デルポイの聖域。 デルポイ

サイドクエスト| アサシンクリード オデッセイ 攻略

デルポイの聖域

古代ギリシアの4大競技祭典 大祭が開催されたデルポイの地は、古くはピュートーと呼ばれ、そこには大地女神の代理、または女神自身とも考えられる大蛇が住み、地域を支配していた。 ピュートーには、ガイアまたは女神の託宣所があり、ピュートーンが悠久の過去より、これを管理していたとされる。 しかし新たに訪れた神アポローンがピュートーンと戦い、これを打破して、聖地の支配権と託宣所を自分のものとした。 ピュートーすなわちデルポイの地は、アポローンの聖地で託宣所となった。 こうして、と呼ばれるが、大地より吹き出す煙を吸うことで恍惚状態になり、アポローン神の神託を告げた。 この託宣は、における神の神託と同程度、あるいはそれ以上に有名で権威あるものとなり、の際に、はいかなる対応をすればよいのか、神託に頼ったことでも有名である。 ピューティア祭は、死せる大蛇ピュートーンに対する葬礼競技より始まったともされる。 ピュートーンの託宣を担っていた巫女たちは、そのままアポローンの神託を伝える巫女としてその地位に留まり、これがデルポイの神託へと続いて行った。 音楽と詩歌の競技 デルポイ聖域のスタディオン には、すでにピューティア大祭はギリシア全土で著名であり、最初は、アポローン神を称えるに相応しいよう、との創作・発表競技が行われていた。 伝説では、このような競技は、アポローンがピュートーンの大蛇を打破したときより始まっているとされる。 それほどに古くからこの地は、ギリシアの中心として有名であった(発掘調査では、以前に遡る遺跡も見つかっている)。 デルポイは県の南岸近くに位置し、その北東わずかな地点には、これもアポローンの聖地であるが控えていた。 この山の麓には、スタディオンと呼ばれる競技場や、また劇場があり、これらの施設がピューティア大祭の際の競技の場に使用された。 競技の多様化と例祭化 以降、ピューティア大祭は4年に一度、定期的に開催されるようになる。 これは隣接するクリッサが巡礼者へ通行の重税を課した事から戦争が起こり、クリッサ粉砕後戦勝祝いに体育競技を加えて変更された背景が存在する事による。 これを通じて全ギリシア的規模で祝われた四つの競技祭の一つとなり、オリュンピア大祭(競技)の開催時期と調整して、オリンピック競技の開催年から2年後、あるいは開催予定年の2年前に、この大祭は開催されることとなった。 演奏の競技が最初に行われていたが、やがての伴奏付きのや、の演奏、フルートの伴奏による歌唱などが加わった。 更に、の上演コンクールや、や作品の朗読競技が行われ、紀元前582年以降では、オリュンピア大祭に倣って、各種の運動競技も加わり、また戦車()による競争も加わるようになった。 この戦車競技には粉砕されたクリッサの野がそのまま使われている。 月桂冠 これらの数々の競技には、全ギリシアから参加者やその見物人が集まり、の国際親善の場とも機会ともなった。 各種競技の優勝者には、の聖樹であるつまりの葉で飾られたが贈られ、これを「」と称した。 聖なるデルポイの平和 およそ三ヶ月ほど続く大祭の開催中には、「聖なるデルポイの平和」が宣言された。 この宣言で、競技参加者や観客など、大祭の参加者全員が、危険なく安全に自分の国からデルポイを訪問し、再び安全に帰国できることが保証された。 大祭の期間は、市民集会所や市場が開かれ、多数の訪問者が費やす金銀は、デルポイ市にとって大きな収入源ともなった。 また、デルポイはこの期間、各種技芸や芸術の重要な交流の場となった。 大祭と競技進行次第 チャリオット御者像 デルポイ祭競技に関する証言記録や文書類は、意図的な湮滅の暴力と自然災害の結果、ほとんどが失われてしまった。 残存している資料はいずれも、競技大会の栄誉や魅力を強調し取り上げている。 の記録によって、大祭の概略が得られる。 競技大会は6日から8日のあいだ続き、神がに打ち勝ち勝利を得た様子を再現する「聖なる競技」から始められた。 陽気で魅力に満ちた祭の進行のなかで、アポローンの神殿において「大祭の犠牲」の献納式が行われた。 祝祭の四日後、一般の競技が開始された。 音楽演奏と演劇のコンペティションは「劇場」で行われ、スポーツ競技は「デルポイのスタディオン」で開催された。 ・レースは、峨々として険阻なデルポイの山容の景観も考慮して、近くのクリサの平野で行われた。 音楽の技芸競技として、以下のものがあった。 神アポローンを扱った讃歌一編• フルートとキタラー(古代ギリシアの弦楽器)の演奏-歌唱が付く場合と付かない場合• 演劇と舞踊のコンペティション• 絵のコンペティション デルポイの競技祭は名誉ある競技であった。 競技の勝利者は、賞金を受け取るのではなく、の場合に、「オリーブの小枝」を受け取るように、「月桂樹の小枝」を受賞した(これらの小枝は冠の形にして、オリーブ冠やの形で勝者の頭上を飾った)。 時として、競争の賞品として林檎が提供され、勝利者は、象徴的な「椰子の木の小枝」をピューティア祭で受け取ることもあった。 オリュンピア競技祭でも似たようなことがあった。 特別な栄誉と称賛の贈物として、競技者たちのため、彫像がまた捧げられた(の地で発掘され出土した「チャリオットの御者像」は、このような競技の勝者の栄誉のために制作された像とも考えられる。 右図参照)。 とはいえ、勝利者が自身の故郷のポリスで受け取る名声は、何にも較べがたく価値があった。 各ポリスは、その代表である競技者が、競技祭でできる限り優れた成功を収めることができるよう、あらゆる手を尽くし援助を惜しまなかった。 ピューティア大祭の終焉 紀元、との皇帝であるが、ピューティア大祭をその非キリスト教的な性格故に異教神殿破壊令を出し禁止、そして神域の崩壊に至る。 ここに、1千年近くにわたって継続していた大祭と、それに付随する全ギリシア的競技大会は終焉した。

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デルポイの聖域

ギリシャ - 観光 デルフィは、ギリシャ中央地方にそびえるパルナッソス山麓の中腹に位置する小さな町で、古代ギリシャ文明の時代には都市国家 ポリス があったことで有名です。 デルフィは、ギリシャの首都アテネより西北へ約120キロのところにあり、アテネよりバスで約2時間半かかります。 デルフィ市の中心部アンフィサより南東へ約11キロ離れていて、郊外はオリーブ畑が一面に広がっています。 古代デルフィの遺跡は、「デルフィの考古遺跡」という名称でギリシャの世界遺産に認定されていて、中心部よりデルフィィ遺跡まで徒歩圏内と、観光アクセスも良好です。 古代ギリシャの色が濃く残る遺跡を間近で見られるデルフィでおすすめの観光スポットをご紹介します。 様々な伝説が残る聖地の遺構を、五感で体験してみませんか?• ギリシャ - 観光 ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国で、日本の3分の1ほどの大きさがあります。 ギリシャ神話や古代アテネの遺跡といった観光スポットが有名な通り、国内には様々な世界遺産や紀元前に作られた歴史的建築物が点在しています。 特にアテネにあるパルテノン神殿をはじめとるす遺跡群は、素晴らしい技術と芸術性をもった貴重な文化遺産。 西洋文明の源流とも呼ばれ、多くの観光客が訪れています。 昨今では歴史的な景色に加え、インスタ映えするカラフルなショップも増えてきている魅力的な国です。

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デルポイの聖域

デルフォイ(デルフィ)は、中部のにある聖域。 アポロン神殿があり、神殿の巫女の口をかりて伝えられる神託(神の預言)は、すべてのギリシア人()にとって真実のものと尊ばれ、人々の運命とポリスの命運を左右するものとされた。 そのため、殖民の可否や戦争など、ポリスの重要な決定はこの神託によってなさるようになった。 アポロン神の神託 デルフォイでのアポロン神の神託は、前590年から始まり、特にが始まると、植民の前にデルフォイの神託をうかがうことが慣行となり、そのため植民に関する情報センターなような役割を持つようになった。 この神域の運営は、周辺の部族のがあたっていたが、多数の奉納物が富となっていたので、時にその管理権をめぐってポリスが争うこともあった。 現在もアポロン神殿をはじめとする遺跡が多数残され、隣には博物館が建設されている。 <桜井万里子『ギリシアとローマ』1997 世界の歴史5 中央公論新社 p. 59~> 「汝自身を知れ」 デルフォイのアポロン神殿の入口には、「汝自身を知れ」という有名な格言が掲げられていた。 また、「分を越えるなかれ(過重なことを求めてはいけない)」と「無理な願いはしてはいけない」といった意味の言葉も掲げられていたという。 やなどの七賢人として知られる知者たちは、「ともに相会してデルポイの神殿におもむき、かの万人の口に膾炙している『汝みずからを知れ』『分を越えるなかれ』という句を書きしるし、もってこれを彼らの知恵の初物(はつもの、捧げ物の意味)としてアポロンに奉納している」 <プラトン『プロタゴラス』岩波文庫 p. 107> デルフォイの神託と七賢人 前5世紀の後半、アテネで活動していたは、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の真理に至ったとされている。 真理の探究にもデルフォイの神託が用いられたことは、それ以前にも例があった。 引用 ソクラテスの晩年から数えて、およそ二百年の昔に、七賢人の間で黄金の鼎を譲り合ったという、有名な話がある。 一人の青年がミレトスの漁夫から、魚を一網買い取る約束をして、さて網を引き上げてみると、中から黄金の三脚鼎が出てきたというのである。 そしてその所有について、物言いがつき、なかなか解決しなかったので、ついにこれをデルポイのアポロンの裁断にゆだねることになった。 すると、その神託には、「智慧において万人に勝る第一人者」が、この鼎を取るべきであるという答が出たのである。 そこでその品は、ミレトスの賢人の許に届けられた。 しかしタレスは、これを辞退して、他の賢人のところへもって行かせた。 そしてそのようにして、その鼎は、譲り合いによって、七賢人の間を廻り、ついにのところにもって来られることになった。 するとソロンは、「神こそ智において第一の者である」と言って、これをデルポイの宮に送らせたというのである。 <田中美知太郎『ソクラテス』1957 岩波新書 p. 133-134> 七賢人についてはの項を参照。 デルフォイの神官プルタルコス 帝政ローマ時代に、ギリシア・ローマの様々な人物を比較して論じた『対比列伝』(英雄伝)で知られるは、ギリシア人であった。 彼の頃は「デルフォイの神託」はすっかり衰えていたが、それを嘆いた彼は、自ら最高神官となって神託を復興させようとした。 彼が「最後のギリシア人」と言われる所以である。 <村川堅太郎ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p. 185>.

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