は一部の喝采を黙殺さえして、このスタイルを見限りました。 ところで、彼はオクラホマ生れの南部人です。 その音楽的感性の土壌は、ブルーズやゴスペルといったアーシーな物の上に、生来の貪欲さで会得したアメリカン・ミュージック一般の教養が、皮肉や愛情と共に堆積(たいせき)した物です。 したがって、彼の音楽が根を下すべきは、その肥えた土壌の中であって、『サージェント・ペッパーズ』のユートピアではないのです。 彼にとって、水平なコミュニケーション手段はここに開けました。 以後、彼は自分の感性を土俵として、その目指す音楽にアプローチして行く事となったのです。 しかし、自ら起こす行動と、時の状勢との兼合いに慎重な彼は、新しいアイディアを、すぐさま自分で演じようとはしませんでした。 ホーンやコーラスを用いる、そのゴスペル・スタイルの泥臭さが、ロック・チャイルド達に通じるかどうかが分らなかったからです。 そこで彼はプロデューサーとして、ディレニー&ボニーのアルバムのゴスペル色を次第に濃くし、その評判が高まった所で、彼等を連れて英国楽旅に出ました。 マッド・ドッグス&イングリッシュメンの米国ツアーは、映画によって世界中のロック・ファンの目に触れ、奇妙な目つき[#「目つき」に傍点]といでたち[#「いでたち」に傍点]でピアノを弾く男こそ、その素晴しい出来事の立役者である事を知らしめました。 ビートルズやストーンズの面々の名を連らねて、自分の存在をアッピールした『ソング・フォー・ユー』に次ぎ、彼はそのスワンプ・スタイルの集大成として、『レオン・ラッセル&シェルター・ピープル』を発表しました。 そして、これ迄の周到な計画はここに、稀有のスーパー・スターたる彼の姿を定着したのです。 彼の素晴しさは、ホーンやコーラスの讃歌の渦中にあって尚、正しく彼個人の自我が歌うその様です。 毒気に近い声のアク[#「アク」に傍点]は、その主の醒めた心を物語り、時に甘くセンティメンタルなフレーズも、当人がその美しさを信じてはいない。 これ等が矛盾でなく解け合っているのが、レオン・ラッセルの理性なのです。 そして、彼は自分の所為を理性的には響かせぬために、煽り立てるホーンやコーラスを配したわけです。 だから、有無を言わせぬスワンプ・サウンドに浸りたい者は、その水平なコミュニケーションの受け手となり、レオン・ラッセルの執拗な自我に関心を引かれる者は、彼からの垂直なコミュニケーションを聴き受ける。 しかし、レオン・ラッセルはその成果にももう倦(う)んだようです。 『カーニー』の彼は、三〇年前の流行歌でも口ずさむ風情ですが、中の一曲「タイト・ロープ」で、自分と聴衆との関係を暗示しています。 彼はその関係において、聴衆を全く信用してはおらず、その知力さえ見下しているのです。 その様な道を、いま自分なりに模索するシンガー&ソングライター達はいます。 いわば、ディランの血を引くアーティスト達というわけですが、だからと言って、彼等の声やサウンドがすべてディランに似ているというのではありません。 さてボブ・ディランは衆目の一致する所、怜悧な詩人であり、その詩を説得力豊かな歌に変える作曲家であり又、その歌に脈打つ生命を注ぐべき特権的歌い手でした。 (シンガー&ソングライターは誰でも、自分の歌に対して特権的歌手である筈ですが、ディラン程その特権を縦横に振るった歌手をぼくは識りません。 )作詩と作曲と歌唱、彼の、それ等三つの仕事がポピュラー音楽の世界でなお真摯であったのは、彼が、そのどれをも自身のためにのみ行ったからです。 永い間、ボブ・ディランの意志は己が暗黒を正面から見据えつづけ、歌の一太刀一太刀はそれに向けて垂直に振降ろされて来ました。 だから、彼の音楽に漲(みなぎ)る血とは歌う当人の魂が遣したそれであり、その血を受継ぐ事というのは、そのアーティストも又自身の暗黒に立ち向うべく歌を唄い、遣す自身の血で歌を満たす事。 ディラン当人の変身、とり分け『ナッシュビル・スカイライン』以来しばしば耳にする、憑き物の落ちた様なあの穏やかなる寂寞は、あれこそが、己が暗黒をその血であがなった者にだけ表わせる寂寞でありましょう。 先ず第一の条件は、身に暗黒を抱えた人間である事。 何故なら、泣いたり叫んだりという事はとりあえずそれで一件落着であって、暗黒はいつまでも血でたぎる事がないからです。 つまり、血や涙を妄(みだ)りに零(こぼ)す事なく暗黒を満たし、自分の音楽としての型を得るには、感情に勝る理知の業という物が要るのです。 彼等の場合は、そのキャリアからもディランの直系であるのが不思議ではありませんが、称賛すべきは、十一枚のディランのアルバムにおける変容とその意味とを、五枚のアルバムの内の曲々に捕え持ち、しかも、音のレヴェルでは独自な完成を遂げている事です。 そのロビー・ロバートスンにプロデュースされたジェシー・ウィンチェスターの最初のアルバムは、歌唱において些か線が細いとはいえ、執着すべき点をはっきりと見据えてそれに肉薄しており、その点では未来のボブ・ディランを想わせるに足りましたが、二枚目での彼は、詩を瀟洒(しょうしゃ)なサウンドの中に安置する趣味に流れています。 (日本発売は二枚目だけ) 次に、読者が意外に思われるだろう、しかしぼくは屈指のディラニストだと考えるアーティストが英国女性のサンディ・デニーです。 実際彼女はディランの曲をよく唄って来ましたが、そればかりではなく、フェアポートの時代から彼女の書く曲には鬼気迫る物があり、その歌声の内の風景は荒寥として、極北からの風にいつも満たされています。 それというのも彼女の暗黒は熱い何かではなく、持って生れた氷河期の記憶とでも言うべき物だからで、それに向って、独り北海の海辺に佇(たたず)む様な彼女の姿勢は、女性シンガー&ソングライターとして、米国勢以上にディラン的です。 他の英国人アーティスト達にここで触れて置くと、サンディの僚友リチャード・トムプスンも又、音楽に対する真直ぐな姿勢から彼独自の緊張を創り得ている事が立派だと言えます。 荷が苛酷であるという事はしかし、それだけ創造の可能性が豊かだという事でもあり、事実彼は既に四枚もの(『過去への旅路』は除く)アルバムで立派にその重荷に堪え、破綻寸前の所で切々と歌う孤独な姿は、聴く者の感動を呼ぶに充分でした。 願わくば彼にはCSN&Yなぞを離れてもらい、ディランの辿った辛苦の道を、選ばれた後継者として進んでほしいものだと思います。 これもカナダ人のシンガー&ソングライターで、マレイ・マクロクランの英知と鋭い歌い振りは目を見張らせるものです。 時にギター一本の伴奏でも、彼の歌には凛とした空気が漲り、聴き手の感性はその前で、冬木立の様に震えて立ち尽くします。 もう一人、注目すべきカナダ人を挙げて置くと、スワンプ風なサウンド・スタイルでアルバムを作ったクリストファー・キーニーで、彼の作曲と歌唱とに只ならぬ物が潜んでいるのは確かな事に感じます。 アメリカに下ると、ジョン・プラインに対してネキスト・ディランの呼び声は高いようです。 そこで、昨今のディランのカントリー的な装いとの類似をもって、ジョン・プラインをディラニストとするのなら、それは正しくありません。 彼はサウンド以前の場所でこそディラン的なのです。 この様に、ディラン的な気概をその音楽の根幹にこそ据えたアーティストとして、南部の音で身を固めたロジャー・ティリスンは重要です。 ブルース・スプリングスティーンは又、一聴知性の勝ち過ぎた様な音造りの奥にも、ディラニストの真摯さを保持する人のようですが、ピュアなディラニズムに今も準じ、その通り垂直に真実な訴えの出来る歌手に日本の友部正人がいます。 シングル盤「一本道」は抑えに抑えられてなお凄絶、ディラニストの歌として合格です。 さて、精神におけるディラニストはほぼ以上の様なものでしょうが、もしディラン当人のサウンドの変遷に伴ってそのつど輩出するフォロアー達をもディラニストと呼ぶなら、十年この方その枚挙には暇がなかった筈です。 たとえば、その十年来のフォロアーとしてエリック・アンダーセンとデビッド・ブルーは有名ですが、彼等とて、各々の最高傑作『ブルー・リヴァー』と『ストーリーズ』では、自己の世界の真実と正しく向い合っており、自然に音はディランから離れ、しかしその時にこそ、ディランにも比較し得る別個の、完成された音楽が出来上っていたのです。 その様な意味からは、タウンズ・ヴァン・ザント、デイヴ・ロギンス、ジェリー・ジェフ・ウォーカーなぞもそれぞれに、「この人有り」と心しなければならない人達でしょう。 そうするなら、スティーヴ・グッドマン、ダグラス・サム、ダニー・オキーフなぞの名はすぐに浮かび、これらの人達のアルバム制作スタッフは少しづつ重なり、ボブ・ディラン自身が加わったものもあります。 そして、郷愁をモチーフにしている点で共通したこれらの音楽が、機を同じく郷愁に取組むウェスト・コーストのバーバンク・サウンドとは決して同じでない事、イースト・コースト流のしたたかさを持って、ボブ・ディランの伝統を持って、過去に復讐しているのが彼等の音楽である事を最後に記して置きます。 宇宙的な音楽なぞ有り得ない事。 音楽はひたすら官能の下僕ではない事。 ロックといえども、未来にではなく、過去にこそその存在を支えられているのだという事。 以上の様な事は、かのザ・バンドならずとも、おおかたのアメリカン・バンドが知っています。 アメリカン・バンドは、創造行為を自身の感性の具体性の内に限り、その具体性とは過去に抵触する物である事を認め、血と伝統から遊離した所に自分達のロックは在り得ないと考えています。 ウェスト・コーストの音楽であれば、温暖な気候と若く自由な精神風土とか、常に闊達な新しい発想と失われる事のない明るさとに反映し、いきおい音楽的な要素は多様となって、それらを生んだ思考の趨勢(すうせい)は水平的であると言えましょう。 また音楽がイースト・コーストのものであれば、都会的理知とグリニッジ・ヴィレッジ流の硬骨振りは今もアーティスト達の音楽態度に残っていて、ブルーズ派であれカントリー・フォーク派であれ、又諧謔(かいぎゃく)を弄する前衛の手合いであれ、皆その音楽に徹するという気概においては共通し、その思考の傾向は垂直です。 前者はゴスペルを基礎としてスワンプと呼ばれる音楽だし、後者は本文に語られるべきザ・バンドの音楽だからです。 彼等にとっての南部とは、精魂込めた創造の出来る理由なのです。 時にもし、人間という物が精巧な機械でしかないのなら、この世に芸術という概念や行為も又有り得ないでしょうが、文明は、進歩し、人間が生きる上のあらゆる困難を軽減して来た、まさにその事によって、文明は人間が創造する事の意義をも同様に軽くしてしまいました。 それが良いか悪いかはともかく、精巧な機械に甘んじる事を潔(いさぎよ)しとしない、創造という本来の難事にこそ生を見出そうとする人間は今、敢えて前近代的な非合理、取残され封印されんとしている非合理に自身を置くほかはないでしょう。 実際、彼等五人のうち四人は南部人ではなく、カナダ人です。 だから彼等のすべき事は、南部の魂の暗黒を身に受けて更に、その暗黒を凝縮し、ボルテージを高めた音楽を作ること。 しかし表現に及んでは、断じて暗黒に仕える事なく、サティスファクションに陥らぬよう、抑えきる事。 なぜなら、そのつど、やろうとした事を完全にやりおおせて終(しま)っているからです。 それ等一つ一つが、そういう音楽の完成品であって、総てのアルバムの総ての時間は、彼等の意志に統御されていました。 そこで彼等がやってみせている事はもちろん、エクスタシィからサティスファクションに至ろうとする南部的な負の力と、要所々々でそれを抑えんとする音楽家としての力とが繰広げる、時には凄く、時には密かな戦いのドラマでした。 では、五つのアルバムとはそれぞれ何なのかというと、それ等はちょうど、ボクシングの試合がフライ級からヘヴィー級までの段階に分けられているようなもので、アルバムを追う毎に、両者のウェイトは上って来たのです。 しかしそこでボクシング試合と同じわけに行かないのは、音楽家ザ・バンドは絶対に負けてはならないけれども、簡単に勝ったのでも面白くない、音楽は勝負ではなくて試合内容であるという事です。 だから音楽の完成度というものも又各ウェイト毎に問われるべき事であって、ミドル級の音楽だからフライ級の音楽よりもいいというわけではありません。 しかし彼等は、南部の負の力は、もっと強くあるべきだと考えました。 そしてそれは、その通りになりました。 溢れんとする南部の情念の声と、堪えんとする彼等の意志との拮抗する様は凄く、その苦さは感動的で、二つの力がお互いに真実精一杯たぎっていた事によって、これがザ・バンドの最高作だったとぼくは思っています。 『ステージ・フライト』での音楽家ザ・バンドは、もはや出家僧でも殉教の徒でもなく、余りにも腕利きのプロフェッショナルでした。 そしてそれも、要所を抑える手練の技で、その通りになりました。 なぜなら、余りに完璧な三つの仕事のあとに、ザ・バンドの名の許に演じる必然性のあることは、もう残っていなかったからです。 しかし彼等は解散をとどまり、新しい、自虐的な挑戦を敢行したのです。 『カフーツ』で彼等は、南部の暗黒が噴出する油然(ゆうぜん)たる負の力の、表現の可能な限りをその音楽に引受けました。 『ロック・オヴ・エイジズ』では、ジャズの一流所がプレイするアレン・トゥーサンのアレンジメントを全面に引受けながらも、又ライヴでありながらも、彼等の音楽の完成度というものの微動だにしない事を証明して見せました。 およそロックのライヴ・アルバムの内で、これは断じて最高の作です。 しかしどんな卓絶のライヴ・アルバムも、それはぼくがザ・バンドに期待するものではありません。 例えばリフではなく、インプロヴァイズする古いジャズと渡り合うのは、ザ・バンドには良い事だと思います。 とまれ、ロックという範疇の南部は、彼等にはもう困難ではなくなっているのだから、暗黒への彼等の真実の抗いを再び聴くためには、南部は更に、その負の魔力を示さねばならないでしょう。 もちろんそれも、ザ・バンドの手によって。 (入力者) 歌と音楽に託して 内向きのコバーン、外向きのマクロクラン —カナダからきたシンガー&ソングライターたち ぼく達にとって、カナダはアメリカよりも遠い。 アメリカならば、この東京のどこにでもあり、わけてもウェスト・コースト文化の切れ端なら、街中に散らばっている。 イーグルスを聴くためにロック喫茶へ行く必要はなく、彼等について識るためにニューミュージック・マガジンを読む必要もない。 そんなものなら、スケート・ボードに乗って歩行者天国を走り抜けるだけで解ってしまうだろう。 ではイースト・コーストは? 南部はどうだろうか? そこにおいても、シティー・ミュージックが栄華を極めるいま、かつて在った地域的特色を見出すのは難しい。 ニューヨークからのビッグ・セールスがスタッフであり、マッスル・ショールズのそれがメリー・マクレガーというなら、広大なアメリカ、日本の若者達の憧れの的であったアメリカは、七七年のレコード店のエサ箱の中で、誰にでも親しめる商品と化して陳列されているに過ぎないのである。 かつて、若者達はシンガー&ソングライターの輩出を歓迎した。 歌詞カードに見入り、彼等の唄の世界の内に、自分の像を結ぼうともした。 しかし、その音楽が、在来のポピュラー・ミュージックに吸収されようとしているいま、その様な感情移入は対象を失っている。 ではアメリカよりも情報量の少ない国、その意味でアメリカよりも遠いカナダはどうだろう? 七七年の七月、初めてカナダから二人のシンガー&ソングライターを迎えた若者達の何パーセントかは、何がしか負の感情を抱いてコンサートに出掛けたに違いない。 しかしぼく達がカナダに注目したのは、アメリカにシティー・ミュージックが蔓延するよりも以前だった。 この事実には、歌とその依拠する土地との有機的な関連に対する、現代人の根元的な憧憬が示されてはいないだろうか? ぼく達は彼等のチケットを買った。 七月九日、コンサート会場はいつも、自分がどこから来たのかを解らなくさせる。 それは見知らぬ多くの若者達が、いまなぜここに集っているかが解らないからだ。 先に述べた確信は、コンサートの会場にはもうない。 「いつからコバーンを識っていましたか?」「コバーンとマクロクランとではどちらが好きですか?」「ジャクスン・ブラウンやトム・ウェイツの時にもいらっしゃいましたか?」まるでプロモーターのアンケートの様な質問が頭に浮かび、決して発せられないうちに音楽は始まる。 そして一週間後、ぼくはコバーンとマクロクランに、自分でインタビューしなければならないのだ。 いいコンサートだった。 少なくとも、二人は誠意をもって、ぼく達の前でその音楽を演じた。 見知らぬ若者達は、よくレコードを聴いているらしく、有名な曲の始まりには拍手を送り、「その曲は識っています。 そして好きです」という意志を表明していた。 しかし、どうしてそんなに識っているのだろう? コバーンもマクロクランも、日本のレコード会社は熱心にプロモートしてはいなかった。 それにもかかわらず、このコンサートはパルコにも掛かったのだそうである。 もしぼくが英語で話せれば、彼等もそのままでいたかも知れない。 一応の席に着いた。 マクロクランは質問を待ち受けるように瞳を光らせ、コバーンは静かにうつ向いて、インタビューが平穏に運ぶことを願っているようだ。 ——たまたまカナダに生まれ着いたという以上に、カナダという国を思っていますか? C(コバーン) 生まれたという事実も大きなファクターだが、それ以上の親しみを持っている。 カナダという国は多くの可能性を持っているんだ。 くる所まできたという国と違って、カナダはどこへでも行ける。 そういう希望がある。 次の質問へ移ろうとしたぼくに、マクロクランが「ぼくにとっては」と言って発言して来た。 彼はその後の質問に対しても、コバーンの次に答える時は常に、この「ぼくにとっては」をまず言い、それが彼の見解であることを区別し、強調した。 M(マクロクラン) 今までのインタビュワーにもカナダのことばかり聞かれた。 他の国との基本的な違いはまずスペースの問題だと思う。 広い土地に少ない人口という環境は、精神生活への影響も大きい。 例えば深刻な問題に悩んだ時でも、カナダでは物理的にどこかへ逃げることができるんだ。 これは平常の生活にも大きな意味を持つ。 世界的な問題に対しても、カナダ人には離れた場所から見る性質がある。 C だからって、カナダ人が世界情勢に興味がない訳じゃない。 このやりとりは面白かった。 なぜなら、コバーンの言いそうな事をマクロクランがいい、マクロクランの言いそうな事をコバーンが言ったからである。 ——今回のコンサートに集まった人達が、森や雪や湖といった、カナダのイメージの結晶としてあなた方の音楽を捉えているとしたら? C 必ずしも正しくはないが悪い気はしない。 それが理想的なカナダだろうが、そうでない部分もぼくは知っている。 コンサートでのコバーンは、その耽美的なシンギングも巧緻なギター・テクニックも、一種の宗教的自足性の内に閉じられていた。 ——マクロクランさんの場合は、カナダの自然への耽美主義から、あえて逃れようとしていると感じますが。 M 誰でも異国の自然にはロマンティシズムを抱くものだ。 しかしぼくの音楽は人間的な葛藤、哲学的な意味を追求している。 自然を無視してはいない。 その影響は大いにあるが、自分の音楽ではそれ以上に言葉が重要だ。 レコードを聴くとまずサウンドが耳に入り、それが音楽的イメージを決定しがちだけれど。 ——シルバー・トラクターというバンドを結成したのは、それにどう関連しますか? M 大きな理由は音楽的な行き詰りを感じたからだ。 独りでやりたいという事から始まって、それがある所まで行くと、自分一人では出来なくなった。 他人の要素が必要になったわけだが、これは昔から考えていた事が実現しただけです。 ——コバーンさんはマクロクランさんが、行き着く所まで行ったという事をどう思いますか? C 彼がある限界に来たとは思っていなかった。 しかし、シルバー・トラクターを結成した事は自然な成り行きだっただろう。 彼の音楽を聴いてきた者にとって、彼の変化は急激ではなく、ベースが加わり、フィドルが付くといったゆっくりしたものだった。 他人の音楽がどうあるべきといった考えはないが、彼の変化は良かったと思う。 マクロクランも変化したが、コバーンも変ってきた。 『夜のとばり』での彼は、リズムへの試み、ジャズ・トランペットの導入など、意識して変ろうとしていると思う。 ——あなたの場合も、ニュー・アルバムでは新しい試みを行っているが、そうした事が必要だったのですか? C 特には飛躍を考えていないが、いつも新しい事を試みるのは私の基調だ。 ジャズは昔から身近で、ギターのテクニックの上達に従ってそれが表われてきていると思う。 彼のギター・テクニックは、その様に謙虚な表現に相応しいものではなく、むしろマニアックな域に達している。 ——ミュージシャンというものは、テクニックが上達すればする程、加速度的にそれを試したがる性があります。 それが具体的に音楽となった場合の、一種の落し穴について考えたことがありますか? C その問題は考えているし、避けようともしている。 失敗する場合もあるが、私はすぐに飛び込まず、よく考えてやっているつもりだ。 「ぼくにとっては」と、またマクロクランが言った。 M 落し穴という考えは、音楽だけじゃなく、あらゆる芸術について言えます。 概念の形成は瞬時のひらめきの場合と、あれこれ考える場合とがある。 後の方の場合に、その落し穴に気を付けなくてはならない。 ぼくがバンドを作ったのも、とりたてて新しい挑戦ではなく、他人もぼくの音楽を表現できる、多くの人の持ち味が集合される事で、自分では想像できなかった結果を生む、そこがエキサイティングだったからです。 マクロクランはさっき、自分の音楽に限界を感じたから変ったと言った。 そしていま、他人の要素が加味される事に興味が湧くと言った。 ——それぞれのニュー・アルバムは、現在の方向をもっと推し進めたものですか? C ある方向を一歩進める、という捉え方には危険があると思う。 私は気ままに音楽しているつもりだから、それにどの方向といったレッテルを貼られたくはありません。 今度のアルバムは小さなバンドとのツアーのライヴで、ジャズっぽいものもあるし昔ながらのものもある。 いろんなことが私の内で起っていて、それがそのままアルバムになるのです。 この様な答えは、どんなアーティストでも発する、いわば挨拶のように当り前のものなのだ。 マクロクランのシルバー・トラクターの二枚目を、昨日聴いた。 予想通りにハードなロックとなっていて、そのサウンドの内の彼は、これまでの六枚のアルバムよりも存在感が稀薄だった。 だが、このインタビューの時点では、それを話題にする術はなかった。 ——来日するまで、日本でお二人の音楽を熱烈に聴いている人達がいる事を御存知でしたか? アメリカのシンガー&ソングライター達が日々失って行くピュアなものを、あなた方が保持していると考えられていますが…。 C 思ってもみなかった。 M アメリカのシンガー&ソングライター達が失って行くものというのは、商業ベースに乗ることで失ってゆくもののことですか? ——その通りです。 M よく理解できない。 ぼくはアメリカの動向に非常に興味があるし、ジャクスン・ブラウン、ジミー・バフェット、ジョン・プラインなどもよく知っているが、アメリカがこうでカナダはこうという事が解らない。 ぼくが歌うというのはお金に結びつくけれど、お金のために歌うのではない。 歌を書く行為のルーツは変らない。 商業的に成功するかどうかは単なる結果であって、大きな問題ではないと思う。 アメリカ人の曲にも、ぼくに訴えるいい曲は幾らもあるし、いい曲ならたいがいヒットもする。 商業的結果だけを取り上げて考えずに、その人間が持っているものを評価して欲しい。 この様に語る時のマクロクランは、親を説得しようとする少年に似た気迫を放つ。 一語一語をはっきりと、眼差しはしっかりと相手を捉え、必要以上に信じてもらいたがっているのだ。 彼のステージを観た人は、理解されたい彼の欲求が、少年じみた執拗な誠実さとなって表われていたのを御記憶だろう。 会話もそれと同じだった。 彼の弁舌の明快さの裏には、誤解される事への恐怖に近い感情が、常に潜んでいたのである。 コバーンはそうではなかった。 ベッドに座り、眼鏡の奧から自分の指先を眺める彼の誠実さは、解る、解らないといった人間関係への、一種の諦念を前提とした誠実さであった。 マクロクランは解ってもらわずにはいられない。 コバーンはともかく自分自身である。 それがこの、二人のカナダ人の相違であるのだろう。 コバーンに別の用事があるというので、彼に最後の質問を向けてみた。 ——あなたのステージからは宗教家のような印象を受けましたが…。 C 大きな問題で簡単には言えないが、宗教はなぜ私が歌を書き、そして歌うかにとって重い意味を持っています。 ——クリスチャンですか? C そうです。 ——ライフ・スタイルの中心にそれが在るのですか? C 理想的にはそうです。 でも現実的にはそうとも限りません。 コバーンは行ってしまった。 ——マクロクランさんはスコットランドの生まれと聞きましたが、あなたの歌には、歌唱に対しての執着の強さに、スコットランドのシンギングの伝統を感じるのですが。 酔っぱらうために飲むのではなく、会話を楽しむ手段としてそれはあります。 この習性はイングランドにはない。 だからぼくがはっきり歌うのは、自分をはっきり相手にコミュニケートするためで、それは強く意識している。 こうして話してみて、彼のこの性格は、民族的なものと言うより個人的なものだと思う。 彼にスコティッシュのトラッドを歌わせたらどうだろう? しかしその質問は、彼を面喰らわせると思って止めた。 それよりも、現在の音楽界の動向については、会う前から聞いてみようと思っていた。 ——シンガー&ソングライターというものは、時代の風潮から生まれたものでしょうか? あなたも含めて、彼等は何十年も歌を作り続けられるのでしょうか? M 芸術にはサイクルがあると思う。 例えば三〇年代のアメリカでは文学が興隆し、フォークナーを初め幾多の作家が輩出した。 ぼくの場合にはヴィジュアル・アートにも関心を持っている。 アーティストというのは、自己表現をしたい人間の質で、それがたまたま音楽だったりするのだと思う。 ここで彼から質問を受けた。 日本では宗教がどんな社会的意味を持っているか? というのだ。 宗教が個人生活を律している例は少ない事を説明したが、これで話が変ってしまった。 ——あなたもクリスチャンですか? M 違います。 西洋の宗教はいろいろ知っているけど、自分に信じられると思ったものはない。 ぼくは宇宙との関連で自分を捉えている。 すべての存在は相対的であり、明日はもういないかも知れない自分もその一物なんだ。 ある宗教やある哲学を選ぶつもりはない。 彼のこの言葉は、ぼくが少年だった頃、一〇年ほど前の若者達が好んで口にしたそれを想い出させた。 ロックという音楽とヒッピーという人種が時代の主役となって以来、この思想には久しく御無沙汰していた。 ——コバーンさんの場合は、閉じられた自分の世界を歌う傾向を持っていると思う。 しかしあなたの歌は、聴く者にダイレクトに飛び込んでくる、外向きの志向を持っていると思いますが。 M 実に真実をついていると思う。 彼は非常に内向的な人間だ。 ぼくはそうではなく、たとえ失敗に帰しても、いろんな世界に行っていろんな事をやりたい。 カナダには複数の宗教も言葉もあり、そのコントラストは際立って見えるかも知れないが、ぼくとブルースとの違いはそのためではない。 人間のタイプが違うんだ。 彼とは、人生の問題について意見が合わないことが沢山ある。 そんな話をすると、一晩かかって、ウィスキー一本くらいは空いてしまうよ。 コバーンが居なくなってからも、マクロクランは会話への興味を絶やさない様に見える。 彼の発音の明確さと眼の輝きは、いつも一つの緊張感で結ばれていた。 ——日本で最も知られたカナダのアーティストはレナード・コーエンですが、彼を初めとして、カナダの音楽は音がシンプルで、自分の世界を簡素に創っているようですが、それには理由があると思いますか? M カナダ人はアグレッシヴではないのです。 それが理由ではないでしょうか。 例えば、野球でいえばカナダはメッツであって、ヤンキースではない。 それで結構じゃないですか。 レナード・コーエンについては、彼はカナダ人であると同時にユダヤ人です。 ユダヤ人の過去を背負ったアーティストとして、彼を見るべきでしょう。 ——ルーク・ギブスンを御存知ですね? M よく知っています。 彼はいま、オンタリオの近くのコミュニティーにいて、そこは外部との接触がほとんどありません。 彼は新しいアルバムを出す事に、現在は興味がないようです。 ——レイ・マテリックについては? M カナダでのレコード・セールスは上手くいっている。 しかし、彼のハートはとても暖かいのだが、出てくる言葉や態度はなぜかシニカルなんだ。 ——トニー・コジネックは? M 彼もユダヤ人だ。 そしてコーエン以上にユダヤ教的で、コバーンのように内向的で、もの事を真面目に考える。 付き合い易いタイプではないな。 ところで、ジョニ・ミッチェルやニール・ヤングは、アメリカのアーティストとして考えられているのですか? ——彼等がカナダ人であるのは誰もが識っていますが、カナダのアーティストとしては、あまり扱われていません。 M 彼等は、アメリカ人として考えて欲しくないと言っています。 ——ザ・バンドの連中もそうですか? M 同じです。 ——これまでに挙げたアーティスト達は、互いに連体意識を持っていますか? M 物理的に近いわけではないけれど、シンガー&ソングライター同士の仲間意識は強い。 ぼく達は少ない言葉で、なるべく多くの事を言おうとする。 そうする苦労は、仲間だからこそ理解し合えるもので、その意味での親近感は強い。 ——カナダのアーティストにぼく達が期待している事は、いつまでもヤンキースにはならず、メッツのままでいて欲しいという事です。 M ぼく自身もそう思っています。 しかし彼等だけが変らないとは思わない。 現に新しいアルバムは変っている。 彼等の日本公演は、ぼく達がシンガー&ソングライター文化に託してきた想いの、最後のゆらめきだったかも知れない。 〔『ニューミュージック・マガジン』1977年9月号〕 どんどんポップになって来たボズ・スキャッグス —シティー・ボーイたちよ、どこまで付いて行く? ボズ・スキャッグスはいま、大きな意味を持つアーティストだ。

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