たとえ 明日 世界 が 滅亡 しよう とも 今日 私 は リンゴ の 木 を 植える。 夢も希望もない

11月10日。マルティンルター「たとえ明日、世界が滅びようとも、私は今日、リンゴの木を植える」|久恒 啓一|note

たとえ 明日 世界 が 滅亡 しよう とも 今日 私 は リンゴ の 木 を 植える

修道士になるも大きな悩みを抱く 今までと全く違った修道院の生活にもすぐに適応したルター。 しかし厳しい修行を行い、聖書を読み、祈りを捧げても 心に平安は得られることはなく、悩み続けていました。 そんな悩みの中でも修道士として 大学で神学や哲学を教え、 神学教授としても活動するようになります。 また同時に当時のカトリック教会で盛んに販売されていた 免罪符(罪を軽減する証)などの観念的な信仰や腐敗した組織体系にも強い疑問を持っていました。 そんな時、聖書にあるロマ書を読んだルターは「 人は善行ではなく信仰によってのみ義とされる。 」「 人間を義とするのは、すべて神の恵みであるという」という悟りを得て、長年抱いていた悩みから解放されました。 免罪符を批判し宗教改革へ そして1517年にルターは宗教改革の発端とされている「 95か条の論題」を発表し、そこで 免罪符を堂々と批判しました。 ラテン語で書かれたこの文章はすぐにドイツ語に翻訳され、国中に広まり、ルターと同時期に教会に不信感を持っていた人たちの心に火をつけるものとなりました。 1521年にルターは正式にカトリック教会を破門されますが、宗教改革の動きは止まることなくヨーロッパ各地にまで広がり、その後カトリック教会から プロテスタントへの分離へと繋がっていきました。 現在世界で22億人以上の信者を持ち、世界最大の宗教とされているキリスト教。 そんな巨大宗教の分岐点となり、その後の 人類思想や文化にも多大な影響を与えることとなったマルティン・ルター。 最後は自身の故郷の村で62歳の時にその生涯を終えました。 ルターが生まれたのは現在のドイツに当たる地域でしたが、当時のその地域は 神聖ローマ帝国が支配しており、それはドイツだけでなくチェコ、オーストリア、イタリア北部を含む 巨大国家でした。 そしてそのローマ帝国の国教となっていたのが、 ローマカトリック、キリスト教だったのです。 しかし権力があるところにはどこにでも黒い欲望が渦巻いており、教会では 聖職者の堕落行為や 免罪符による経済活動による腐敗が起こっていました。 その時、そこにメスを入れたのがルターでした。 多くの人が不満を持ちながらも行動を起こせない中、彼は 自分の信じる信仰を貫き、大きな変革を起こしたのです。 ルターの行動は腐敗したキリスト教から離れ、それとの関係を断つのではなく、 教会の変化を願うものでした。 それは彼が心から信仰を持ち、 未来のキリスト教に希望を持っていたからでしょう。 それはルターの「 希望は、強い勇気であり、新たな意志である。 」という言葉からも感じ取ることができます。 明日に希望を持ち続けていた人。 それがマルティン・ルターという人でした。 今回のルターの名言で心に残ったのが「 誰が正しいと言おうとも、自分の良心に反するのならば、それは正しくない。 」という名言でした。 国の宗教となっていたカトリック、キリスト教。 また宗教という特性上、それはまず「 信じること」から始まります。 ルターが強く疑問を呈した免罪符も、お金を払うことで罪が軽減されるというもので、 人々はそれを信じ購入していたのです。 しかしルターは自分自身の心が悔い改め、善なる行いをしないかぎり罪はなくならないと考えました。 反省の心もなく、 ただお金を払うことのみ で 罪が消えるといことへの矛盾を強く感じたのです。 そしてルターはその免罪符に異を唱え、その主張は多くの人の心を動かし大きな変革へと繋がっていったのでした。 当時のローマで免罪符は人々の中の「 常識」であったことでしょう。 しかしルターによりその価値観が変わっていったように、 常識とは時代とともに変化していくものです。 今現在、常識とされているもの。 まわりが良しとしているもの。 それをただ単に流され受け入れるのではなく、 まず疑い自分の頭で考えてみること。 それが何事にも本質を求め、 次なる変化を起こす上でとても大切なことなのだと、ルターの言葉に触れて感じさせられました。 自分の心で本質を見つける 常識を疑い改革を起こしたマルティン・ルターの名言からそれを学びました。

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マルティン・ルターの名言からの学び。[今の常識を疑え]

たとえ 明日 世界 が 滅亡 しよう とも 今日 私 は リンゴ の 木 を 植える

たとえ明日、世界が滅亡しようとも 今日私は桜の木を植える Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my cherry blossom tree. 即便世界明天就要毁灭, 我仍然要种下一棵小樱花树。 即便世界明天就要毀滅, 我仍然要種下一棵小櫻花樹。 変わることに人間は恐怖を覚える Man fears change. 人们恐惧变化的事物 人們恐懼變化的事物 何故なら変わらないことに 美しさがあるから Because there is beauty in things that are constant 是因为不变的事物中蕴含着美 是因爲不變的事物中蘊含著美 私たち人間は、今、 変わらなくてはならないのだろうか Now, must we change? 人类现在必须要作出改变吗? 人類現在必須要作出改變嗎? 変わらない美しさがここにはある There is unchanging beauty here. 不变的美,就在这里。 不變的美,就在這裏。 だから、たとえ明日、 世界が滅亡しようとも 今日私は桜の木を植えようと思う Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my cherry blossom tree. 所以,即便世界明天就要毁灭, 我仍然想要种下一棵小樱花树。 所以,即便世界明天就要毀滅, 我仍然想要種下一棵小櫻花樹。 世界が元気を取り戻すその日まで。 またここで会いましょう。 Once the world recovers, Let us meet here. 等世界恢复了活力,我们再在这里相会。 等世界恢復了活力,我們再在這裏相會。

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「たとえ明日、世界が滅びようとも……」

たとえ 明日 世界 が 滅亡 しよう とも 今日 私 は リンゴ の 木 を 植える

世界の偉人の名言を日本語に翻訳すると、たまに、微妙な部分の翻訳によって、名言の印象が変わってくると思うのです。 ドイツの宗教家、マルティンルターの名言 「 たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。 」と、一般には翻訳されています。 英語での原文は以下のとおりです。 Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree. この原文を日本語に翻訳するにあたっては、バリエーションがいくつか考えられます。 一番、原文に近く翻訳すると たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植え続ける。 という訳し方ができます。 一般には、この名言は、「リンゴは実をつけるまでに数年かかる植物であるから、明日に世界が滅びるのであれば、今日植えたリンゴを収穫することはできないから無意味ともいえる。 しかしながら、リンゴを収穫できるかどうか、という損得で考えているのではない。 リンゴを植えるという生産的な行為をすること自体が人間の心に喜びをあたえるのだ。 したがって、世界が滅びようがどうしようが、私は、今の喜びのために、リンゴを植えるという生産的なことをするのだ」 という解釈がされることが一般です。 マルティン・ルターは、ルター派プロテスタントを新しく興すという、宗教改革をおこなった偉人です。 自分の改革運動が成功するかどうか、ということが当然、気になったと思います。 しかし、改革運動が成功するかどうかという、結果だけが重要なのではないということです。 成功することだけが大事なのだとすれば、もし改革運動が失敗したら、その運動は価値がなかったということになるのでしょうか? そういうことではない、とルターは思ったはずです。 成功するか失敗するかは考えず、自分は「宗教改革」という正しい行動をしている、その「行動をしていること」自体を喜びと考える、という心意気が伝わります。 後半に「今日」を入れるか 原文には、「 今日私はリンゴの木を植える。 」という「今日」に対応する表現はありません。 ですから、「今日」という言葉を入れたのは翻訳者の創作なのですが、日本語の表現としては、「今日」を入れたことで、文意が引き締まった感じがあります。 たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植え続ける。 たとえ世界が明日滅びると知っても、今日、私は、リンゴの木を植え続ける。 「明日」と「今日」が対比されることで、文章の意味が少々違ってくるように思います。 たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植え続ける。 という文章の場合には、今日とか明日とかの話ではなく、過去から続く慣習的な行為に着目していることになります。 一方で、 たとえ世界が明日滅びると知っても、今日、私は、リンゴの木を植え続ける。 という文章の場合には、過去から続く慣習的な行為ではなく、「今日の自分の意志」「今日の自分の気持ち」という、「今日」に着目した表現になってきます。 どちらが正しいというわけではありませんが、「今日」を入れるか入れないかで、着目するポイントが違ってきます。 リンゴの木を「植える」か「植え続ける」か 英語の原文には「still」が入っていますから、文意に則すると、 たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植え続けるだろう。 と翻訳することが正しいのでしょう。 stillには「今までと同じ状態」「今までどおり」という意味があります。 しかし、「植え続ける」ではなく「植える」をあえて使う例もあります。 たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植えるだろう。 ただ、これだけだとなんとなく、後半の文意がわかりにくくなります。 そこで、「今日」を入れて たとえ世界が明日滅びると知っても、今日、私は、リンゴの木を植えるだろう。 とすると、「明日に世界が滅びるとしても、リンゴの木を植えるという生産的な行為をするという決意」という意味が明確になってきます。 「知っていたとしても」のあつかい方 たとえ世界が明日滅びると知っても、 というと、世界が滅びるのは確定事項ということになりますが、 たとえ世界が明日滅びるとしても、 と翻訳すると、世界が滅びることは、あくまで仮定の話、想像の話ということになってきます。 ただ、文章全体からすれば、世界が実際に滅びるかどうかは、わりと枝葉の問題であって、要は、自分の気持ちのうえでの覚悟が重要な問題となるので、 たとえ世界が明日滅びるとしても、 という表現の方が語呂がよいので、こっちでいいのではないでしょうか。 まとめ Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree. の翻訳の仕方には、2とおりあり得る。 一つは たとえ世界が明日滅びるとしても、私は、リンゴの木を植え続ける。 という、過去から続く慣習的な行為の大事さを強調する翻訳。 もう一つは たとえ世界が明日滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える。 という、「今日」の行動を着目することで、リンゴの木を植えるという生産的な行動をすること自体の貴さを強調する翻訳。 どちらも良い訳だと思います。 元のルターの本心としては、宗教的な意味も込めて前者の翻訳が近いのかもしれませんが、現代に生きる私たちとしては、「今日」の心に直接関係してくる、後者の翻訳の方が、 心に響くように思います。 そこで、最後にもう一度。 たとえ世界が明日滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える。

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